仙波将軍 と 俘虜の公開音楽会
校條 善夫(春日井市)
 
 先便では大正8年5月27日鶴舞公園の奏楽堂で俘虜が名古屋市民に公開で音楽会を開いている写真発見のことを、このネットでお知らせした。名古屋では俘虜の公開の音楽会開催や楽器指導の要請は、陸軍から許可されていなかった。しかし現実に公開の音楽会が実施された事実を知って、大変驚いたという話だった。俘虜の所外行動については規律や統制が懸念された。その都度名古屋の収容所長と師団長を経由して陸軍省へ送っている。音楽関係の申請も当然両者を経由して陸軍省にお伺いを立てたが、陸軍省からの返事は否定形だった。名古屋では企業への就労が多かったが、その都度申請文書でお伺いを出しているが、勤務条件の記述と同等かそれ以上に紙幅を割いているのは、就労中の監督者の信頼性の高さや職場で会話する人物の明示や就労場所の限定、移動通路の限定等、所外にいる俘虜の行動の監督要領の詳細である。この俘虜の所外行動への懸念が公開の音楽会開催許可についても同様に懸念されたと思われる。しかし鶴舞公園の音楽会は許可されたので驚いたということである。
その後さらにもう一つ新しい発見があった。名古屋の収容所開設当初の第三師団長だった仙波太郎陸軍中将のことである。彼の伝記と当時の新聞記事から仙波将軍と名古屋俘虜収容所とのご縁がわかってきた。彼は名古屋俘虜収容所に深い思い入れをしていた。出身は愛媛県であるが、退役後は奥さんの郷里の岐阜に住み農耕に勤しむ一方、地域住民に溶け込んでいた。岐阜の教員の団体を2回にわたって収容所参観に連れ出している。ドイツ留学の体験を生かし、また俘虜に対するシンパシーから収容所参観中は通訳や説明役をしている。体操の演技や所内での音楽演奏の時には、率先して拍手をして参観者にエチケットの見本を見せていた。また音楽会の時には、曲のリズムに合わせて全身を揺すり手拍子をとって体全身で喜びを表していた。実は大の洋楽フアンでもあった。彼は他に浄瑠璃と書道では「玄人はだし」の腕前だったといわれる。この時期彼は退役後の身分であり、後輩の大庭第三師団長に音楽会開催の許可を説得したとも推測できる。いずれにしても仙波将軍の存在が公開の音楽会開催に大きく影響したと思われる。因みにこの時の陸軍省への申請文書は見あたらない
タイミングもよかった。講和条約が煮詰り俘虜の帰国が半年後に迫っている時で、日独ともに解放を意識して俘虜取締りの統率が緩やかになる時期であった。また四国方面での俘虜の音楽活動の実績が収容所当局者間には既に知れ渡っていたことも十分考えられる。
 歴史には「時の運」「時の流れ」と「人物の存在」が重なりあって大きな変化をつくることがある。大正時代の国際情勢の変化と一人の将軍の存在が名古屋でドイツ人による音楽会を開催させたといえそうだ。