青島戦の話題二つ

校條 善夫(春日井市)

名古屋俘虜収容所の調査研究をしている中で印象深くメモした2件を紹介します。既にご存知の方もおられるかも知れませんが。国際法や国際条約などの側面とは別に、当時の軍隊の規律や人間の温情的な様子がうかがわれて興味深いと思います。俘虜研究のもうひとつの側面として注目すべきではないかと考えています。

 

日本軍のモラルを重視した戦闘行動

第三海兵大隊機関銃隊の陸軍大尉フリードリッヒ・F・フォン・シュリック氏が1915年名古屋で講演した記録のうち、「日本軍のことについて」という講演の中の一部を紹介したい。講演場所は書いてないが、1915年の講演であるので当然名古屋俘虜収容所内だったと思われる。名古屋に限らず他の収容所でも、俘虜は自分の得意な専門分野の話や自分が考えていることを所内で講演をしている。この講演記録もそのうちの一つである。

講演を記録した原文はフライブルクのドイツ連邦軍事公文書館所蔵の資料である。(Vortrag des Hauptmanns v. Schlick gehalten 1915 in Nagoya, Japan : “Etwas über die Verhältnisse der japanischen Armee” S. 8~9  im Besitz vom Bundesarchiv -Militaerarchiv in Freiburg)

「日本軍が青島市街中心部へ攻め込んだ後、日本軍の一人の兵士がドイツ婦人の金の首輪をもぎとった。それを見た日本軍の将校は、即座にその兵士を射殺した。他に日本軍兵士三人は中国人の持ち物を略奪した。日本軍将校に引き渡され即座にひざまづかされて射殺された。さらに三十六人の日本兵と二人のイギリス兵も略奪行為をしたために射殺された。さらなる略奪を止めるために、日本軍は市街地の入口にテントを張って警戒した。この行動は日本が文明文化国家の一員であることの評価を傷つけないための行為であった。日本軍はこの(モラルの)点を極めて重視して戦闘行動をしていた。」

 

「軍律は厳しい」とは聞いていたが、これほどの厳しさには正直驚かされる。あらゆる点で「優等生であり模範生でありたい」という当時の国是は、「極めて厳しいモラルの実践」で「国威の発揚」をしていたのか。印象深いのは執筆者フォン・シュリック大尉が当時日本は国際的に「紳士の国」「一等国の一員」として認知されたいという、日本についての認識をもっていたことである。青島戦当時の日本の立場を論ずる一般論と共通している。

     しかし略奪の罪で射殺された日本軍兵士は、遺族には「名誉ある戦死」と伝えられたのか、どう伝えられたのか気になる事件である。

 

一時休戦して戦死者を収容

朝日新聞合資会社発行の『青島戦記』には次の現地取材の記事がある。

激戦地に放棄されたドイツ兵の死体の収容について、双方で連絡しあう中でドイツ軍は日本軍の手で収容してほしいと願望してきた。その間砲撃を中止して死体を担架に乗せて埋葬地まで運び丁重に埋葬した。埋葬地には夫々戦死したドイツ兵の認識票を記した墓標を立てた。「葬るもの葬らるる者何れか武人の情にあらざらん。旅団長以下悉く黙々として一語なし。」(『青島戦記』朝日新聞合資会社 大正4年1月 86頁)

激戦の最中でなく戦闘が終わった時点で、戦死体が累々として横たわっている情景を見かねて日本軍からドイツ軍に電話連絡したと思われる。死体収容の日時は大正三年十月十二日の午後一時より四時までの三時間の間の収容作業だった。旅団長以下軍司令部の軍人が丁重に墓標に向かって手を合わせていた。

太平洋戦争中南方のジャングルでやむなく放棄されたままの戦死体、餓死や戦病死した幾万の霊などとはまったく雲泥の差である。中国戦線から帰国した兵士からきいた話では、死体を焼く時間も場所もないので、手か足の指を切って缶詰に入れて首か腰に下げて行軍した。駐屯地に着いてから後方の本部へ送っていたといっていた。遺族に届いたかどうか。あえて付け加える言葉はない。