名古屋の音楽会

 

校條 善夫(春日井市)

 メール・レポート No。541号(平成25年7月7日)に「鳴門市ドイツ館講演会―名古屋収容所の公開音楽会」と題するレポ−トが掲載されていました。投稿者は匿名でした。私が発表者ですので、若干の感想を申し上げます。この感想が遅れたのは、その間地元の講演会の準備などで多忙だったためです。

 まずこの講演会に来て頂いたことに感謝申しあげます。またかなり正確に講演の趣旨をお聞きとり頂いたことを嬉しく思っております。話の本旨はこのレポートでよく伝えて貰っていると思います。若干の私見をお知らせします。

 その前に申し上げておきますと、このテーマについては、今年のおそらく12月頃の発行かと思いますが、ドイツ館より年刊研究誌『青島戦ドイツ兵俘虜収容所 研究』第11号が発行されます。これに拙稿が掲載されます。名古屋で公開の音楽会を開催できた主な理由は、@俘虜の解放が近い時期で取締が緩和気味であったこと。A公開の演奏場が名古屋第三師団軍楽隊の定番の演奏場であり、名古屋市民馴染みの音楽演奏場であったこと。B元名古屋第三師団長の仙波太郎陸軍中将の蔭の説得があったと推測されること。研究誌第11号でこのテーマを扱った講演会の話をさらに詳しくレポートしておりますので、関心のある方は参考にして頂ければ幸いです。因みに言えば有名な板東収容所でのベート−ベンの演奏は、市民に公開されたものではなく俘虜だけを聴衆とした収容所内の演奏会でした。

ところで収容所研究としてはまだはっきりしない案件があると私は思っています。例えば、

@    日本の当時の各収容所が共通の方法で処理していたもの何であったか。

A    所長のレベルで独自に処理していたものは何であったか。

(=陸軍省への通達は必要でなかったものは何であったか)

B    陸軍省へ通達すべき案件は何であったか。

これらの区別を一度明確にするべきだと考えています。しかしあるいは既にどこかで明確になっており、私だけが知らないだけかも知れませんが。そうだとすれば、ご容赦願うことになります。

さて本題に入りますが、名古屋における公開の音楽会開催は、四国の場合と比較して四国は開催しているが、名古屋は俘虜の解放時期近くまで開催できませんでした。開催した公開音楽会は大正8年5月27日でしたが、陸軍への申請書はありません。従って『業務報告書』の「音楽及演劇」の項には、俘虜が所内で音楽や演劇を楽しんだことは書いてあるが、所外での公開の音楽会については一切書いてありません。

NO。541号の投稿者は、「四国も名古屋と同じく陸軍省にお伺いの申請書を出しておれば、開催はできなかったのでは」と、書いておられるが、それは多分そうだろうと思います。しかし「松江所長は『独自の判断で』陸軍省へ届けなかったので地域住民との友好的な交流ができた」と、松江所長の行為を評価されています。

私見では名古屋と四国の間で一番大きな相違は、収容所と師団との距離の違いではないかと考えています。名古屋の収容所と第三師団司令部とは、市電を利用する距離ですが、師団司令部の近くには練兵場、歩兵第六連隊、野砲第三連隊、輜重第三大隊、陸軍病院(衛戌病院)、偕行社、陸軍幼年学校など陸軍の施設が沢山ありました。これらと師団司令部とは日常的に相互の存在を意識し合う関係にあったと思います。収容所とは日常俘虜の就労申請で頻繁に書類のやり取りや電話での問い合わせもあったと想像されます。つまり収容所の日常はいつも師団司令部(衛戌司令部)を意識し、一方師団司令部は収容所の日常業務を掌握し、相互にすべてを知り尽くした関係だったと思われます。師団長の収容所の訪問も俘虜の到着や帰国にはありました。この日常性は同時に東京の陸軍省とは身近であったということだといえます。

名古屋と四国の相違は、この距離感あるいは今風に言えば「温度差」だと思いますが、どうでしょうか。「どんな小さなことも陸軍省に黙ってはおれない立場」が名古屋にはあったように思われます。つまり無通告で黙って実行すれば、収容所長の立場はなく、場合によっては所長の交代や左遷などの〔仕打ち〕があったかも知れません。

善通寺の第11師団と四国の収容所との日常はどうであったのか。名古屋と同様に師団司令部や陸軍省との日常的な交流があったのかどうか。ここで例にもちだすのは適当かどうか迷いますが、旧満州の関東軍と東京の陸軍省または大本営との距離感とよく似た「温度差」があったのではないかとも思いますがどうでしょうか。

投稿者の記事で松江所長は俘虜の海水浴に理解を示し好意的な措置をとってくれたとも書いておられます。名古屋では近郊の海水浴場、三重県や知多半島の海水浴場をはじめ、近郊の淡水河川での水浴をしております。名古屋市内の観光地への散歩や電車や汽車を利用して県外の景勝地にも行楽に行っております。またスポーツではサッカーのゲームで旧制中学にいくとか、運動会やサッカーを楽しむために公園の運動場へでかけたということもありました。それらの記録は『業務報告』に写真付きで記載されていますし、地元の新聞に大きなスペースで記事になっています。しかしこういう行楽やスポーツのゲームを陸軍省にお伺いや申請した記録はありません。収容所長が真ん中に立って俘虜と一緒に写真に写っている写真も残っています。

行楽やスポーツは収容所長の判断で自由に出かけていたようです。

投稿者の記事に「足を洗おうとしたら転んで海に入ってしまったことにしろ」と、松江所長が俘虜の海水浴に特別の配慮をしたと書いておられますが、名古屋ではそれほどの気の配り方は必要なかったようです。逆の印象が残るNO.451の中の文章でした。

 未だ解明すべき事項は多々あるように思います。研究者同士は勿論、第三者からの問題提起は貴重です。また感謝すべき提案と受け止めています。今後究明すべき課題として努力したいと思っています。

 

 

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