フンツィカー牧師の収容所巡回報告

翻訳 井戸慶治

 

はじめに

ここに訳出するのは、ベルリンの連邦公文書館の外務省文書R901/84615の中にある、スイス人牧師フンツィカー(Jakob Hunziker)による収容所巡回旅行(第5回から第7回まで)についての報告書である。今のところ訳者が見ることのできたのは、上記3回の巡検報告のみであるが、Kleinは、フンツィカーの報告書が9通あり、おそらくそれと同じ回数の巡回旅行がおこなわれたのだろうと述べている[1]。これらの報告書は、フンツィカー牧師在東京スイス公使館(スイス政府・外務省)在ベルリン・スイス公使館ドイツ政府・外務省(ドイツ陸軍省・海軍省)という経路で伝えられたものである。第5回巡回旅行の報告書に付された在ベルリン・スイス公使館の外交口上書には、これが在東京スイス公使館より「非公式かつ内密に」(inoffiziell und vertraulich)伝達されたものであり、その理由は、「フンツィカー牧師が公使館の代表として収容所を訪れたわけではないから」と書かれている。聖職者として各収容所を訪れ、説教や礼拝などの宗教的行事をおこなうことが彼の表向きの仕事であり、上記のような報告は公にはできなかったと考えられる。訳者の知る他の収容所巡回報告[2]と比較すれば、この報告書の特色としては、次のことが挙げられる。第一に、フンツィカーは収容所のみならず、各地の刑務所や陸軍病院に収容されている捕虜たちも訪問している。第二に、収容所全体の雰囲気(Stimmung 時には「気分」とも訳したこの言葉が多用されている。)や、帰国を願う捕虜たちの気持ち、捕虜特有の精神疾患、いわゆる鉄条網病(Stacheldrahtkrankheit)の症状など、捕虜たちの精神状況にもしばしば言及している。第三に、かなりの収容所に対して批判的であり、それゆえか収容所管理部との関係はあまり良好ではなく、時には小さなトラブルに巻き込まれていることが読み取れる。

 

収容所にかかわった聖職者たち

 ここで、第一次大戦時の日本におけるドイツ・オーストリアの捕虜たちに関与した聖職者たちについて、概略を述べておく。「ハーグ陸戦条約」とそれにもとづいた日本側の規定「捕虜取扱規則」では、捕虜の信仰の自由は基本的に保障されており、軍や警察の規則にのみ従えばよいことになっていた[3]。その規則の一例は、礼拝など集団でおこなう行事のみならず、例えばカトリック教徒による個人的懺悔のさいにも通訳がつねに同席するということである。聖職者が捕虜と二人だけになることは、病院で瀕死の捕虜を見舞った場合など、わずかな場合に限られていた。日本側は、検閲を逃れたいわゆる「秘密通信」に警戒していたと思われる。

捕虜の中にも従軍宣教師がいたが、彼らは収容所以外の土地に行くことはできず、日本側からはあくまで軍人・捕虜として扱われた。例として、板東収容所で四国において死亡した捕虜たちのための記念碑の聖別をおこなったヴァンナクス(Martin Wannags)[4]が挙げられる。久留米収容所にも、捕虜たちの中に二人のプロテスタントの宣教師と二人のカトリックの宣教師がいて、病人の世話などにも従事していたようである[5]

日露戦争時との差異についても述べておく。日本ハリストス正教会の指導者であったニコライは、日本とロシアの戦争中にも両国の融和に配慮し、その指示もあってロシア兵捕虜のために日本人司祭が祭式をとりおこない、日本人信者たちも彼らと交流を持った[6]。しかし、第一次大戦時の捕虜に対する日本人聖職者の活動については知られておらず、新旧両派とも欧米人の聖職者のみ活動していたと思われる。Kleinは、日本にもキリスト教徒は若干いたのに、その聖職者や信者が何の役割も果たしていないことに疑問を呈している[7]。上記の日露戦争との差異や疑問に対しては、次のように答えることができるのではなかろうか。ロシア兵捕虜の中に数多くいたロシア正教の信者に対応するのに、この宗派の外国人(ロシア人)聖職者はカトリックやプロテスタントに比べれば非常に少なく、特に日露戦争中にはニコライただひとりであったので、日本人聖職者に頼らざるを得なかった[8]。また、日露戦争のさいにも、捕虜に対処したカトリックやプロテスタントの聖職者は欧米人であった。このことからすると、日本側当局は、少なくとも公には捕虜と日本人市民との親密な交流をできるだけ避けたかったように思われ、それが第一次大戦時にはいっそう推し進められたように見える。このような方針は、自国軍人に捕虜になることを恥と教える日本軍の方針、およびそれに沿った「国民教育」(この言葉は捕虜にかかわる公文書や新聞などに幾度も見られる。)の観点からであったかもしれない。

次に、聖職者の活動を、比較的それがわかりやすい板東収容所について見てみよう。捕虜新聞「ディ・バラッケ」の月ごとの催しの記録である「収容所日誌」(Lagerchronik)には、聖職者の来訪も記されている。それによれば、聖職者の訪問回数は、19174月から191910月までの31ヶ月の間に、カトリック25回、プロテスタント20回、計45回で、月平均1.45回となる。この間訪問のない月はなく、新旧両派とも間隔が適当に空いていることから、聖職者たちが連絡を取り合い、計画的に訪問をおこなっていたと考えられる。カトリックの神父には、アルバレス(Jose Alvarez)とフィンガー(Finger)がいる。このうちアルバレスは、徳島市の教会から、オーストリア人のフィンガー神父は、金沢市から来ていた。プロテスタントの牧師としては、シラー(Emil Schiller)、シュレーダー(Emil Schröder)、フンツィカー、ネアンダー(Neander)が訪れている。はじめの三人は、いずれもドイツ・スイス系の伝道団体「普及福音新教伝道会」(der Allgemeine Evangelisch-Protestantische Missionsverein)[9]に所属し、シュレーダー、フンツィカーは東京小石川から、シラーは京都から来ていた[10]。ネアンダーはスウェーデン人であり、赤十字の仲介で活動していた。彼は19181月に、実際に見てきたシベリアの捕虜やドイツの状況に関してドイツ語による講話を各地でおこなったが、それが捕虜たちに感銘を与えたことが彼らの記録から読み取れる[11]。上記のうち、アルバレス神父以外の人々は、全国の収容所を回っていたと思われる。

 

フンツィカー牧師について

これらの聖職者は、その活動内容という観点から、礼拝や説教など、宗教的な行事のみおこなった人々(アルバレス、フィンガー、シラー)と、それ以外の活動、すなわち各収容所についての調査と外国機関への報告、日本側への請願、さらには捕虜の書簡の規則外の持ち出しなどもおこなった人々に分けることができる。例えばネアンダーは、報告書を書いて在日ドイツ人の捕虜支援団体である「東京援助委員会」に伝達し、他にも捕虜のためにさまざまに尽力したが、日本側からスパイと疑われ、国外に退去させられ、朝鮮で拘留もされている[12]

特にフンツィカーは、これらの聖職者の中で「最も活動的」で、日本側のきびしい規制にもかかわらず、宗教的使命を越えて捕虜を助けたとされている[13]。彼は、収容所を訪ねる前にその地にいた捕虜の妻たちに会って情報を求めたり、寄付金を渡したり、捕虜からさまざまなものの注文を受けたりしている。また、陸軍省など収容所の上位の部署に捕虜から聞き取った苦情や要望を伝え、すぐに聞き届けられることはなかなかなかったが、報告書の中にはその手ごたえを感じている箇所も見られる。第一次大戦時の比較的良好であった日本による捕虜待遇の中で、捕虜たちや中立国代表などによく批判されている点は、特に逃亡未遂に対する罰が重すぎることと、重症の傷病兵の返還がなされなかったという点である。フンツィカーは、特に後者の点でさまざまな試みをおこなっているが、結局その努力は実らなかった[14]。また彼は、説教の後で将校たちや一部の兵卒と話をする機会をいくつかの収容所で与えられているが、第7回巡回旅行(静岡)では、上からの指示で特別許可証なしの面会禁止が通達されていたとあり、捕虜との会話が取りやめになったところもある[15]。このときは、刑務所や一部の病院への訪問も禁止になっている。

以上のことからすると、フンツィカー牧師は、捕虜にとっては現実の収容所生活の改善に貢献してくれるありがたい人物であるが、収容所管理側にとっては「あらさがし」をし、規則を軽んじる扱いにくい人物と見なされていた、ということになるだろう。今回は、フンツィカー他、収容所を訪れた聖職者たちについて、日本側の一次資料に当たる余裕がなかったが、今後の課題としたい。

 

 

5回収容所巡回旅行(19174月末―5月初め)

に関する短い報告

 

 前回の報告以降、収容所について若干の移動があった。

1.大阪収容所は廃止され、広島市近郊の港湾にある小さな島、似島に移された。大阪には、刑務所の収容者たちと、故国への送還を依然として待っている傷病兵が残されている。

2.四国の町、徳島、丸亀、松山にあった三つの収容所は、徳島近郊の板東[16]村にある収容所に統合された。

 

 この移転の効果については、またのちほど触れることにする。

 収容者たちの健康状態は、前と同様非常に良好である。久留米にいるモスレーナー大尉は重病だと感じたが、彼がこのために斃れるのではないかという心配が現実のものとなったかどうかはわからない。各所の傷病兵たちに強く求められたのは、故国への送還か療養所への移転による、現状からのすみやかな救済である。この件ですでにしばしば尽力してくれた公使に、彼らの願いを伝えた。この人々の希望の実現が徐々に延期されている理由を、残念ながら彼らに伝えることはできなかった。久留米と似島で天津に妻がいる人々は、不穏な情勢のゆえに彼女たちの青島への帰還が許可されることを望んだ。スイス公使はこの件も引き受けてくれた。

 

似島

 この島は広島湾の島々の中にあって、すこぶる美しい。空気のよさは申し分なく、夏の暑さは大都市大阪よりもはるかにしのぎやすいにちがいない。残念ながら、将校たちの気分はむしろ前の収容所より悪くなっているようだ。彼らは、最近強要されたことにひどく失望していた。島には多くの土地があるのに、使ってよい所はずいぶん制限されているのである。高く黒い板塀が、収容所から外への眺望をさえぎっているので、捕虜たちは海を見ることが全然できないのだ。バラックの数は非常に少ないので、授業や集会の目的に使う余地はもう残されていない。これに対する捕虜たちの不満は、塀の外にまだいくらか未使用のバラックがあるだけに、十分納得できる。収容所の所長は公正ではあるが、厳格で細かい点にうるさく、友好的な待遇はなかなかできないようだ。私はかなりの時間将校たちと話をすることを許され、通訳がそばにいなかったので、彼らは苦情を訴える機会を持つことができた。非常に残念なのは、大阪のときと変わらない管理部が、新しい収容所の建設にさいして先を見越した措置をとるのを怠ったことである。

 

徳島近郊の板東

 現在は1000人足らずの捕虜がいるこの収容所の所長は、かつての徳島収容所の司令官である。先の報告で指摘したように、徳島収容所での捕虜待遇はあらゆる点で最も好意的であった。この人道的態度は、今や板東でもよい影響を与えている。到着後すぐに聞いたところでは、他の二つの収容所、丸亀と松山からの捕虜たちは、新しい境遇にほんの数日で変わったということだ。不機嫌や抑圧された気分は完全に消えたそうである。将校たちには広いスペースがある。かなり大きい二つの池は、春は彼らの水浴場として役立つことができる。兵卒たちにも十分な場所がある。似島とは異なり、ここにあるすべてのバラックが使用でき、鉄条網つきの垣根で取り巻かれているだけである。それで、遠方の谷を見上げたり見下ろしたりすることができる。囲いは収容所のそばの山の中腹まで伸びているので、捕虜たちは、そんなに遠くない海まで見はるかすこともできる。私が行ったとき、所長はちょうどドイツ人の先任将校に、予定されている並木道のために一本の木を贈ったところだったが、彼とこれらの計画について話をしていた。徳島から来た捕虜たちもここが非常に気に入っている。もっとも、収容所が大きくなったので、これまでの気安さは幾分なくなってしまったが。日本人との付き合い方をよく心得ている徳島組の先任将校デュムラー大尉は、この一年間気疲れするようなさまざまな出来事に悩んでいたが、ここに来て事態はずっと改善され、厄介なことはほとんどなくなったとのことだった。

 

九州の収容所

大分

ここでは所長が代わったが、それでも収容所の以前のよい雰囲気は変わっていなかった。新しい所長は非常に友好的な人物で、彼のもと、捕虜の将校たちは快適に感じている。兵卒たちはというと、彼のことを前の所長より少し杓子定規だと思っている。それは、彼が前所長ほど特別散歩を認めようとしないからである。

 

久留米

残念ながらここでは、所長が代わっても変化は起こらなかった。収容所は相変わらず狭く、雰囲気はよくなっていない。

 

福岡

将校の収容所についても、特に言うべきことはない。総督は溌剌として元気そうに見えた。しかしL. ザクサー海軍大佐は幾分つらそうで、これはもしかすると彼を特に動揺させたはずの悲劇の影響かもしれない。というのも、彼はあの痛ましい出来事の後始末を特にしなければならなかったからだ[17]

 

本州の収容所

青野ヶ原

この収容所については特に述べるべき点はない。ここでは将校たちと話をする機会がわずか数分しかなかったが、彼らのうちの誰も不平を申し立てようとしなかった。収容所の状況が概して満足できるものになっている証拠であろう。

 

名古屋

前に述べたことが今回も当てはまる。ここはかなりよい収容所のひとつであるように思われる。兵卒たちはきれいな花畑を作り、数人の将校が建てていたいくつかの四阿は、花壇に囲まれていた。それで、この収容所はかなり好ましい印象を与える。

 

静岡

ここの状況は、司令部が新しくなってもまったく改善されなかったようである。今回は、将校たちと少し話をすることが許されるところまでこぎつけた。しかし、その許可はしぶしぶ出されたもので、相談は宗教的な事柄に関するものでなければならないとされた。いずれにせよ収容所の狭さに苦しまなければならない捕虜たちは、当然それだけますます狭量に扱われていると感じており、この状況は彼らにとって相当耐えがたいものだ。

 

習志野

この広くて良好な収容所については、前回報告したことが依然としてあてはまる。

 

刑務所

四つの町で刑務所の収容者たちを訪ねた。彼らの健康状態は良好であった。孤独と、まったく不慣れでほとんど不十分な食事が健康にかなり有害であるということは、容易に想像できる。それゆえ、母国語で話をする機会を再び得ることができるなら、それは収容者全員にとって大きな恵みである。福岡では、収容者のひとりが神経を完全にまいらせていて、その結果消化不良にも苦しんでいた。所長は博愛主義的な人で、この収容者のために特別な食品―とりわけミルク―を与え、これ以上ひとりでいなくてもよいように、捕虜仲間のひとりがいっしょにいてもよいという許可を与えた。高松では、一月に非常に不十分な食事に苦しんでいて体の不調にも見舞われていた捕虜が、ずっとよい状態になっていた。彼が言うには、この前私が来たときよりも五割増しの食事がもらえていて、苦痛もなくなったとのことだった。一月以来、さまざまな問題に対処できるような者はひとりもこれらの捕虜たちを訪ねていなかったので、あのときの私についてのイメージが役に立ったようである。もうひとりは、きびしくされた罰に耐えねばならなかったが、それは彼が、キリスト教の祭日に働くことを拒否していたからである。彼は、収監のさいに提示された規定を引き合いに出したが、管理部はそれを取り上げなかった。そこで彼が提出した苦情書も、彼が告げられたところでは、他の部署に回されることはなかった。それで彼は再び仕事を拒否し、苦情書が陸軍省に手渡されるまでのあいだ、「ストライキ」をするつもりだった。当然のことながら、またもや罰がきびしくなった。食事の量が減らされ、四日のあいだ、三分の二になった。5日目で罰が終わったわけではなく、一カ月間、手紙を書くことを禁じられた。労働拒否を続けたことが当局の怒りを買い、処罰による威嚇がさらに続いた。いかなる拒否も無益であり、彼にとっては不愉快な結果を引き寄せるだけだということを、私はこの若者にわからせることができた。別れにさいして彼は、労働を再開することを約束し、この件について話をすることができたのは非常にうれしかったと述べた。

 広島にいるあるオーストリア人将校は、4カ月の短い禁固を科された。彼は、大阪収容所から似島への移転のさいに、写真撮影を拒んでいたのだ。彼は元気で、待遇については満足していることがわかった。

 大阪では、すぐに拘留から解放されたいという切望が弱くなっていたこと以外には、何の変化もみとめられなかった。彼らは、不平を述べる機会があったが、それを放棄した。

 

牧師J. フンツィカー、福音新教伝道会宣教師

 

 

6回収容所巡回報告に付された

スイス公使宛フンツィカー牧師の書簡

 

東京、1917119

拝啓 公使閣下

 久留米捕虜収容所の好ましからざる状況についてはすでにご存じでしょうから、ここでは言及をいくつかの点に限定してもよいと考えます。これらの点は、別方面からのある苦情に補足として付け加えることができるでしょう。捕虜たちと収容所の状態について話をすることがまったく不可能ですので、状況についての完全に明瞭で客観的な考察はきわめて困難です。捕虜たちとの十分な話し合いは、日本側からも全然許可されません。中立国の人間としては、そのようなことは理解できないことです。というのも、自由に話し合うことができれば、まったく不必要な多くの不和を取り除くことができるでしょうから。久留米収容所を不十分と見なさざるをえない第一の理由は、耐え難い狭さにありますが、これは日本にいる捕虜がほんのわずかで、場所は有り余っていることからすると不可解なことです。ここの捕虜たちは皆、自分の人生の中で、太陽の国日本に捕われていたときのことをたいへんな辛さとともに想起することになるでしょう。そして、他の収容所の状況はある面でかなり良いにもかかわらず、戦争が終わった後、日本の捕虜待遇はよくなかったと言われることになるでしょう。

 狭さと、それ以外のすでに知られている事柄の他に、次のような諸点が挙げられます。

1.収容期間の長さにもかかわらず、規定はますますきびしくなっています。逆のことを期待してよいはずなのですが。

a)   諸々の講習会が制限されました。かなりのものが完全に禁止されています。

b)   バラックにいくつかの比較的小さな破損箇所があったというので、捕虜たちからすべての大工道具が、またそれに加えて彼らが作った椅子と机も取り上げられました。かなりの制約がありますが、今はまた日曜大工が(請願ののちに)特定の場所で許可されています。

c)   理由を告げられることなく、合唱団の練習が禁止されました。体操クラブの団体練習も、もはや許可されていません。

 たいへんな憤慨を掻き立て、とりわけ戦争捕虜には権利がないという印象を喚起するのは、ほとんどの場合こうした小さな事柄なのです。特に考慮しなければならないのは、収容所の捕虜たちは、長い捕われの生活によって神経が損なわれているので、状況が少し悪いだけでもひどく苦しまねばならないということです。

2.捕虜たちをとてもいらだたせているもうひとつの点は、酒保で買うことができない食料を外から取り寄せることに対する禁止です。例えば、以前将校たちは野菜を長崎から取り寄せることができたのですが、今は酒保で買わねばならず、そこの野菜はもっと質が悪くてずっと高価なのです。この収容所では、酒保が外部の商人よりもはるかに高く品物を売っているというのは事実です。当然のことながら、特に捕虜の中の貧しい人々がこれに苦しむことになります。この収容所では、栄養不良と運動不足が少し前に突然はやった流行病の原因と考えられます。この点に関して、将校にも兵卒にも、要請によって完全な自由が与えられるようにすべきでしょう。

3.収容されている人々は、到着している郵便の配達が遅すぎることにも憤慨しています。郵便の一部は、しばしば二三ヶ月も収容所にとどめ置かれたままだということを聞けば、それも容易に理解できます。以前はこの点に関してはずっとよい状態だったと聞いています。ところが、この点でも他の点と同様、しだいに悪化していったとのことです。これらいっさいのことが示しているのは、この収容所では、所長と捕虜たちの関係がますます悪くなっているということです。

 非常に残念なことに、まさにこの大きな収容所では、捕虜にとっての状況はほとんど耐え難いものとなっています。それについて捕虜たちの方にどの程度責任があるのかは、外部からはもちろんわかりません。ただ、ここにはぜひとも状況の変化が必要なのだという印象はあります。「個人の違反行為については全員が叱責されるべきだ」という考えも、容易には受け入れられないものです。しかし、このようなモットーを、所長みずからが打ち出しているのです。そこで、約1400人の捕虜の中で何か無作法なふるまいがあれば、その責は全員が被らねばならないのです。もしもドイツ人将校たちが、兵卒たちに対する命令権を保持することが許されているのであれば、このような見解もある程度正当でしょう。しかし将校たちは、兵卒とのいかなる交渉も禁じられているのですから、実際またいかなる影響力も行使しえないのです。捕虜には酒類を飲むことが許されていますが、十分な活動の許可ということは配慮されていません。ですから、この収容所ではこうした理由により、処罰に相当することがおこなわれる危険が大いにあるということは容易にわかります。個人への処罰は非常に厳しく、それがまた、すでにたまっている怒りをますます煽り立てることに力を貸しているのです。

 いくらかの小さな改善をおこなっても、この収容所はあまりよくならないと思われます。収容所管理部と捕虜たちのあいだの不和は、結局ほとんどそのままでしょうが、それは諸々の根本的な変更によってのみ取り除くことができます。広さと散歩の機会を増やし、十分な良い食事を与え、それ以外の上述の諸点を顧慮するならば、収容所の雰囲気は当然ずっと改善されるでしょう。これ以外の方法が役に立たないのであれば、この方法で、はなはだしく不都合な状況を取り除くか和らげる試みをおこなうべきでしょう。

 

傷病兵と神経病患者

傷病兵たちは、今なお故国への移送を待ち望んでいます。しかし、この移送は、それを実行するための困難がますます大きくなっているので、ほとんど実現できそうもありません。そのような事情なので、日本政府の寛大さによって、傷病兵が、ある程度「抑留者」として平和な時を待つことのできるような、彼らのための保養地を決めてもらうことはできないでしょうか。その場合、冬が穏やかで、夏の気候も耐えやすい場所が選ばれなければならないでしょう。このような処置が傷病兵たちにいかに有益かということは、計り知れないほどです。

 神経病患者たちも、外的状況の変化をどうしても必要としていると言えるでしょう。精神的にもはや正常ではなく、その結果特別な世話を必要としている人々が、いろいろな収容所にいます。このような世話は、収容所そのものにおいては、十分に受けられないものです。これらの人々を完全な破滅から救うためには、彼らも保養地に移すことができなければならないでしょう。同じことは、長い捕虜生活の中で神経をひどく損なった人々にも当てはまります。例えば、すでに前に言及したマティーアス大尉がそうで、彼は日本にやってきたときにもう神経をやられていました。私が数週間前にこの収容所に行ったとき、彼が言うには、もうひと夏静岡で過ごさねばならないとしたら、将来どんな仕事もできないような状態になってしまうだろう、とのことでした。もし、日本政府がこの病める人々に特別な配慮をしてくれるなら、日本政府の人道的な考え方がきわめて好ましい仕方で明らかになるでしょう。

敬具

J. フンツィカー

 

 

191710月、第6回収容所巡回旅行の印象に関する短い報告

 

本州の収容所

習志野

 東京から約2時間半のところにあるこの収容所は、ここ数ヶ月変わっていない。すなわち、ここについては以前と同じく良好であると言える。にもかかわらず、捕虜生活の長く続いている影響がますます重苦しいものになっているということは、容易に理解できる。101日の早朝、東京地方で荒れ狂ったこれまでにないほど強い台風のため、古いバラックがことごとく破壊されたが、それらはさいわいもう利用されていなかった。捕虜たちによって作られていた四阿や庭園も、嵐とそれにともなう海水のしぶきによって荒れ果ててしまった。負傷者はいなかった。

 

静岡

 静岡は、日本のよくない三つの収容所のひとつである。この収容所は狭すぎ、捕虜たちの自由があまりにも少ない。しかし、苦情を訴えればやはりなにがしかの効果はあるようだ。というのも、今回は以前よりも早く、将校たちと話をすることが許されたからである。彼らはそれほどよい状態にあるとは思えない。皆現状にはひどく悩まされており、あらゆることに対して反応がますます鈍くなっている。将校のひとりが言うには、講習会において、兵士たちの根気がすぐになくなってしまうそうだ。集中力の減退を思うべきである。先任将校の大尉[18]は、ここに到着して以来かなりひどい神経障害に悩まされていたが、私は彼のために、フォン・ザリス公使殿の仲介で、精神的負担の軽減と転地が実現できるよう試みた。回答は、前者についてはもう保証されているが、患者の転地はまったく必要ない、彼の健康状態は心配には及ばないから、というものだった。しかし、彼は私との相談の中で、このまま同じ状況であとひと夏暮らさなければならないとなると、どんな仕事にも役立ちえない状態になるだろうと言った。私は、早めに彼のために申請を出してみることを約束した。

 

名古屋

 この収容所は、時が経つうちにある種の公園と化していた。捕虜たちは自分たちの費用で庭園を作り、小さな木立のあいだにささやかな庭に囲まれた小屋を建てていた。小屋の中は所有者が自分の考えでどうにでもできる。名古屋は他のほとんどの収容所よりも良好であるが、それにもかかわらず捕虜たちはなお、狭すぎると感じている。ここに私がいたとき、将校たちがすこし前に警備兵なしで外出をおこなったと知らされた。こんなことは、私の知るかぎり他のどこでもまだおこなわれていない。それゆえ、収容所の状況は悪くなっておらず、相変わらずここは最上の収容所のひとつである。

 

青野ヶ原

 私が到着する少し前に、青野ヶ原に新しい所長がやってきていた。彼の印象はとてもよかったので、この収容所は彼の指揮のもと、これまでの所長のときより捕虜待遇が悪くはならないだろうと期待している。今のところこの収容所は文句なしである。

 

似島

 スイス公使によって仲介されたさまざまな苦情申し立てによって、ようやくいくつかの改善がうまく達成された。捕虜たちは、ひとつのバラックが集会のために自由に使えることになり、将校たちにはもしかすると兵卒たちにも毎週外出が認められた。残念ながら、現状についてもっと立ち入って照会する機会はなかった。私がしばらくのあいだ質問することのできた主計長は、待遇が今なお以前と同じであると教えてくれた。私自身は、よくなったという印象を持った。捕虜たちは、前より生き生きしていてそれほど立腹していないように見えた。もっともこれは、特に注目すべき状況の改善によるというよりも、私が訪れた日のすばらしい天気といっさいを浄化して見せる秋の太陽のせいとすべきなのかもしれない。これ以上の改善の達成が成功するかどうかということは、次の数週間によってはっきりするだろう。

 

広島刑務所

 ガリツィアで戦ったことのあるオーストリアの大尉が、新しい受刑者としてやってきていた。彼は3カ月の禁固刑をくらったが、それは、あるドイツ人捕虜を小銃の床尾で打とうとした日本兵に、豚野郎と怒鳴ったからである。彼の健康状態は非常に良く、訴えるべき苦情はない。すでにかなりの長期にわたって大阪に収監されていたひとりの脱走者も、心身の状態は同様にまったく問題ない。彼は、大阪よりも広島の方がずっとよいと言った。待遇と食事についても、彼からは何の訴えもなかった。

 

九州の収容所

福岡

 この収容所は、依然として非常に良い印象を与えている。ただ、ここでも捕虜生活の長さが重苦しい影響を与えていることに気づく。もはや本を読むことができなくなっている人々もいる。そのような人々にとっては、捕われの身にあるという運命はほとんど耐え難いものである。私はここで、かつて中国への逃亡を試みた才気あるモッデ少尉に会った。彼は長い収容所生活にもへこたれず、逆に刑務所にいた困難な時期に多くを学んだように思われた。困難な時期から精神の強さとより大きな克己心を獲得することができる人々に出会うのは、いつも心を動かされることだ。

 日本の官僚主義がいかに顕著なものかということを、私はここでも身をもって知ることができた。先任将校であるザクサー海軍大佐殿は、かなり大きな手術を受けるようにと言われたが、福岡の大学の日本人教授でドイツに留学経験があり、彼の信頼を得ていた人に手術をしてもらえるよう許可を求めた。さらに彼は、この手術が陸軍病院ではなく、非常に設備の整った大学病院でおこなわれることを希望した。所長の側からは、彼にすでに許可が出ていた。しかし、陸軍病院の院長はそれに反対し、手術が自分の指導のもと陸軍病院でおこなわれるよう要求した。彼の希望がうまくかなえられればよいのだが。スイス公使は、好意的にも私が旅行から帰った後すぐにこの件について引き受けてくれた。

 福岡刑務所にまだ残っていたのは、出所直前なのでとても嬉しそうにしていたひとりだけである。

 

久留米

 この収容所の状態については、私がフォン・ザリス公使殿に提出した書簡によって、最もよく知ることができる。きわめて残念なのは、日本の陸軍省が、現在までよりよい状況をもたらすことに成功していないことである。国際協定はすべておそらく顧慮されているのだろう。しかしヨーロッパ人は、日本人とは身体的にも精神的にもまったく異なる欲求を持っている。ここではほんの些細な違反でも、尋常でないほどきびしく罰せられている。所長の側近にあって権力の行使者であるところの少佐は、特に意図的に捕虜たちを苦しめているということだ。捕虜たちが心理的に敏感になり、一部はもはや正常でないということが、まったく顧慮されておらず、そのために、捕虜たちと管理部の間の緊張が持ち上がると、状況はきわめて悪くなる。最も不快な状況を避けるために、捕虜たちに残された手段としては、鈍感になっていっさいを耐え忍ぶことだけである。将校用バラック内部の図を同封した。将校たちはここのことを馬小屋と呼んでいる。個々の小部屋にはそれぞれ3人が住んでいる。冬には3人にただひとつの火鉢が与えられるだけである。日本の冬がひどく寒く感じられることを知る者だけが、捕虜たちの苦しみを理解することができる。少し前に、この収容所で赤痢が発生した。その原因は、運動不足と栄養不良であった。援助団体の代表は、この件について現地調査をおこない、食料が改善されるよう配慮がなされるであろう。下士官の給料を75円にまで上げてほしいという請願が、スイス公使によってなされたが、残念ながらこれは、同じ階級の日本人の給与も変わっていないという理由で、拒否された。

 

大分

 この収容所の所長はまた代わった。ここでは、司令部における変更は何の本質的な変化も惹き起こさないようだ。同じ九州の久留米の状況はよくないのに、ここの状態はつねに満足できるもので、悪い待遇についての訴えは全然ない。それが何によるのか、私には判断できない。ここでも捕虜たちに質問されたのは、食物をもっと十分なものにするための方策は何もないのか、ということだった。援助団体がこの件について引き受けてくれたので、改善への配慮がなされているであろう。食物のための補助金を増やすことについては、おそらくすべての収容所でおこなわれなければならないだろう。というのも、日本における食料品はかなり値上がりし、このことでは当然まず最初に、特別な援助を受けていない貧しい捕虜たちが苦しまねばならないからである。

 

四国・板東収容所(徳島、松山、丸亀)

 今回、残念ながらこの収容所で説教をすることはできなかった。拒否の理由は、非常に悪い事件のため、[松江]大佐が説教も相談も禁じたということである。のちに聞いたところでは、数人の酔ったドイツ兵が、日本人の歩哨を打擲したそうだ。しかし正確なところはまだわからない。別方面から聞いたところでは、この収容所はまことに申し分なく、苦情の原因もいっさいないということだ。捕虜たちには可能なすべての自由が許されている。とりわけ彼らは多方面の活動を許可されている。かつての徳島収容所にいた人々は、丸亀と松山の収容所から来た捕虜たちを目にして、その暗鬱な顔から彼らの経てきた苦しみを読み取ることができたとき、囚われの身であるとは何であるかをはじめて意識したという。この二つのよくない収容所と板東との違いは、どんな想像も及ばないほどであろう。おそらく旧徳島収容所の先任将校が、よい関係を築くために貢献したのであろう。稀有なことだが、彼は日本人とのかなりよい関係を作るすべを心得ていたのである。

 

高松刑務所

 半年と少し前から収容されている二人の逃亡者と、かなり立ち入って歓談することができた。二人とも体調はまったく問題なく、おそらく刑期を無事終えられるだろう。そのうちのひとりは、周囲に順応するのが依然として非常に困難であるが、もうひとりはとてもうまくやっており、熱心に封筒貼り(先の捕虜の仕事でもある)をしていて、管理側が満足するほど非の打ちどころがない。彼らは今、日本人の囚人の約二倍の食事をとっているが、これは満腹するには十分なものだ。

 

 

7回収容所巡回旅行(19184/5月)に関する短い報告

 

 捕虜に対する扱いは最近きびしくなっており、いくつかの収容所ではほんの些細な違反が非常にきびしく罰せられている。当然のことながら、これによっていくつかの収容所の雰囲気は以前よりも悪くなっている。例外は板東で、ここでは状況は今なおまったく満足すべきものである。今や捕虜生活が3年以上に及んでいることを考慮すると、捕虜の精神状態がしだいに暗鬱なものとなっていても不審とするに当らない。さらに、祖国では忘れられてしまっているという感のある収容所もある。収容所の人々は、すでに18カ月自由を奪われていた捕虜たちの交換についての記事を読んでおり、ここ遠隔地にいて、もっと長い期間大切な財産なしで過ごしている自分たちに、そうしたことが何もなされないことが理解できないのである。加うるに、いくつかの収容所では食糧が不足しており、一部の捕虜は若干空腹に苦しまなければならない。日本における物価騰貴は少なからぬものがあるが、それにもかかわらず、収容所管理部の側からであれば、この不都合を除去するためにそれ以上のことができるかもしれない。援助団体の側からは、すでに少し前に寄付金が増やされたが、もちろんこの増額も食料品の値上がりに対しては十分なものではなかった。

 非常に残念なのは、刑務所への訪問が数ヶ月前から禁止されていることである。訪問者が収容者の恐ろしい孤独をわずかな時間でも中断し、彼らがほんの数分でも母国語で話をする機会を持つのは、彼ら自身にとってつねにきわめて喜ばしいことである。このきびしい禁令の原因は、ある方面から申し立てのあった苦情だそうだ。陸軍病院への訪問も、これまでなされてきた請願にもかかわらず、すべての病院で許可されたわけではない。捕虜たちは、彼らにとって圧制的な恣意が原因だと思われるような、かくも多くの不快なことにずっと耐えなければならないのだが、彼らの間に暗鬱な気分がますます広がってゆくとしても何ら不思議ではない。傍観者でさえ、時にはそのような気分から逃れられないほどである。

 これ以上の詳細については、個々の収容所についての以下の報告から知ることができるだろう。

 

本州の収容所

習志野

 三月の終わりから、この収容所には、福岡収容所にいたすべての将校と従卒がいる。それ以来まだ一度も行く機会がなかったので、現在の状況について何も述べることはできない。しかし、別の方面から聞いたところでは、この人数の増加は、いかなる面からも不快なこととは感じられておらず、全体の雰囲気は悪くないようである。このような変化があると、当然非常に多くの刺激が生まれ、それが陰鬱な時間を克服する助けとなりうる。この収容所における捕虜の待遇はけっして悪くなく、私が訪れたときに苦情の訴えがあったことはまだ一度もない。福岡にいた捕虜たちは、運動場が十分にあることをとりわけ快適に感じているであろう。

 

静岡

 この収容所については、以前述べたことを繰り返すしかない。捕虜と話をする許可は、ここではめったに得られない。もっとも、所長たちには、特別許可証を持っていない訪問者に捕虜との相談を許すことが禁じられていることを記しておかなければならない。この禁令は、いくつかの収容所では厳格に守られているが、他のところではまったく無視されている。

 

名古屋

 ここでは、説教のあとで将校諸氏と話をすることが許された。全体の雰囲気は、特によいとは思えなかった。ここでは、日本的な官僚主義がはびこりすぎていて、それが抑圧的に作用しているようだ。クリスマスと正月の頃、些細な違反に対して尋常ならざるきびしい罰が下され、捕虜たちはそれでげんなりしたということだ。私が収容所に行ったとき、次のような喜ばしい知らせを聞いた。捕虜のうちの約70名が、名古屋の会社と工場で終日働くことができ、それによってなにがしかの賃金を得、生計の足しにしているというのである。

 陸軍病院には、胃癌を病み、死相の現れている重症患者がいた。わたしは通訳ぬきで患者たちと話をすることを許された。病人は、他と比べればわずかしかいない。苦情があったのは単調な食事のことであり、待遇についての不平はなかった。

 

青野ヶ原

 ここの状況について正しい判断をするのはかなり難しい。収容所の衛生状態は良い。些細な事がいかに大きな興奮状態を、それどころか暗鬱な気分を作り出すかというひとつの例を、手短かに挙げてみたい。私は、捕虜の将校たちにあいさつをする許可を願い出た。所長はこの許可を与えるたがらなかったが、おそらく上からの禁令のせいであろう。しかし、結局通訳をしていた中尉のはたらきかけで、ひとりひとりの将校に短い挨拶を許すということになった。とは言っても、それぞれの将校が所長室にやってくるという条件つきである。最初の将校が現れた。われわれは互いにあいさつを交わし、あいさつのときに普通になされるように、互いの体調について尋ね合おうとした。するともう所長がドアをノックし、日本語で叫んだ。「挨拶がすんだら退出だ。」私はその将校に言葉をかけたが、それを所長はよく理解できなかったので、激怒した。「われわれがここでどう扱われているか、お伝えください。」と言って、その将校は部屋を出ていった。次の将校を呼ぶようにとの所長の求めに対して、将校の従卒が、こんな状況ではすべての将校が挨拶を断念すると伝えた。もしも司令部の側から、捕虜の将校たちとのもっと人間的な関係を築こうとする試みがなされているならば、こんな出来事は考えられないはずだ。将校のうち誰ひとりとして、高次の部署から訪問者との会話が禁止されていたなどということはまったく知らなかった、と私は確信している。

 

似島

 もしも収容所の司令部が、高い板塀は上からの指示によってやむをえず設置されたということを捕虜たちに早めに知らせる努力をしていたなら、ここでもかなりの不愉快なことを回避できたであろう。彼らはたびたび怒りを感じるということもなかっただろうし、手当たり次第に抑圧され、苦しめられているという印象にずっと悩むこともなかったであろう。幸いなことに、この収容所は今、前とはまったく異なる様相を呈している。集会所が建てられ、それよりもはるかに重要なことだが、捕虜たちは今、日に6時間収容所の外で過ごすことを許されているという、驚くべき事実がある。バラックは全島におよぶ連山のふもとにある。勾配はきついがあまり深くない小さな谷々が山の斜面へと続いているが、そこに島の反対側の村に住む農民たちが、階段状に積み重なった小さな田を作っている。私が到着する6週間前、捕虜たちはそれらの田を賃借りしてもよいという許可が出たが、もちろん誰もがそれを利用している。谷を上ってゆくと、いたるところで借り手たちが田に手を加えていたが、その大部分はすでに野菜畑や花畑になっていた。ほとんどあらゆる区画には、一番良い場所に避暑用の小屋がすでにできているか、もしくは作成中であるのが見えた。こんなにも長いあいだ閉じ込められていた人々にとって、この自由はどんなに救いと感じられることだろう。それを想像するのは、なかなか難しいことだろう。捕虜たちが得た自由について私が喜びを表明すると、彼らのひとりは次のように私に叫んだ。「そうです。実際今は最高ですよ。」さらに、彼らは毎週一番大きな山の頂上までの大がかりな遠足をすることまで許されている。これは奇妙なことだ。以前言われていたところでは、捕虜が要塞地帯を覗けないようにするために、海への眺望を妨げる大きな黒い板塀が立てられなければならなかった。ところが今は、その覗き見が一日中許されているのだ。それにしても、ようやくここまで進歩したということ、最悪の収容所のひとつが非常に良い収容所になったということは、ありがたいというほかない。しかしこの変化はもっと早く起こってほしかった。よくない体験は、今やもう心の底にまで達してしまって、状況の改善によってもすぐには消すことができないだろうから。私は、将校たちとの話の中で、そのようなことを少し感じた。故郷や妻子との長い別離も、どんなに強い人々の魂をもむしばむということは、誰もが理解するところであろう。しかし私が繰り返し驚かされたのは、状態は前より悪くなっていなくて、依然として多くの有能さが保持されているということだ。抗議においても、非常にしっかりした力が感じられる。

 陸軍病院には、数人の神経病患者と二人の結核を患った隔離者がいた。私は彼らのために再び請願書を作成し、彼らが自由に動くことができ、休養もできるような場所が定められるよう、要求を表明した。この件を以前と同様たいへんな好意をもって引き受けてくれたスイス公使が、日本政府にうまくこの請願を聞き届けてもらえることを期待する。時とともに、ひとはいろいろな期待を抱きすぎないようになるのであるが。

 

九州の収容所

久留米

 この最悪の収容所では、すべてはかなりの程度同じままである。著しい改善があるとは言えない。雰囲気は前よりも悪く、捕虜の苦しみと嫌悪はいっそう強くなっている。話をすることができた相手は、ただのひとりである。収容所から約100歩しか離れていない陸軍病院への訪問は、理由を告げられることなく禁じられた。後で聴いたところでは、所長は改善するつもりがあるが、住民は、ドイツの残虐行為に対する「報復措置」が捕虜に対してなされるよう要求しているそうだ。所長自身がこう言ったとのこと。久留米周辺の住民がドイツに敵意を持っていると言われるとすれば、そこにはなにがしかの真実があるのかもしれない。というのも、ここにいるドイツの婦人たちのうちの二人が、それを裏づけるような体験を語ってくれたからである。彼女たちが夕べの散歩をしていると、ひとりの下士官が近づいてきた。彼女たちは早めに道をよけたが、その男は腕を伸ばして、婦人のひとりの胸を強く突いた。そこで、無防備な婦人たちは大急ぎで逃げた。彼女たちの訴えに対しては、まったく何もなされなかった。

 ドイツの首相の甥が父親に手紙を送り、将校の給与が上げられるように尽力してほしいと頼んだ。ところがその願いは日本政府を侮辱するものだとして、検閲に引っかかってしまい、差出人はこの無害な手紙のことでかなり長期の拘留でもってきびしく償いをせねばならなかった。このような出来事が、ただ暗鬱な気分だけでなく静かな怒りを惹き起す原因になっているということは、日本におけるこうした状況の中に身を置くことのできる者なら誰しも思うところである。

 捕虜の一部が板東へ移送されるということを時折聞くが、その裏づけやとりわけ実現の保証は、今のところない[19]

 

大分

 ここの所長は、愛想よく、だがきっぱりと、これまでいつも許可されてきた将校や幾人かの兵卒との会見を禁止した。受け取った禁令を引き合いに出してのことである。しかし、ここでは特に事態が悪くなっているというわけではない。以前に比べて自由への憧れが大きくなっているということは、説教の前に数人の兵士から聞いた若干の短い言葉から、推測することはできた。

 

四国・板東

 この収容所については、本当に問題ないと言える。ここは最大の収容所でもあり、それゆえよい待遇が多くの人々のためになっているということは、幸いなことだ。収容所の敷地は非常に広いが、このことによって、捕虜たちがこの空間にのみ囲い込まれるということにはなっていない。収容所管理部は、捕虜たちが柵の外側に庭園や家禽飼育場や運動場を作ってよいと許可を与えた。この収容所では、演劇や講演、優れたコンサートも催されている。憂鬱な時を耐えやすいものにするために、あらゆることがなされていると言ってよい。他にも、捕虜の救済を願う気持ちを持ち続けてよいのだという十分な根拠がある。少し前に、他のいくつかの収容所の所長たちが、板東を訪れたそうだ。似島におけるさまざまな改善は、この訪問にかなり影響されたのかもしれない。他の収容所にも影響が及んで、その結果、全体の変更がこのしっかりした模範にしたがってなされることを期待する。

 私が付近の町を歩いていると、時折捕虜たちの一隊に出会った。彼らは買い物や仕事からの帰り道であったり、これから出かけるところであったりした。収容所で用いられるすべての木材は、捕虜たちが近くの山々から自分たちで切り出してよいことになっている。この収容所の印象はというと、司令部がつねに変わらぬ寛容さを持ち続け、小さな違反行為については当然生じるものと見越してそれに惑わされない、というものである。他の収容所であれば、こうした違反は全体に対する厳しい扱いを帰結していたであろう。ここではただ個々の捕虜が罰せられるだけで、違反者以外は誰も苦しむ必要がない。

 



[1] Ulrike Klein: Deutsche Kriegsgefangene in japanischem Gewahrsam 1914-1920. Ein Sonderfall. Freiburg i. Br. 1993, S. 264.

[2] ジーメンス社ドレンクハーンの収容所視察報告書、ベルリン文書館の外務省文書R901, 84615. Ausw. Amt IIIb 19328. Eing. 25. Mai 1918. Bericht über den Besuch der Kriegsgefangenenlager in Japan vom 14. November bis 15. Dezember 1917。高橋輝和:「サムナー・ウェルズによるドイツ兵収容所調査報告書」当誌創刊号、2003年、3頁以降。Bericht des Herrn Dr. F. Paravicini, in Yokohama, über seinen Besuch der Gefangenenlager in Japan (30. Juni bis 16. Juli 1918). Basel-Genf 1919.(邦訳は、大川四郎編訳:「欧米人捕虜と赤十字活動 パラヴィチーニ博士の復権」論創社、2006年、181頁以降。)ウェルズとパラヴィチーニスイスは、いずれもドイツの利益を代理する中立国の視察者であるが、視察はそれぞれ12回にすぎない。17172月のアメリカによるドイツとの断交後は、スイスが上記中立国の役割を担うが、フンツィカーも在東京スイス公使フォン・ザリスもそのことを意識して、在日捕虜の状況を積極的に調査しドイツに伝達したということも考えられる。

[3] 「陸戦の法規慣例に関する条約(ハーグ陸戦条約)」第一款第二章(俘虜)第18条(宗教の自由)には、次のように記されている。「捕虜は、陸軍官憲の定めたる秩序及び風紀に関する規律に服従すべきことを唯一の条件として、その宗教の遵行に付一切の自由を与えられ、その宗教上の礼拝式に参列することを得。」(「国際条約集―2006―」大沼保昭編、有斐閣、2006627頁。)陸軍の捕虜取扱規則第5条も、ほぼ同じ内容である。

[4] 「ディ・バラッケ」第4巻(6月号〜8月号)、鳴門市ドイツ館史料研究会訳編、419頁以降を参照。瀬戸武彦:「青島をめぐるドイツと日本(4) 独軍俘虜概要」(高知大学学術研究報告第50巻人文科学編、2001年)によれば、Wannagsは、第三海兵大隊第七中隊所属の上等兵で宣教師。広東のベルリン福音教会から、Wilhelm Schwarzとともに青島守備軍に参加し、ともに丸亀・板東に収容された。

[5] 拙訳:「久留米俘虜収容所に関するブーヘンターラーの報告(翻訳と注解)」(「言語文化研究」第15巻、徳島大学総合科学部、2007年)78頁参照。原文書は、Bundes-

archiv-Militärarchiv in Freiburg i.B. MSG-201-171-31427また、「エルンスト・クルーゲの見た収容所の生活」(生熊文訳、「ドイツ兵捕虜とスポーツ―久留米俘虜収容所III―」久留米市教育委員会、2005年、101頁以降)に、日常の司牧には「中国の宣教師学校学生」が当たったという記述が見られるKlein, S. 262には、久留米には青島で捕虜となった「福音新教伝道会」Evangelisch-Protestantischer Missionsvereinの宣教師がひとりいて、ミサや埋葬の儀式をおこなったとある。

[6] この点については、以下の文献を参照した。平岩貴比古:「名古屋と松山の収容所比較」(「マツヤマの記憶 日露戦争100年とロシア兵捕虜」松山大学編、成文社、2004年)82頁以降。宮脇昇:「ロシア兵捕虜が歩いたマツヤマ 日露戦争下の国際交流」愛媛新聞社、2005年、46頁以降。中村健之介:「宣教師ニコライと明治日本」岩波新書、1996年、194頁以降。

[7] Klein, S. 269.

[8] 中村、87頁、95頁。

[9] この団体は、1884年にヴァイマルで設立され、ドイツの制度・文化の移入が始まった当時の日本の趨勢もあって、1885年日本での伝道を開始した。啓蒙主義やドイツ観念論の影響を受けた歴史的批判的な「自由主義神学」にもとづき、教条的でなく、他のプロテスタント諸派との協力やキリスト教以外の宗教の研究やそれとの対話、現地の文化的努力一般への援助などを目的として掲げ、日本人受洗者はそれほど多くなかったが、知識人や学生に比較的受け入れられた。第一次大戦時の日本で、ドイツ語圏のまとまった教団としてはこれ以外になかったので、収容所巡回をおこなったと考えられる。1922年に東亜伝道会(Ostasien-Mission/OAM)と改名し、のちにそのドイツ支部の主流はナチス体制に傾斜し、戦後はドイツ東亜伝道会(DOAM)とスイス東亜伝道会(SOAM)がそれぞれ独立した。シラー、シュレーダー、フンツィカーの在日期間はそれぞれ、1895-1932年、1908-1920年、1914-1922年である。日本におけるドイツ宣教師研究会編「日本におけるドイツ ドイツ宣教師百二十五年」新教出版社、2010年、を参照。

[10] 聖職者の住所、国籍などについては、注9に掲げた文献の他、大石雅章:「ドイツ兵俘虜収容所の礼拝と宣教師」(「地域社会における外来文化の受容とその展開―『板東俘虜収容所』を中心として―」鳴門教育大学・鳴門市、2003年、84頁以降)を参照。

[11] 「ディ・バラッケ」第1巻、鳴門市ドイツ館史料研究会訳編、鳴門市、1998年、213頁以降を参照。ブーヘンターラー、80頁には次のように書かれている。「真の人間性と温かい共感から流れ出る彼の素朴な言葉に心を動かされ、涙ぐむ者も多かった。」

[12] ネアンダーの活動についてはKlein, S. 263f.を参照。

[13] Klein, S. 264f. また、中沢洽樹:「瑞西普及福音新教伝道師J. フンチケルについて」(高橋昌郎編「日本プロテスタント史の諸相」、聖学院大学出版会、1995年、255276頁)によれば、フンツィカーは、日本人に聖書研究会やギリシア語・ヘブライ語・ドイツ語の指導をおこない、内村鑑三らと親交があった。

[14] ドイツ外務省の要請を受けた日本の外務省の問い合わせに対し、陸軍はそれを認めている。しかし、結局送還にまでは至らなかった。川上三郎氏のご教示による。

[15] 高橋輝和:「ルードルフ・エーレルトの獄中書簡」当誌第5号、2007年、82頁によれば、1917128日、板東収容所の松江所長が陸軍省軍務局長に、フンツィカーとシュレーダーが「種々通信を仲介する」疑いがあるため、訪問禁止を要請し、フンツィカーについては、「その態度・言語等、宣教師としての資格を有せざるもの」と認めると付記している。その前の第6回巡回旅行で板東において、また第7回で数箇所の収容所において捕虜との面会を拒否されたことは、これと関係があるのかもしれない。

[16] この報告書では、おそらく聞き違いによるのであろう、一貫してBantoと表記されているが、翻訳では「板東」と表記する。第6回、第7回の報告書ではBandoと正しい音写になっている。

[17] 1917225日、福岡に収容されていたフォン・ザルデルン大尉の妻が強盗に殺害され、31日に大尉自身も自殺した事件のことと思われる。ザクサー大佐は福岡収容所の捕虜代表であった。

[18] 先の書簡の終わり近くで言及された、マティーアス大尉のこと。砲艦ヤーグアルの艦長だったが、静岡収容所では捕虜代表を務めた。瀬戸武彦:「青島をめぐるドイツと日本(4)独軍俘虜概要」高知大学学術研究報告第50巻、人文科学編、103頁による。

[19] 19188月に、90名の捕虜が板東に移送されている。