『ラーガーフォイアー』連載記事「松山」(2)

訳:冨田 弘  編集・改訂:川上 三郎

 

解説

前号に引き続き、冨田弘氏訳の『ラーガーフォイアー』連載記事「松山」の第三部と第四部をここに掲載させていただく。

今回も氏の翻訳に手を入れた個所があるので、それらを以下にまとめておく。

原訳中の[]の処理については前号どおり。

○ 漢字とかながきを、読みやすさを考慮して一部改変。

○ 第一部では原文 „ “ が翻訳で「」と表記されていたのに対し、第三部、第四部では『』となっていたのを「」に修正した。

○ 足利−幕府  足利幕府 など

  原文は Ashikaga-Schogunat で、ハイフンは両語が連続する一語と解すべき事を表記するためのものであり、日本語に転記する必要はない。

1 1/2百万 → 150万 

○ 語句の順序を入れ替えたり、訳文そのものを変更した箇所がいくつかある。

 

 


 

 

36号    松山、日曜日、191610月1日

松山 第V部と第W部

1と2

歴史と民族

宗教:1)儒教 2)神道

 

 

歴 史

 

見事な風景の展望と並んで城そのものは大変興味をそそる。四方を堅固に眸睨して城塞が立っている。現実的使用目的に使われていた時代には敵のどんな攻撃にも難攻不落であったように思われる。城の麓に広く広がっている所に今では近代的な兵舎が作られている。巾の広い濠がこの地区をその他の市街地との隔てとなり、大名の兵士であるその侍達に不意打や非常事態の守りを保障している。

こうした施設の全体とこれと関連する問題を正しく評価するためには、おおよその日本の歴史を助けにしなければならない。周知のように日本人は中断なしの家系のその支配者を初代のミカド(すなわち「高貴な門」)である神武天皇まで遡るが、紀元後461年が最初の信頼できるデータとしなければならないので、これは歴史的には根拠のない理論である。にもかかわらず日本流の考え方によると現在の天皇明宮嘉仁(ハルノミヤヨシヒト)(1873年生)の家系は紀元前660年以来、したがって2576年にわたって位に就いていることになる。実際はこれらの支配者が本当の権力を行使していたわけではなかった。むしろ紀元後800年頃には、メロヴィンガー王朝のもとですでに8世紀のフランケン地方にあったのと全く類似した状態となっていた。向うで豪族が国家元首に益々影響力を強めたように、日本でも君主の人格はいよいよ低下して空虚な影となった。勢力の強い宮宰小ピピンがその君主を王位から追放(751)し、新しい王朝を樹立したのに対して、日本の権勢家は単に天皇の後見人に伸し上がることまではできたが、自分の個人的な利害に役立つかどうかによって、即位させたり、廃位したりするのに止どまっていた。「藤原氏」、「平家」、「源氏」はしかしそれ以上にことを進めようとはしなかった。なぜなら君主の人格は太陽の女神アマテラスの直系であり、神聖であったので、この地上のいかなる大人といえども神性を持つ位にふさわしくはなかった。こうして徐々に並列王朝が形成され、これが皇帝の権力を持って行動し、その首長がショーグン(すなわち「軍指令官」)という称号を持った。

最初にこの支配権を得たのは最も勢力のある貴族の一つである源一族で、1192年「鎌倉幕府」を設立した。皇帝の文官代官の代りに幕府が創った武官の代官が登場し、時がたつにつれて益々自立性を持った地方豪族がそれから生まれてきた。こうした豪族に対して徐々に「ダイミョウ」(すなわち「大きな名前」)という呼名が行われるようになった。かれらの力は主としてその城塞とこれに属する武装兵であるサムライ(封建時代の戦士)によっていた。− 刀のみが支配した。領主は興亡を重ね、誰も京都の皇帝の宮廷のことなどもはや気に掛けなかった。

1392年「足利幕府」が続き、また1603年には卓越した「徳川幕府」が引き継いだ。この間に、将軍がまた後見人を持ったり、将帥の一人が、例えば秀吉のように国土の支配者に伸し上がるといったことが起きたが、全体的には殆ど独立した大名と結び付いた幕府支配が1867年の末まで継続した。この時になってようやく第15代の徳川たる一橋がその権力を皇帝睦仁(ムツヒト)(1867‐1912)の手に返還したが、この王朝は683年前から影の存在を送っていたことになる。このきっかけは民衆の間で益々強く表面に出てきた願望、すなわち中世的な政府のシステムを打破し、文明国と対抗しようという願望によって与えられた。そうなると大名達にとってもその支配権を皇帝に返還する以外に方法がなくなり、皇帝の政府は400 000の侍の家族とともに277の領主に対して金銭と高位の官職を以てその補償をした。

この新時代、いわゆる「明治時代」(「啓蒙の時代、186811月6日」)の幕開き直前の伊予の国における政治状況は略図3(伊予における大名領)[1]の示す通りである。

これは当時のその他の日本全土をも推測させるので特に興味を引く。 17世紀のドイツは分裂と関連のなさにおいて1869年の日本をはるかに上回っていたが、そうしたドイツをなまなましく想起させるほどの、信じ難いような国家のもつれ合いに気が付く。

我々が最も関心を持つ松山の大名領、すなわち松山藩については、当地の市役所が刊行した市史から私の記述は大部分を取っているが、次のように述べている。

松山史は300年少々前から始めている。凡そ1590年頃道後に居を置く福島一族が当地を支配していた。 1601年の頃加藤氏が続き、戦争によってその所領を著しく拡大した。この一族は膨大な軍備を持ち、非常に立派な地歩を占めていた。領主である大名嘉明は今日の城塞の礎石を「1603年」に置き、その翌年から勝山[2]に本拠を移した。しかしこの領主は徳川家にとって強大になり過ぎたので、仙台近くの小領地を封土として与え、1628年これに代わって蒲生氏を据えた。

市史はこの時代については何も伝えていない。 1635年には蒲生氏は不能なるがゆえに廃絶され、徳川家と縁続きの「久松」が大名に任じられ、その一族の子孫が1872年まで、したがって237年間にわたって権力を行使した。加藤と同じく久松は著しい軍事力を涵養し、1652年頃には米150 000石(275 000 hl)と評価されていた。その上将軍のために、270の騎馬兵、90の弓の射手、30の旗、250挺の鉄砲、50本の長槍からなる常備の戦力を用意しておかなければならなかった。

その統治は恵まれた状態にあったようである。厳密に武士道に従い、質素な生活を送り、一切の争闘を避けよと彼は侍に命じた。類似の布告を民衆にも発し、節倹を勧め、一切の放縦、飽食、放埓を控えるよう戒めた。一般的にはこの全時代は平和と建設の時代であったようである。久松氏が1716年にようやく本拠とした城は1841年殆ど完全に焼け落ちた[3]。我々が今日目にしている再建はしたがって比較的まだ日が浅い。以前の様式は全体的には維持されているように見える。復古の年月の間に大名の全所有物は皇帝の政府に没収され、姿を変えて兵舎、官庁の建物その他の国家機関となった。久松家は1872年まで初代の県知事の官職を帯びていたが、やがて東京に移り、一族の第50代目は今日高級軍人の地位を占めている。

松山城はその他の数少ないものと共に過ぎ去った時代を記念する物としてその古い状態のままにされている。

 

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民 族

 

だがしかし、過去の時代を眺めさせてくれたこの歴史的な場所を去って、城の麓に住む民衆をいくらか詳細に知ってみようではないか。我々の出会う人々が決して統一的なタイプではないことは誰も認める所であろう。多くの日本人は背が高く細身であり、体型の点では身長において非常な伸びを示している。このタイプが主として身分の高い家族に見られるのに対して、低い階級、特に農民は不恰好な形姿を固有のものとしている。このことから、医学者として長年東京の大学と婦人科病院で豊富な経験を集めたエルヴィーン・ベルツ教授やその他の専門家は、日本人はその発生の時に数種の民族が相互に作用しあった混合民族であると、推論している。日本人の人生観、風俗習慣、世界観は強く南方的な特長を呈しているものの(ハウスホーファー)、きっと朝鮮を経由して移住してきたであろうモンゴル人種に属する一種族がやはり根幹を造っている。多くの学者は、フィンランド人やマジャール人、トルコ人も属するウラル・アルタイ系諸民族との関連さえ構成している。他方疑う余地のないことであるが、南方からマレーシア人の大きな移住があった。原住民である「アイヌ人」(すなわち人間)は今日では日本の最北部に僅かな数しかいないが、このアイヌとの混合は、この種族との混血婚の場合に生殖の可能性がすでに第三世代で止むので、それ以上は問題になってこない。(チェンバレン)したがって日本民族は決して統一的な人種ではないが、我々もまたその祖国で多様な人種のタイプを識別することがあると、指摘しておかなければならない。

さて日本人起源論の説がより多く西とか南を示そうとも、この島国の民族の文化と思考法に対しては結局全く別な要素が影響を与えてきている。むしろ今日では、一体この国民の精神的特質はどんなのか、という問題が我々に興味を持たせる。

この問題に厳密かつ事実に即した解答を与えることは非常に難しい。世界旅行家にも俘虜にも非の打所のない判断を委ねることは許されない。前者はきっとかなり表面的で、何等根拠のない見解を述べるだろうし、後者は自然でありまた正当でもある見方と並んで、やはりその陰欝な存在形態によって、我々には理解できない一種の処理と結合し、先入観に傾くことになるだろう。

他方ではまた長年日本に滞在した人はいくらか「日本化」しているので、絶対的に適切な判断を下だす状況にはない、という考えることもできる。

事実意見はひどく食い違っている。

イエズス会のザビエルは16世紀半ば頃キリスト教を日本に布教した人であるが、日本民族のことを、彼の魂の歓喜と言っている。彼はこれを、大胆、英雄的、執念深く、功名心があり、勤勉、非常に奇麗好きで礼儀正しいと性格づけている。

作家のオールコック(1860)は日本人を、勇敢で礼儀正しく、明かるい心情を持ち、遊び好きな民族、情熱的というよりはセンチメンタル、機知とユーモアに富み、理解力早く、頭が切れて創意に富んでいるが、高度な知的行為の能力は殆どなく、感じ易い精神を持ち、大きな知識欲を備えていると描いている . . . .

ムンツィンガーはドイツの宣教師であるが同様の結論に至っている。才能は大きいが天分に乏しく、勤勉、器用、実際的、それにいくらか表面的、深みはなくて独創性にかける . . . . . 嘘言は日本ではドイツほどの破廉恥漢という性格を全然持っていない。日本人の話は真直ぐに直接的に出てこなくて、ぐるぐると間接的である。だから全くつかみ所がない. . . . .

ハウスホーファー少佐は300年にも及ぶ警察国家の残存物として、嫌疑、中傷、さぐり合い、派閥支配、裏工作 . . . . の傾向があると言う。きらに彼は、税金のごまかしの無数のケース、最高の階層においてさえ普通のこととなっている収入と業務利益の虚偽申告を指摘している。

デーニツヒは日本の文学を最もよく知っている一人であるが、日本の精神の最もはっきりした特性の一つはあらゆる種類の形而上、心理上、倫理上の議論に対する関心の欠如である、と強調している。

バジル・ホール・チェンバレンは長年東京の大学の教授であったが、日本人の間で長い間暮らした人々の妙な判定を多数まとめている。一方には「奇麗好き」、「善意」と「洗練された芸術的趣味」があるのに、他方では「虚栄心」、「非実務的習慣」と「抽象的思考には無能力」が見られる。

私にはこの判定は大抵の先行するのと同じく、もっともさらに数多くのその他も付加できるであろうが、正に楽観的に捉えたものと思われる。何等かの締め括り的な結論に至るには、個々の特性をその際立っているという点でより厳密に検討もしなければならないが、そのためには我々の大多数には必要な知識経験がやはり欠けている。いずれにしてもこれまでの所ではっきりしているのは、我々ゲルマン人にとって日本人は感じが良くなくて、東アジアのすべての民族の内で我々は日本人に対して好感を感ずることが最も少ない。ハウスホーファーによれば四国の島、特に土佐の国は強い南方的気質を持った気性の激しい、精力的で頑固な民衆がいる。

 

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第W部

 

(1.儒教、2.神道、3.仏教、4.キリスト教.)

 

これまで取り扱った題材に入り込むことがすでに容易ではないとすれば、日本人の倫理的、宗教的生活を理解するのは一層困難である。−

さて我々の大部分は − ここばかりでなく他の収容所でも − 主として仏教寺院に居住しているし、散歩に出れば日本の礼拝所へよく行く、我々の収容所そのものを年中何千人という巡礼が通過して行く。だから無意識的に自問する、こうした寺院すべてを建てさせ、一年の大部分を寺から寺へ巡礼の旅で過ごす気持ちにさせる、どんな宗教的感性をこの民族は持っているのかと。地球上のどの民族もその宗教を持っているだろうし、我々も祖国ではいろんな形式の神の館を建て、そこへ巡礼をする。だから日本の信仰のありようを一瞥するのは、どの民族のどの宗教でもその文化の総体と精神世界に大きな影響を与えたものだけに、全く興味のあることとしてよいだろう。当然のことながら様々な信仰信条の詳細な記述は断念せざるをえない。これは大掛りになり過ぎるので。しかし、我々が今その中に混って生活している民族の宗教的状況の概念を得るには、簡単な概観で十分と考える。

宗教的であれ哲学的であれ、完結した世界観を独自かつ創造的に構築する作業は日本にはかつてなかった。日本における宗教的また哲学的思惟の歴史は、他所のすでに堅固に確立している − インド、中国、ヨーロッパの体系を身につけ、適応するための尽力の歴史である。

先ず日本においては、相互に全く関わりを持たない倫理と宗教生活とを厳格に区別しなければならない。倫理学は完全に自立した体系であるのに対して、宗教は人間相互の関係には全然かかわらず、神性に対する人間の関係だけにかかわっているからである。

 

1.儒 教

 

先ず一度、創始者を中国の哲学者クン・フ・ツェ(日本語では孔子 −クン先生紀元前551‐479)と見なければならない道徳哲学を考えてみよう。哲学と名付けるのは不当である彼の教えは紀元後の早い世紀にこの島国に入ってきて、主として次の問題に取り組んだ。「人間は自分の同胞に対して、国家に対してどのように対処すべきなのか?」孔子は言った。「100の徳の中で親に対する畏敬の念が上位にあり、10000の犯罪の中で離婚が最も大きい。」. . . .「信義、親孝行、心の純粋、正直は100世代を通じて芳香を広める。」

したがって我々はこの教えの中に宗教色無しの道徳説を見る。これはキリスト紀元の早い時期に中国文化のその他の成果と共に日本に入ってきたが、仏教の方が支配的だったので影響を与えるには至らなかった。徳川氏の下でようやくこの孔子流の古学の代表者に強力な後援者ができて、この後援者たちが彼等の時代の精神生活全体をこの偉大な中国の賢者の思想に従って形成した。彼等は其の際支配者と親に無条件で服従し、中央集権化した君主制という孔子の中心的な教えを利用した。今日では儒教の信奉者は、あらゆる宗教をむしろ迷信だとしてあざ笑う上層階級に見出される。儒教の倫理的原則は元来侍階級のために要約されて、倫理の規範、つまり「武士道」(すなわち騎士の道)となった。武士道は正直と真実を求めた。卑劣な行動と邪道、曖昧さからの虚言は一大恥辱と見做された。幼い時から侍は、苦痛に耐え、危険をものともせず、自制心を示すよう教育された。騎士の自殺であるハラキリ[切腹]は武士の特別な特権であって、これによって汚点の着いた名誉を再び回復することができた。侍階級の廃絶に伴ってこの特権階級の倫理規範はその意義を失った。今日では日本人自身が儒教的思想の消滅を嘆いているが、日本の教育制度全体がこれを土台としてできているだけに、この思想はいよいよ重要であると思われる。学校に対してと軍隊に対する天皇の勅語が理論的には武士道の代りの場所を占めているが、実際にはその効果の上で昔の倫理規範にはるかに後れを取っている!

 

2.神 道

 

日本人を反宗教的と呼ぶのはいずれにしても誤りであろう。この民族には全般的に見てこのことはどうも当て嵌まらない。というのも日本人自身は八百万の神々が、よくその祖国のことを名付けるように、シンコク(神々の国)にはおわします、と主張しているのだから。

どの民族の太古の時代にも「生と死」、「死後の生」、「神性」、「超自然的支配力」という観念は形成される。だから日本人の場合にもある種の宗教体系はできあがったのだが、我々にとって分り易いものでないだけである。

「シントウ」、すなわち「神々の道」は仏教の導入以後そう名付けられたのだが、この信仰は形而上学的でも、倫理学的な体系でもなく、教えでもない(シラー)。神道は道徳的に指向しているのではなく、祭式的儀式的である。信者には僅かな要求しかせず、簡単な儀式と供物を求め、若干の簡単な清浄の要求をする素朴な神々及び精霊信仰である。理想とするのは、信者がその肉体とその家庭において清浄であること、相互に良く協調して簡素で名誉ある生活を送り、両親と先祖を大切にし、天皇家を敬い、天皇に柔順であれ、である。

主として神道は、我々には理解できないことだが、際立った祖先崇敬と結び付いた自然的諸力の崇敬をこととする。自然の神々、神格化した先祖、英雄、偉大な精神の持ち主が融合して無限の万神殿パンテオンとなり、この万神殿はその神話で以てこの島国の住人の生き生きとしたファンタジーを示し、むしろギリシャの神々の国を想起させる。神々の全集団の頂点には太陽の女神である「アマテラス」が立っている。彼女は、今日なお神聖な物として崇められている三種の皇帝権、鏡、剣、紐に通した宝玉を付して孫のニニギノミコトを九州の島に派遣して、統治を命じた。このニニギの孫がすでに前に言及した日本の初代の統治者神武天皇である。こうして神話と歴史的な伝承との間に独特な橋が創出されている。

第二番に続くのが「イナリサマ」で、大抵は長い髭を付け白い狐に跨がった老人として現わされる。主として「米の神」ないしは「農業の神」とされている。赤く塗ってあるのが目印となるその神殿と小さい社は我々の地域でもよく見受けられる。同時に力士、芸者、娼婦がこれを守護神として、供物を特別な社殿に捧げる。まだまだ雷神、疫病、風、学問、書道、町内、家の神がある. . . 、つまり何等かの神性によって守られていないようなものは何もないということになる。

祖先崇拝は日常の生活の非常に大きな部分を占めている。多分我々の誰もが街を歩いた時にそれぞれの家の中に供物を供えた小さな祭壇に気付いたことだろう。しかしそれ以上にこの祖先崇拝は民衆全体の社会的生活と倫理的生活の奥深くに入り込んでいる。家族を維持し、継続させる責務を先祖に対して持っている。日本でよく見られる養子縁組、内縁関係、離婚はこれによって明快な説明がつけられる。肝心なのは、とにかく家の後継者をなんとかすることである。

ここに挙げた教義はしかし今日ではごく稀にしか全く純粋な形で見ることはできない。

一般的にいえば。神道は紀元552年頃に日本へ導入された仏教と強く融合している(ハックマン)。

他の国と同じように、この宗教は新しい民衆に昔の信仰をそのまま委ね、その神々を新しい教義に組み入れたので、急速に地盤を獲得した。その上仏教はその理念の深遠さ、その典礼の壮麗、その倫理説の崇高によって神道の脆弱な構造に対して決定的な優位性を持っていた。だから、神道は1700年までの間に暗黒と無力の中に全く沈みこんだ。この頃になってようやく良き古き時代を、したがって古代の文書、古代の詩及び古代の歴史書を再び思い起し、それによって神道は再復興期を迎えた。この運動は当初は宗教的であったが、後には政治的、最後は愛国的性格を持つに至った。歴史的な天皇権力を凌駕してしまっていた将軍が打倒され(1867)、天孫たるミカドが復権したので、神道は国家宗教にまで高められた。天皇の神性というこの教義は、神道の本来の力がとうに消え失せているにもかかわらず、今日もなおその主たる強みである。余りにも力不足、空虚なので、仏教の深遠な思想に対抗して張りあうことはできない。だから、今日の我々がたいていの日本の家の中に神道と仏教の祭壇を見出す、ということになる。民衆はこの両者のやしろに祈りを捧げ、学校で宗教の代りに教えられる孔子の倫理学説をその上に遵守する。巡礼だけは仏教の初信者によってのみ行なわれる。日本人にとって神道は、喜びと楽しみを、仏教は、憂愁と不幸を意味している。子供が生まれれば、両親は神道のやしろへ連れて行き、生涯にわたるその子の成長と繁栄を祈願する。その子が死ねば、仏教のやしろへ運び、埋葬して貰う。だからたいていの日本人は宗教に関しては二元論者である。憲法認可(1890)以降は絶対的な信教の自由と宗教、政治、教育の厳密な切り離しが行なわれている。

神道と仏教のやしろを区別するのは極めて簡単である。鳥居(すなわち鳥の休息)をくぐって、屡々実に広域な結構からなる聖域に足を踏み入れる。万事が簡素で飾り無しにしつらえている。建造物はへぎ板ないしは葦で葺いてあり、たいていは古代日本の小屋の様式を呈している。ときには我々のニーダーザクセン地方の農家の十字に組まれた高い屋根木を思い起こさせることもある。内部は装飾無しである。いかなる神像も見られない。ただ、仏教から借用しているそうだが、金属製鏡が背景に立ち、「汝自身を知れ」というようなことを意味している。− 二つのものが神道聖域の外面的徴標として特に典型的である。数本の白い紙片(御幣)をぶら下げた木の捧、これは供物を示しているそうだ、及び、通路や入口の上に張られてその場所を不幸と病いから護るといわれる藁の綱である。松山の道路を歩くと屡々この両者が家の戸口の上とか店の中にあるのに気が付く。神道のやしろそのものは我々の近辺に数多くはない。市の西部には日露戦争の時代の絵のある八幡社(戦争の神=「神格化された應神天皇」)がある、この神に捧げられたすべての聖域は国家的な礼拝場所と見做され、仏教徒も神道の者も等しく参拝する。勝山の上で我々は久松氏に属するやしろの一つを訪れた。特別な意味を持たない神道の聖域がざらに二つ市中にあるが、町では純粋の神道は代表的ではなく弱い。

 

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38号      松山、日曜日、19161015

松山、第四部

宗教

3)仏 教、 4)キリスト教

 

徳川家紋章

大林寺門扉の木彫

(アンゲルシュタインの写真による)

 

 

仏 教

 

すでに先に触れた仏教は神道体系の対立者であるが、最近の日本では再び強力な活動を示し始めている。しかし信者の心の奥深い所にまで入り込んでいるとは決して言えない。民衆の広範な層にとって仏教は単に伝統的、表面的、そしてひどく迷信的なありようで生きているに過ぎない。

周知のように仏教という宗教はインドの領主の息子シッダルタ、名前はゴータマ(紀元前557‐477)によって生命を与えられた。「仏陀」とは「覚醒したる者」また「光明を受けたる者」を意味し、この宗教創始者が後に信者によって付加的に付けられた信仰上の名前である。

ゴータマの思想が主として基礎にしているのは、生きとし生けるものは苦悩なり、である。生誕は苦悩、老齢は苦悩、病気は苦悩、死は苦悩、好まぬ者との合一は苦悩、愛する者との別離は苦悩、望みに至らぬは苦悩、つまり存在に係わりを持つすべてのものは苦悩である。

存在形態の「原因」となるのは再生であり、これを不可能にすることが仏陀の教えの「核心」である。しかし再生の諸原因となるのは渇望、すなわち、我々がキリスト教では賞賛する存在への意志である。この「渇望」こそが、一切の命あるものを実在へ固執させるもの、ある生命の絆が死において解消する時、ある一つの存在から別な存在へと導くものである。しかしこの「渇望」が完全に克服されている場合には、いかなる新しい実在ももはや生起できず、その時信ずる者は「ニルヴァナ」[涅槃]、つまり「完全に苦悩の無い境地」の状態、−「無」に入って行く。仏教の世界に入る人は、蓮の花の如くに日常性という泥沼から光明へと立ち上がり、やがて後には平和で瞑想的な存在を過ごすこと、蓮の葉が静かに水面に浮き漂うが如くとなる。だから蓮の花が仏教のシンボルと見做されることにもなる。ニルヴァナに至る道及び教義と結び付いた理論は実に複雑である。なんとか我々の十戒と並列させられる主要条件だけにここでは言及することにする。正しい信仰、正しい決断、正しい言葉、正しい行ない、正しい生活、正しい努力、正しい思考、正しい沈潜である。仏陀の教えは我々の考え方からすると起源的には無神論である(デーリング)。

ゴータマは、神々の存在を承認してはいたが、生誕の循環における最高の段階としてのみ考えていた。バラモンの哲学から出て来た彼の教えは魂の遍歴[(リン)()]信仰を持ち続けた。彼の見解によっても罪人は地獄に入るか、動物、妖怪もしくは悪鬼として生まれる一方、善人は神々の仲間になった。確かにこれはしかし、現世地上での善き生活に対する判りやすい報いを求める民衆を単に是認することだったであろう。ゴータマ自身は、自分の教義となんの係わりもないので、神々の問題にたずさわることは常に退けていた。彼は神々のなかに − 彼本人がそもそも信じているとして − 単に実在、したがって新たな苦悩の一状態を見ていた。その結果、彼の教義の到達最終目標は、「ニルヴァナ」が「神たる状態」を越えていなければならない、ということになる(ピッシェル)。

仏教という宗教は東洋の大部分にとって、西洋にとってのキリスト教に劣らぬほど文化の担い手となっていた。仏教との結び付きを持ったキリスト教の伝道団は僅かな例外を除いて、仏教の倫理がキリスト教のすぐ後ろに位置するもの、という点で一致している。キリストのように仏陀も一切の外面的敬虔さを捨て去り、己れ自身への倫理的働きかけと隣人愛を教義の頂点に据えた。彼の戒律はキリストのそれをよく想起させる。二つの宗教の創始者は両者とも個々の階級ではなく、辛苦し重荷を負う人々の大衆にたいして向いている。

仏教は途方もない広がりを見せた。ヨーロッパにさえ信者がいたし、仏教を将来の宗教と見る人もいる。ヨーロッパに移植された仏教は、仏教であることを止めていることを、この人達は忘れているだけである。類似の現象を我々はすでに日本において確認できる。仏教は日本へ中国(紀元後61年)と朝鮮(紀元後372年)を経由して紀元後552年に強く変化した形で入って来たのだから。

ニルヴァナ、つまり消滅と中断という教えは日本人には好まれない。以前のように天国と地獄の存在を信じていた。天国では浄化された人々が仏陀の下ですばらしい生活を送り、地獄では悪しき人々が言語に絶する業苦に苦しめられる。彼等の見解では仏陀が神々の中でもちろん最高の地位さえ占めている。仏陀は天の王「阿弥陀」と一体化して同一の神性となる。全部で28の仏陀が出現した後世界はその最後の時期となる。その仏陀のそれぞれがゴータマを除いて5000年ずつ統治した後に。これらの仏陀と並んで神々の大きな神殿には仏陀達の「精神的な息子達」、すなわち「ボディサトラ」(日本語で菩薩 − 仏陀となりうる聖者に対する名前)、さらに「500の若き」仏陀、「大司教達」及び「無数の守護神」がいる。

例えば、 「阿多福(オータフハ)」       幸福の女神

     「弁天」      慈悲と恩寵の女神

     「閻魔(エンマ)(オウ)        死者の神

     「庚申」       道の神

     「布袋」        幸福の神

           等々

新来の神々は日本人の古くからの神々を同様に切り離すことはできなかったので、ゴータマ元来の教義とは余り係わりがなく、その基盤においては全く別な宗教となる一種の仏教を今日日本で見ることになっている。−

表面的には仏教はカトリックと多くの類似をしめす。ムンツィンガーは、「彼にもこれにもきらびやかな寺院、華やかな行列、装飾豊かな僧の衣装、燃える蝋燭、香煙の授与、祈祷用珠数、護符、聖遺物崇拝、巡礼、贖罪、肉体的な改悛行為、浄罪火、修道院、修道生活、僧侶の結婚禁止(日本では廃止)、僧侶の階級制度、肖像と聖者崇敬、頭の周りの光輪などなどが見られる。だからあたかも仏教は、ネストリオス主義のキリスト教[景教]が中世の盛期まで広範に広がっていた中国、特にチベットにおいてこうした事物をカトリックの文化から借用したかのような、様相をも呈している。」と言っている。− 多くの研究者は慈悲の女神である観音(中国語でクヮンイン)さえ我々の「聖母マリア」と結びつけている。

最も大きな仏教寺院はすでに遠くの方からその塔でよく見分けが付けられる。たいてい「仁王」、すなわち二体の鬼神の王、インドラとブラーマが通常おどすように立っている(タイトルの絵参照)入口の会堂を通って寺院施設に足を踏み入れると、無数の石や青銅の灯籠、鐘楼、鼓楼、経蔵、宝物殿その他の礼拝場所に我々は出会う。寺院自体は神道と対照的に貴重な品々、すなわち青銅製工芸品、絵画、絹や金の刺繍作品、無数の偶像が集められている。−

元来は仏教の施設、例えば灯籠、これはたいてい富裕な発起人の寄贈であるが、もしくは塔のようなものは神道の敷地にもあり、また例えば鳥居が仏教寺院の庭園に見られるたりもする。一方ではこの二つの宗教が混合したことに、他方では王政復古の時代に仏教が排撃され、多数の寺院が破壊されたり、神社に姿を変えたりしたことにその原因がある。

神道同様に仏教も数個の宗派に分かれ、大宗派12と小宗派39に区分している。真言宗は紀元後806年に弘法大師(空海)が開いたもので、四国では広く行なわれている宗派である。この創設者は中国での長期にわたる勉学の後、僧侶の地位の向上と民衆の教育に多大な功績を残した。特筆すべきことだが、日本の音節文字を改良し、アルファベットの形に整理したのは彼である。空海の47文字とは、平がなである。なん十万人となく毎年我々の島を縦横に旅をしている無数の巡礼は、ほとんどすべて彼の信者である。彼等はたいてい春に、空海が生活したり活動した88個所を参詣する。その際巡礼者は200里(3090km)[ママ、約800km]という長い道程を一定の期間内に踏破しようとする。比較的若い人は35日、平均は50日、年配者は80日を要する。巡礼の大部分は、町や村の多くの人々ができるだけ数多くの巡礼を自分の家に引き取り、面倒をみるのを名誉とも誇りともしているので、巡礼の期間中お金を使わずに生活する。外面的な標識としてはたいてい白装束をまとい、大きな笠と、自分の名前と、「ドーギョー[同行]」すなわち「二人で」、神たる弘法大師(死後の称号)に巡礼者と足並を揃えて同行してもらいたい、ということを示す文字を書いた木札を携行している。− 巡礼の祈祷の言葉は僅かである。手に珠数を持ち礼拝場所の前に立ち、拍子をとってはてしなく「南無大師遍照金剛」と口ずさむ。これは大凡の所、四国の最初の巡礼であり、今では神々の中におわす弘法大師が、影の人間に従うが如く、巡礼に従って欲しい、というほどのことだそうである。− 巡礼を大いに引きつける力を、道後の裏にある美しい寺「石手寺(イシテジ)」が持っている。特に、森の中に絵のように配置された寺や見事な塔のような、この寺の結構は我々も知っている。ここから巡礼は山越(ヤマゴエ)の近くにある「太山寺(タイサンジ)」へ巡礼する。

しかし最大の聖地はすでに触れたコンピラ[琴平](第32号の略図の2を参照〔前号81ページ〕)である。今日ここは、神道が1872年に自分の方に引きこみ、大部分を破壊した礼拝所の一つである。にもかかわらずこの場所は相変らずこの島のもっとも重要な聖地とされ、たいてい真言宗に属する巡礼 900 000人以上が参詣する。その他の宗派のうちではもう一つ浄土宗(1175年開宗)を強調しておきたい。松山の62の仏教礼拝所のうちでたいていの山越(ヤマゴエ)の寺院がこれに属している。(山越というのは、電車路線の北側にある地区全体のことである。)この宗派は、それ自体としては比較的単純な民衆にとってなかなか判りにくい仏教の倫理説慨念を判りやすい形にすることを、課題とした一方、教養人に対してはまたそれ相応の尺度をあてている。若干のその他の宗派と反対に浄土宗(浄土=「清らかなる土地」)の僧侶は説教を行い、その他にキリスト教で言う教区内での活動を行っている。祈祷の言葉を単調に無限に唱えることはすべての宗派に固有であるようだ。少なくとも一日五回我々の僧侶ないしは家族の一員たる補佐役(妻と子供)が何度も繰り返す叫び声、「南無阿弥陀仏」で我々を喜ばせてくれているが、これは「死に思いを致しつつ私はあなた− 仏陀に沈潜します」という意味である。僧侶はこの叫び声に鐘、木魚、二本の音木[拍子木]を絶えず伴奏させる。−

巡礼は浄土宗において真言宗のたいていの反対派一般と同じくたいした意味を持っていない。

我々の収容所内の寺々は余り興味あるものを示していない、いわんや内部の装飾を取り外しているのだから。そもそも重要でもない我々の収容所寺院は、松山のその他の礼拝所とおなじく京都、東京ないしは日光の有名な聖域とはとても比較できない。将校宿舎である来迎寺は175年の古さで、以前は道後にあり、そこに1200年頃に建立されたが、建立者である大名河野氏が、戦争で敗北したので、焼かれてしまった。今日の建物は、すでに250年来松山で重要な役割を演じている中田一族が当時建てたものである。寺の前の灯籠二つは今日の当主の寄進である。面白いことにこの寺は相変らず今もあの河野氏の紋章を付けている。

 建物の僅かばかりの装飾はそれぞれ二つの象と獅子の頭からなり、入口の門の支持梁の端に彫り込んである。象は瞑想(沈潜)の神である「普賢」を、獅子は智慧の神「文殊」を象徴しているのだそうだ。この二つの性質は仏陀の主要美徳として賞賛されている。寺にあるその他の動物の像はすべて、一切の悪と危険を遠ざける力があるとされる善き精霊の寓意である。

目にするのは − 中国同様に − 片方は口を閉じ、他方は口を開けている二頭の獅子である。これは(アマ)(イヌ)(すなわち天国の犬)と高麗犬(コマイヌ)(朝鮮の犬)である。ざらに中国の寺院で我々がすでに承知している想像上の動物である不死鳥、亀、龍が見られる。その他の寺院、浄福寺、不退寺、ショーケンジ[長建寺]、弘願寺は同様に見るべきものはなにも呈していない。屋根の尖った所として、あるいは個々の瓦の上や一部は寺の内部にも観察できるのは、寺院の建立に寄進した人々の紋章である。鈎十字はあらゆる仏教寺院に出現する印である。これは仏教にとっては十字のキリスト教に対するような象徴である。収容所道路の南側にある寺の海の方を向いた場所には領主久松氏の墓所があるが、この寺は絶間ない騒音によって我々の注意をひく。この寺は1252年に開かれた日蓮宗(法華)に属する。もう朝の4時には太鼓の音が収容所中にまで鳴り響き、単調な「妙法蓮華経」がその伴奏となる。この言葉はおよそ「私の魂をあなたの永逮の法に取り込んで下さい」という意味だそうだ。

もちろんこれで僧侶の日課が終わっているわけではない。それ所か余り旋律のない楽器での彼のねばりは僅かに中断するのみで、しばしば深夜にまで及ぶ。一宗派の信者が他宗派の寺を参詣するということは生じても、僧侶の方はお互いになんらの関係も持っていない。日蓮宗の僧侶達は近隣の寺院の同職者とは通常いかなる交りをも結ばない。

「大林寺」は以前見樹院という名で、すでに前に言及した加藤氏(1601-1625)の下でその「城内教会」として建立された。− 1672年頃久松定行はこの寺を崇源院とまず名付け、一族あげて浄土宗に転宗したが、このことは勝山に神道の神々のために特別な社を建てる妨げには少しもならなかった。その後時代を経て崇源院は「大林寺」(すなわち「大きな森林の寺」という名称を得た。現在の寺は比較的年代としては新しい。1817年加藤氏時代の建造物は悉く焼失した。久松氏は − すでに前に述べたように − 徳川氏と近い親類であったが、この一族の多くはこの寺の敷地に葬られている。このために徳川の紋章である三葉のクローバを寺の紋章としている理由ともなっている。

「卒塔婆」ないしは「塔婆」(図6と7)はよく仏教寺院境内で見られる記念碑で、これはストゥーパ(塔)のなまりで、元来はインドの聖者のために墓石として建てた。日本では高低の二つの形を区別する。どちらも五つの基本物質つまり、(上から下)球=空気、半月=風、角錐=火、球=水、賽=地、ないしは人間世界に移し変え、宇宙、息、血と液の身体の熱、及び骨と肉の象徴だそうである。大林寺の庭には背の高い卒塔婆があり、その五つの部分を明瞭に見せている(図7)。球にはインドのサンスクリット文字が彫ってあって、その「キリク」の意味はおよそ「阿弥陀」である。地を象徴する長い石柱には浄土宗に特有な題目「南無阿弥陀仏」の碑文が彫られている。

一切の罪の許しは卒塔婆を見ることによって、招来されるそうである。これの原形である塔(図8)は二層、三層、五層、十三層の記念碑として見られるが、元来は記念の構造物に過ぎない。まれに聖者の聖遺物を中に納めていることがある。

寺の脇に配置されている墓地は本当に美しくまた整然とした状態を保っている。たいていは仏教信者のものである墓は単純もしくは彫った石材で飾られ、その前には元来は神道の習慣であったのに従って、聖木である榊の枝数本が欠くべからざるものである。ただ僧侶の墓は特殊な墓石の形(図10)をしている。一般的に日本の仏教徒はその偉大な師にならって今日では火葬されるが、神道は伝染病の場合にのみ国家の強制のためにこの埋葬方式に従う。ほんの数十年前まで火葬は行われていなかった。中国同様に民衆は、人間にはおのれの肉体を破壊する権利はない、とする孔子の教えを固く守っていたのである。

開明した仏教がようやくこの点で変化を生み出した。いずれにしても火葬反対者の数はまだ多いので、政府は、この衛生的により合理的な埋葬方式を普及するためにあらゆる努力をしている。

仏教と神道の墓地の本質的な相違点は仏陀、菩薩、観音の像にあるが、仏像は一般的には装飾にしかなっていない。

たいていこれらの仏像は単に仏陀の像として描かれるが、もちろんこれは本来の意味と矛盾している。

仏教最高の神性ないしは、日本人がいつも好んで呼ぶ「仏さん」である仏陀・阿弥陀はたいてい寺の内部の背景の中央を占めている。特別な特徴として阿弥陀は髪の毛を沢山の小さいかたつむりの家のように巻いて縮れさせていて、これが慈悲、憐憫、叡知、悟性を象徴しているそうである。頭には、しばしば宝石ないしは磨きガラスの形をし、善意、美徳、悟性、賢こさ(大林寺の青銅の鐘も見ること)のシンボルである「ニケソ[肉馨]」が見られる。同じ特質を額にある小さい球(ピアクゴソ)が象徴しているそうで、これはすべての神性に特有である。いわばこれは神の眼で、すべての人間を「人柄の差別なしに」じっと見詰めている。仏陀の解釈という点では主として三つの形態を区分する。座っている、立っている、寝ている仏陀である。すべての描写様式において仏陀は普通の僧衣を着用し、上っ張りとしてマントを纒うが、右の肩は露出させている。耳たぶは異常に大きく、顔付は固くて美しくはない。立っている仏陀は説教者として光明を与える者、座っているのは瞑想者として、また寝ているのはニルヴァナに入ろうとしている者を示している。ボディサトヴァス(菩薩)の頭は例外なく無毛で、仏教の僧侶の外見と似た特徴をしている。

たいてい菩薩は瞑想に耽る姿勢で神秘的な宝玉「如意宝珠」を持つが、この力ですべての願望が充足されて行く(詳細はラフカディオ・ハーン『蓮と仏陀』参照)。菩薩は危険な状況にある、ないし心配している人々 − 特に子供達の守り神である。

ときには「六地蔵」にも出会う、例えば弘願寺、来迎寺の前のように。伝説によれば地蔵はもともとは女性であったそうで、彼女は「六つの世界」のすべての生あるものを回心させようという願いに満たされていたという。民衆の信仰の中で今日まで無数の形で維持されてきた神秘的な神々の物語はすべて当然のことながら無数であり、従ってこれを漠然とでも記述するのは、できない相談である。

慈悲の女神である観音も菩薩の一員で、人間の魂を救済するためにニルヴァナの安らぎを退けた。その像は多くの変化を呈している。しかしすべてその女性らしい外見で面倒なしに判る。

仏教の墓地ではさらに細長い板という形をした記念板を多くの墓の側で見るが、これもすでに述べた卒塔婆の形をしている。それには死後の名前と死者の死亡年及び、例えば、南無阿弥陀仏のような念仏が書いてある。137131725335066100年後にこの記念板は更新される − その後は50年毎に。

類似の木製の板がたいてい仏教寺院の前に、その寺院のためになされた寄進を公けに証するものとして、寄進の金額につれて板も大きくなっているのが見られる。

こんなように我々の小さな収容所からの観察はまだいろんな話があろうけれども、我々にとっては非常に遠くにある領域に我々の読者の注意をとにかく向ける − すなわち日本の文化に限り無いほどの重要性を持っていた日本の仏教に向けるには、これでその目的には十分であろう。

私がこの素材に少し長く滞在し過ぎたのは、一つには仏教のような領域を僅かな言葉で片付けることはできないからであるし、また他方では我々はすべてこの宗教の外面性に対しては継続的な実感を持っているからである。当然のことながら、この広範に広がった教義の研究に立ち入って没頭する人のみが余す所の無い姿を描き出すことができる。− 研究する場合には仏教の僧侶は僅かな程度にしか助けにはなりえないだろうが。すでに近代仏教の領域でもっとも重要な研究者の一人である村上教授がこう言っているのだから。すなわち、僧侶のもとでその信仰の基本問題を問いただそうとしてみても、答えられるような人は夜明け空の最後に残る星のように僅かしかいないであろう、と。

 

キリスト教

 

1549年頃にポルトガル人ザヴィエルとカスパが日本に持ちこみ、数十年の間に150万の信者を獲得したキリスト教は徳川氏の初期の間に死罪にするとおどされ、ほとんど完全に根絶された(1638)。王政復古以降再び多数のキリスト宣教団がこの島国で活動する。日本政府はキリスト教の自由な活動を許しはしたが、その国民にはそれへの改宗を禁止した。にもかかわらずキリスト教信者が形成されると、政府は170人の日本人信者を牢獄へ入れ、1868年には4100人を流刑にすることまでした。 1873年にようやく日本政府は外国代表の強要に屈して、以後日本人キリスト教信者に対する一切の迫害を廃止したい、と約束した。これによって数多くの宗派の宣教師に活動の広い野原が開かれた。

しかし中国と同じように余り大きな進展をしていないように見える。その理由は多様である。上流の階級は − 前に触れたように − 拒否的な熊度をとる。下層階級は先祖の信仰に強く固執し、神道によって何千年来その信仰に結ばれていると感じている。中流階級は、日本人一般がそうであるように彼等にも超感性的なるもの及び思弁的なものはないので、手が届き難い。信仰問題では表面的であり、精神的な傾倒に満足し、宣教師の細か過ぎる詮索には余り心を傾けない。すでに仏教の形而上学が日本では決して確固たる足を下ろしたことがなかった。さらについでに強調すべきことは、多くの「キリスト教」国の「非キリスト教的政策」が、日本人をキリスト教不信にするのに大いに寄与してしまった。

いずれにしてもこの数年にキリスト教教会の大巾な伸長が日本では認められ、ローマ・カトリックが最大の信者を以ている(65615)。日本で確認されているキリスト教徒165000の内で松山の占める割り合いは実に大きい。我々の町とその周辺には全部で種々な六宣教団が活動している。その内訳は、

          1 ローマ・カトリック

          1 ギリシア正教

       と  4 プロテスタント教会(救世軍を含む)。

カトリックの宣教団はスペイン人ドミニコ会修道士が切り盛りし、教会をもっている。ギリシア正教団は日本人牧師の指導下にあって、同じく自前の教会を使っている。

プロテスタントの4宣教団はアメリカ人の創始で、もっとも多くの信者を持っている。その管轄下に日曜学校が8校あり、キリスト教徒と異教徒の子供達が福音書の教義を教えられている。

キリスト教徒の人数という点になると数字は非常に食い違う。宣教師のハーバーザング(第6中隊)* に当地の宣教団の一員が次に掲げるようなまとめを渡した。

松山のキリスト教が全く並み外れて広がっている、ということをこれが証するとしても、この一覧表に挙げられている数字は − たいていの日本の統計と同じく − 大変過大である、というのがやはり当たっているように私には思われる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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*冨田注)フリードリヒ・ハーバーザング、海兵隊員、第6中隊所属。

 


 

松山のキリスト教団一覧表

(日本人クリスチアンの報告による)

 

 

  

教団関係者

教区

信者

カトリック

スペイン人ドミニコ会

1 宣教師

1000

ギリシア正教

ロシア教会

−−−

 

プロテスタント

アメリカ組合教会信徒

 

 

 

アメリカ長老会派

2 宣教師

 

 

アメリカメソジスト派

2 宣教師

4000

救世軍

 

 

 

5000

 



[1] 復刻版ではこの地図は次の第37号にあるが、元のタイプ版にはここにある(双方とも図番号はない)。なお「幕府領」は原文では Kaiserlich だが、これはおそらく「天領」の誤訳であろう。

[2] 勝山は松山城の建つ山の名称。

[3] 松山城天守は1784年に落雷により焼失。再建は1854年のことである。(内田・寺内・川岡・矢野著『愛媛県の歴史』山川出版社)