11. 三木先生との出会い
 
大西 正隆
 
 いつも見上げる居間の壁に、一面の額が掛けてある。愚息の大学入学祝いにと、三木先生からお送り頂いたものである。
 『一日琴風亭にあそんで、二挺こぐ船の時となく行きかへるを見るに、まことに、まことに観念のたよりなきにしもあらず、古人の意気をかすめては、徒らに揚墨がともからに落、安楽の果に乗じては閑かに長明が方丈をうらやむ、人生の限りあるをや、心をし志に屈せるもののくるしみ也……一瞬の櫓をおさえて生路を勘破す。』晋子酔書
 思えば、あれはたしか昭和三十年の春だった。先生が初めて教壇に立たれたという、解剖学の講義が出会いであった。その何回かの講義にも、この俳文を拝聴した記憶がある。初回の講義にと入室された時、休み明けで、教室は大変な喧躁ぶりだった。先生はしばしば立ち往生された。その時一人の学生が立ち上がり、「諸君、静かにし給え!」と言ったので助かった。と「あれは確かに大西君であったと思う。まあ、今日はそうしておこう」と、後年、小生の結婚式で御祝詞を頂いた。小生、ぽかんとするやら、汗が出るやら、未だに当日のことを思い出します。
 解剖学の試験の一問は、事前に問題を発表された。「人間と動物の違いについて記せ」と。これだけは本気で採点する、と言われた。ぴたり、こんな題名の本は無いものかと、神田の古本屋街に下って行ったが、そううまくはゆかず、答案用紙全面に黒々と書き、時間ぎれ間際に苦しまぎれに、先生がお好きであったゲーテの言葉で、「人間、努力するかぎり迷うものである。」と書いてごまかし、やっと、及第点をいただいた。先生のお住まいを初めて訪ねたのは、講義が終わって何ヶ月かの後だった。部屋には予想に反して、僅かな書籍が机の傍にきちんと積んであった。クラーゲスの「性格学の基礎」を読んで感銘をうけ、他の本は古本屋を呼んで、全部売ってしまった、と言われたことを思い出す。その日のクラーゲスについての講義は閉口するほど難しく、長かった。先生の謦咳に接すると、身が洗われたように、目から鱗が落ちたように、幾日もの間、まことに爽やかな気持ちになれた。しかし参上する時は数日前から襟を正して、深呼吸をして、という気持であった。いつの頃か暑さに向かう憂い夕方、お茶の水の教室を訪ねた。先生は濃い手術着の重装備で教室に帰って来られた。多分大きな手術に立ち会われた後と思う。例の口調で「君、今日は時間はあるかね」と言われ、ヒル・トップの食堂につれてゆかれた。その日、食事の時の先生は、ただ黙々と懸命に食された。「小さい処だが、一軒落ち着ける店があるんだ」と先生の後について神保町の裏町に下っていった。「何だ、こりぁ!」「今日は休みか!」それは小さなBARだった。小生は遠慮がちな声で、高円寺の行きつけの所にお誘いした。「よし、行こう」と、……。すっかり嬉しくなって、先生と案内した。そこは当時画家の卵や学生や小説家の集まる八人も坐れば満員という店だった。ママとは言っても、二十J位の瞳の大きい、何かの妖精か、という雰囲気をもった髪の長い少女であった。我々皆のマドンナだった。BARに似合わず、先生の好きなドボルザークのチェロ、コンチェルトがかかっていた。先生は大いに気に入られた。もう一軒も我々学生のマドンナで、芸大の油にかよっている女性の処だった。話の中で「美術解剖学の中尾先生の単位が取れそうもない」と彼女が言うと、「中尾先生はそんなに厳しいか」と大笑された。屋台のオデンを食って、先生は路地で立ち小便をされた。小生も愛弟子らしく、お付き合いした。その夜は小生の狭い下宿に泊まられた。
 後年、大学紛争で学園が荒れた時だったか、先生から頂いた年賀状に、「この頃、しきりと、高円寺で気持ちよく酔い、立ち小便をしたあと、失神したことを思い出す」と書いてあった。仕事も子供もほったらかして、すぐにも上京したい衝動にかられたことを思い出す。いく年か過ぎ、鄙にも「内臓のはたらきと子どものこころ」につぎ、「胎児の世界」が送られた。お訪ねしたあの頃は丁度お茶の水の高台で、卵に墨を注入され、動物が水から陸に向かって上陸を始める「脾臓の遊離」の実験をしておられたのだ、と、ヒル・トップで食事をし乍ら、卵のことを考えておられたのだ、と後になって思った。
 歯科医師として東京で数年勤めたのち、妻をつれて郷里に都落ちする時、先生は駅頭で、「これから君は医者になるんだが、医者になってはいけない。その時からもうお終いだ」と含蓄の深い言葉を頂いた。すっかり田舎医者になった今も、時にふれこの言葉を思い出す。上京の際は、時折、上福岡のお住まいや上野の森に現れては先生を驚かせた。又、或日突然見知らぬ人からお呼びがかかった。小生の町には芸大に縁の深い平櫛田中館があり、その関係で来られた芸大の澄川先生であった。澄川先生の井原行きを偶然に知らされた三木先生が、是非とも大西君に会ってくれ、ということだったのだ。その夜、芸大での三木先生のことをききながら痛飲をした。やがて、先生には長崎大学の集中講義が始まり、帰路途中下車で毎年寄ってくださった。その頃にはもう酒はあまり召し上がらなく、妻や子供達と先生のお話を聞いた。暮になると先生の御来駕を心待ちにするようになったが、今はもうそれも叶わず、何とも表現出来ない寂しさをおぼえます。
 学生時代は良き師よりも、良き友を得ることに意義があると言われますが、小生は本当に良き師との邂逅に恵まれて、色々なことを教わりました。
 とりとめも無く思い出すままに、過ぐる日のことを書いてみました。いつの日か、黄泉の世界できっと先生にお会い出来ることと思うのも、大脳皮質のなせる煩悩のなせるせいでしょうか。
合掌  
(岡山県・井原市)