日露戦争とチンタオ戦俘虜の比較検討 ―
名古屋の事例 ―
チンタオ戦の俘虜取扱いは、一般には「人道的だった」という理解で通っている。事実私もそうだと考えているが、実はチンタオ戦から約10年前の日露戦争当時の俘虜取扱いも基本的にはその方針だった。この程名古屋地区の様子を研究した報告書を読んであらためてそのことを知った。例の「マツヤマさーん」と叫びながら手をあげて投降するロシア兵俘虜の話は有名である。日本の「人道的」取扱いは一般論としては承知していたが、地元の名古屋地区の研究報告を知って関心を深めている。名古屋地区のチンタオ戦俘虜を語る時には、合わせてロシア兵俘虜取扱いにふれることは意義があるように思う。日露戦争当時の名古屋にいたロシア兵俘虜の研究論文に堀田慎一郎氏の「日露戦争のロシア軍捕虜と愛知県 ― 名古屋を中心に ― 」(「愛知県史研究」第八号 2004)があることを知った。以下堀田論文を参考に私見によるチンタオ戦当時と日露戦争当時との共通点と両者の相違点を掻い摘んで指摘しておきたい。(注:堀田慎一郎氏は名古屋大学国史学専攻卒 歴史学博士 現在名古屋大学文書史料室助教
堀田論文のロシア兵俘虜についての情報源は当時の「扶桑新聞」の記事が多い。 ここで提示する私見の日露戦争時俘虜の認識は堀田論文の記述に基づいている)
共通点:
1.明治32年(1899)の第1回ハーグ条約で採択された「陸戦法規」が規準になっていた。これを遵守する方針は日露からチンタオまで俘虜取扱いの基本であった。
2.俘虜受入れにあたって、陸軍と行政ともに市民が俘虜に対して侮辱的な言動をとらず紳士的で大人の対応をとるよう望んだ。「列強に比肩しうる一等国の国民に相応しい誇りと矜持」を喚起した。(堀田論文を要約すると、名古屋収容所委員長の東常久中佐は俘虜侮辱の言動を戒め、「文明国民」としての 態度を堅持し「文明的大都会」名古屋の体面を汚さないよう注意を喚起した。青山朗名古屋市長は各町の総代に、俘虜への侮辱的行動は「市の不面目」であり、列国からは非難をうけるので、厳重な注意を徹底した。)
3.日露戦当時軍部は俘虜の日常の消費活動は、名古屋市民の商業的効果にプラスになることを期待した。実際は期待ほどではなかったと堀田論文は記している。一方チンタオ戦当時の軍部は俘虜の就労による工業生産の発展、国力の充実を期待した。こちらは顕著な実績を上げた。しかしいずれも当初の期待は「富国強兵」の観念から出ているようにみられる。
4.市民の俘虜慰問や見舞を奨励した。日露戦争時は名古屋にきたロシアの将官級の俘虜を「歓待」するニュアンスが強い。チンタオ戦時は新聞社の主催する見舞慰問行事もあって新聞報道は一般への宣伝効果の役割を果たした。寄贈者名の記載や慰問団体の行動が記事になった効果も大きいとみられる。
相違点:
1.名古屋のロシア兵俘虜の人数は戦争終結時が最も多く約3,800名に対して、ドイツ兵俘虜は閉鎖時約500名と少ない。抑留期間は前者が約1年2ヶ月と短く、後者は約5年と長い。ロシア兵俘虜の収容施設は市内8箇所の寺院と一つの独立専用収容棟(千種収容所)に分散していたのに対して、ドイツ兵俘虜は寺院(東本願寺別院)と専用収容施設との違いはあるが、いずれも1ヶ所にまとまって収容された。
2.一番大きな相違点は俘虜の所外就労の有無である。ロシア兵俘虜は所外で労働したことがない。また芸術やスポーツの面で市民との交流の話はない。それは抑留期間が短いことや俘虜の教養文化レベルの相違の反映でもあろう。ドイツ兵俘虜は名古屋市とその周辺で彼等の特殊技能を活用して地区の産業発展に大いに貢献した。芸術やスポーツの面では報酬はないが、ボランティア活動で限定された場所と観衆に鑑賞や見学の機会を提供した。ドイツ兵俘虜と市民との親善交流の場は多かった。新聞報道の記事は結果的に多くなる。
3.俘虜の階級差は待遇の差や規則取締りの強弱の面であらわれている。将校と下士卒の間にその差があげられる。特に名古屋はロシア軍の将官級の俘虜が中将をトップに8名も収容された(内地抑留将官の7割)ことがその差を大きくしたのかと思われる。ドイツ兵俘虜の場合は中佐が最高指揮官だった。ドイツ兵俘虜の場合も階級差による待遇や規則取締の格差はあった。処罰記録をみると将校と下士卒との間にその格差がみられる。しかしロシア兵俘虜の場合のほうが俘虜菅理(外出の自由度など)の面でドイツ兵俘虜より階級差が大きかったようにみられる。処罰の階級差による両者の相違は具体的にどの程度であったのか、その詳細はさらに今後の課題である。
4.ロシア兵俘虜の記録資料(新聞記事)で目立つのは遊興の面である。遊興は松山が有名であるが、名古屋でも(豊橋を含めて)ロシア兵俘虜の遊興はかなり開放的で自由であった。そのため抑留の後半時期には市民からロシア兵俘虜への非難や侮蔑の言動が多くなった。チンタオ戦俘虜の場合はその反省があったのか、この種の非難の世論(報道記事)はない。名古屋の場合は、唯一就労中のドイツ兵俘虜が従業員の手引きで工場を無断抜け出して市内で飲食した後、大須の遊郭で遊びタクシーで帰社したという名古屋俘虜収容所の公式記録があるのみである。
(注:遊興の記事は読者の目をひくので購買上新聞社が意識して選んだものかどうか。またチンタオ戦当時名古屋では日常実際はどうであったのか。この種の情報統制はあったのかなかったのか。確認できる記録(新聞記事)の有無だけの問題ではないかも知れない)
以上の報告は精査すれば訂正や補足すべき点があろうが、チンタオ戦と日露戦争両方の俘虜取扱いの比較検討にいささかでもその意義がみつかれば幸いである。