ヘルマン・ボーネルと戦争の時代

―牧師館の子Hermann Bohner (5)

井上 純一

 

 

「青島戦」に従軍し、松山を経て板東俘虜収容所で過ごしたヘルマン・ボーネルは、青島にもどり、リヒアルト・ヴィルヘルム(Richard Wilhelm)を継いで禮賢学院と基督教会の運営に携わっていたが、ボーネルと同じように青野原俘虜収容所から解放されドイツへ帰国していた、先輩牧師ゾイフェルト(Wilhelm Seufert)が、伝道団の財政状態などもあって、一人ヴィルヘルムの後任に正式に決定したことから、その職を離れて、大阪外国語学校に就任した[1]

 

初任給

国立公文書館に残る記録[2]では、ボーネルは大阪外国語学校の開学にともなって1922年(大正11年)41日付で「大阪外国語学校雇外国人教師」に就任している。月俸は425[3]。翌年の19236月に「奏任ニ准ジ取扱ハル」になっている。

 彼の友人であった大阪高校のロベルト・シンチンゲル(Robert Schinzinger)も月俸425円であったので、ほぼドイツ人教員の給与はこの額であったのだろう[4]。また同僚であった米国人のグレン・ウィリアム・ショー(Glenn William Shaw)1924年(大正13年)の任用契約では月俸475[5]、馬来語のバチー・ビン・ワンチクの1922年(ボーネルと同時任用で1923年に「奏任5等以上ニ取扱ハル」になっている)の任用契約は月俸270[6]、中国語の関思福は月俸200円であった[7]。ロシア語のニコライ・ネフスキーは、1922年の就任時375円、就任後4年後の1925年に425円になり、また同僚のオレスト・プロトネルも1923年の就任時は375円であったという[8]。これらのことから、高等学校等での「雇外国人教員」の給与は、出身国などによって格差づけられていたのであろう。とりわけアジア系とヨーロッパ系との間での給与差は大きかったと推測できる。

 

契約更新

 雇外国人教師は、「勅任」でも「奏任」でも終身雇用ではない(「准ジ取扱ハル」と公文書には記載されている)ので、任期付きの契約をする。ボーネルも任用後23年ごとに契約更新(1925年、1928年、1930年、1932年、1933年、1935年)をしている。この間1925年に「奏任5等以上ニ准ジ取扱ハル」の辞令を受けている。

ボーネルの1932年の時点での契約更新をみると、月俸が従前の425円から380円に引き下げられている。彼だけに生じた何らかの事情であろうか。彼と同じく「奏任5等以上取扱」のグレン・ウィリアム・ショーも、それまで月俸475円であったが、19323月末に契約期間満期を迎えた後、同年9月に再雇用された際に、月俸380円で契約している。またバチー・ビン・ワンチクの事例では、契約更新を重ねて1930年には月俸300円に昇給していたが、1932年の契約更新期では280円に引き下げられている。関思福も、1930年の契約では月俸240円になっていたが、1932年の契約では215円に減額されている。このことからわかるように1931年か1932年に雇外国人の契約更新時の給与が見直されたのである。

この時期、19291024日の   Black Thursdayに始まる世界恐慌の波を受けて、1930年から昭和恐慌にみまわれ、日本経済は戦前最大の経済的危機に苦しんだ。1933年に恐慌以前の経済水準にもどることになるが、契約改定にあたって、昭和恐慌の影響から給与水準が引き下げられたと考えるのが妥当であろう[9]

 事実、経済回復をした1933年の契約更新では、ボーネルの月俸は20円引き上げられ月俸400円になっている。しかし昭和恐慌以前の給与水準にはもどることはなかった[10]

 この間19363月末で在職14年になったことから、文部省を経て外務省はボーネルの叙勲の上奏(19361217日)を決め、21日に総理大臣廣田弘毅が裁可を仰ぐ決済をしている。その結果彼は勲5等瑞宝章を授与された。またその後「勅任ニ准ジ取扱ハル」―彼自身のメモではJun-chokunin―に任じられている[11]。彼の研究内容から考えても「天皇が好き」だったと言われるボーネルは光栄に感じたことはまちがいない。

 

再契約で日本へ

 19373月末で契約期間満了を迎えるボーネルは、契約終了後ドイツへ帰国することを考えていたので、当初契約更新をする意思をもっていなかったようだ。ドイツの大学で職を得ようと考えていたのである。19373月の時点では、彼は、ベルリンの独日協会会長ベーンケ(Paul Behncke)や在日ドイツ大使の推薦をえていたので、ミュンヘン大学の教授職がほぼ決まると考えていた。

予定されていた就任は1937年の夏学期になるはずだったので、それに間に合うため19373月末での大阪外国語学校の契約終了後、招聘にいつでも応じられるように、直ちにドイツへの帰国の途についた。しかしミュンヘン大学への招聘は成功しなかった[12]

この時彼は、母親(18531939)を見舞っている。1937年のドイツへの帰国以後、生涯ドイツの地を踏むことがなかったので、この時が母親と過ごす最後の時間になった[13]

ミュンヘン大学への招聘が決まらなかったボーネルに対して、大阪外国語学校は、再び就任の意思があるかどうかを問い合わせた。交渉がほぼ成功すると、在外研究をする熊谷俊次―彼はドイツ語科の第一期生で、母校の教官であった―が契約書を持参して、最終交渉にあたった。

外務省外交資料館「本邦雇用外国人関係雑件」に残されている資料では、雇用条件は来航諸費1930円、妻同伴の場合は1000円内で追加支給。帰国旅費も同じ。俸給は1カ月400円、官舎もしくは宿料1カ月40円、授業時間は122時間を超えないという条件であった。また円が急落した時の措置として渡航費は別個追加措置がとられることになっている。

ちなみに来航費用は嵩んだので、ボーネル達にとっては大きな関心事であった。彼が推薦した弟のゴットロープは、1925年に高知高校に就任するにあたって、渡航費の増額を松山高校にいた末弟アルフレート[14]を通じて申請したが、「全外国人契約に関わるため検討を要する」ということで却下されている[15]

月棒400円は、彼の最後の契約時の給与と変わらないものであったが、契約にサインをしたボーネルは、再び日本に向かい、193791日再来日、3日から大阪外国語学校での教員生活を再開した。

 

緊迫する時局の中で

再び日本にもどってきたボーネルは、迫りきた戦争の時代にどのような研究で対応をしたのであろうか。ドイツでは1933年にヒトラー政権の誕生後、国威の発揚や勢力圏の拡大に突き進み、日本では1927年山東出兵、1928年日本軍(関東軍)による張作霖爆殺事件、1931年の満州事変を経て1937年日中戦争の泥沼へと入りこんでいった。従来のボーネルの研究は、天皇制の日本イデオロギーと共鳴するものであり、日本での研究・教育は彼にとって居心地が良いものであったはずだ[16]。しかし彼の日本研究は、戦争期に入るにつれ、微妙に変化をみせている。

 「神皇正統記」の研究に続けて、ボーネルが取り組んだ研究は「聖徳太子の研究」であった[17]1933年に始められたと考えられるこの研究は、1940年に完成した。

19401025日付の大阪朝日新聞は、それを、「神皇正統記の独訳をはじめ日本文化のドイツ紹介に努力してきたヘルマン・ボーネル氏」が手掛けてきた聖徳太子の伝記独訳が7年間の研究の末、「11月の紀元二千六百の祝典までに完成することになった」と伝えている。そして記事は、ドイツの社会政策と同様のものが1300年前の聖徳太子の精神と政策には見られるにもかかわらず、この日本の偉大さをヨーロッパでは広く知られていないことを鑑み、独訳をして祖国に伝えようとしたと続けている。

そしてボーネルは談話で次のように語っている。

「太子は千三百年の大昔において日本文化の上に大きな御役割をなし遂げられたばかりでなく今日においても立派に生きておられます。現在ヒットラー総統の採用している社会政策、労働政策は太子の行われたものと非常に類似しているのを見出し、太子と日本の偉大さをぜひ伝えたい熱願に燃えています。日本はいまドイツと同様に発展の時代(傍点筆者)に入っています。千三百年の昔もいまも同様に発展の時代でした。太子の御精神は内においてはあくまで独自の精神を尊重されると同時に外に対してはその長所を思い切って採用されるという両面から成っています。発展する今日の日本が最も必要とするのはこの太子の御精神ではないでしょうか」

この時期にはボーネルは日本に滞在していたとはいえ、ヒトラーの人種差別政策を知っていたはずである。すでに神戸には極東ロシアから敦賀を経て上海などに亡命するユダヤ人難民が多数到着していた。リトアニアの在カナウス領事代理であった杉原千畝がユダヤ人への日本通過ビザを発給したのは1940年の7月末であった[18]。ボーネルは、そうしたニュースや姿にも接していたことは大いにありうる。すでにヨーロッパではドイツは西ヨーロッパへ戦争を拡大し、日本は中国大陸への侵略を広げていた。けれどもこの時期のドイツも日本も、まだ戦線の拡大は「勝利」と結びついていたので、ファシズム下で民衆は抑圧されていたこともあって両国民の中には、共産主義者などの少数の市民を除いて、戦争への疑問を沈黙することはあっても、批判的姿勢を示すことは困難であった。むしろ普通の国民は、国家支配層に操作された祖国への忠誠と民族意識の高揚におおわれていた。

ボーネルもまた、普通のドイツ人として、ナショナリストとして、祖国への忠誠に疑問を感じていなかったであろう。しかしドイツと日本は「発展の時代」にあり、「ヒットラー総統の採用している社会政策、労働政策」が聖徳太子の考えと「類似」しているから「偉大な」日本をドイツへ伝えたいとする彼の言明は、現在の時点からみれば愚かであると言えるだろう。政治的人間では決してなかったボーネルにしては、談話は時局におもねるものになっている。

 

プロパガンダ雑誌『20世紀』への寄稿

 時局におもねるということでは、雑誌『20世紀 (The XXth Century)』への三度にわたる寄稿がある。

 雑誌『20世紀』は、上海で194110月に月刊誌として創刊され、19456月まで刊行された。この雑誌の性格は、学術雑誌の体裁をとってはいるものの、ドイツ外務省の委託による英文プロパガンダ雑誌であった。編集長はクラウス・メーネルト(Klaus Mehnert)であった。

 メーネルトは、ハワイ大学マノア校(University of Hawaii at Manoa)の教授であったが、ドイツ外務省の要請を受けて上海に転じ雑誌の発行責任を担うことになった[19]。彼のこの転身については、ナチ・シンパサイザーとしてプロパガンダに貢献しようとしたとする考えと、戦争の時代に祖国の利益に貢献しようとする強いナショナリズムによるとする考えに評価はわかれる。その評価のどちらが的をえているかは、筆者にはわからないが、彼の責任のもとに発刊されていたこの雑誌が、アジアに住むヨーロッパ系外国人に、枢軸国の戦争についてプロパガンダする学術的体裁の雑誌であるというのは、客観的事実である。

ボーネルのこの雑誌への最初の寄稿は、19421月号である。真珠湾攻撃の直後に出版されたこの号は、それゆえに日本の軍事行動の特集を組んでいる。「戦争の世界」のメーネルトによる巻頭論説から始まるこの号は、「太平洋の戦争」の特集で、在東京ドイツ人ジャーナリストの「大東亜戦争への道」、真珠湾攻撃の航空写真と記事の「ハワイ爆撃」、太平洋に軍事展開をした「世界に衝撃を与えた72時間」、帝国海軍省提供の香港、上海に軍事展開する写真「日本軍の行動」、ハワイの戦略的重要性を論じる「太平洋のジブラルタル」、これに続いてボーネルの「鏡、剣、玉[20]」が掲載されている。

メーネルトの巻頭論説「戦争の世界」では、「この戦争は人間の発展の新しい段階を創る巨大な戦い」であり、「新しい世界は血と苦しみで生まれる」と意義づけられている[21]。「発展の新しい段階」という捉え方は、ボーネルのドイツと日本をみる「発展の時代」と軌を一にしている。したがって編集者は明らかにボーネルの論稿を戦争の意義と関連させている。彼の論文のもつ位置は、はっきりしている。

論文の前文にメーネルトは、次のような紹介文を書いている。

128日、日本は、その国家史上、最大の闘争に入った。何が、太平洋の二つの最も強力な帝国と戦う勇気を日本に与えたのか?現在の熱き、政治的・軍事的闘争の狭間で他の諸国家の多数の人々の意見は、政治的日和見主義であるか、あるいはその国家が同じ陣営か敵の陣営かによって決まってくる。確かに現実と事実を考えることは必要であるが、しばし一度、我々は、効果の評価がはっきりしないもの、つまり国家の見えない本質、その精神と理念に目を向けるべきである。国家とは、そうしたものに決断の時代には頼るものである。そこで我々は今日の政治的論争の外部にたつ人物に、日本の本質を何であるかを寄稿していただいた。ボーネル氏は、このテーマをまったく新しいオリジナルな角度から日本の三つの神話的シンボルによって扱っている。それが彼のエッセイの中核である。[22]

 

 「三種の神器」の解釈

皇国史観のシンボルである「三種の神器」の意味をボーネルは探っている。この政治的イデオロギーに密接に関連するテーマについて、彼は、諸氏(うじ uji)を支配的に統合する神話的な「万世一系」の正統的成立(central uji)や、天(=神=中央の氏とその支配者)と地(民衆)の間の神的支配秩序構造という、天皇制イデオロギーをそのまま前提として、「鏡と剣と玉」に日本人の精神的故郷があることを説いている。したがってその展開は政治的ではなく、文化論的なものになっている。

彼の論議は、なによりも彼が愛した大和にはじまり、大和に終わっている。そのことだけでも彼が日本を語る切り口がわかる。それは彼のほとんどの論説に連なる視点である。

日本(人)の精神的故郷は、大和にあり、その地に立ち風景を見渡せば、東南方向へと山を越えゆく道の先に伊勢の地がある。伊勢(神宮)は、揺籃期日本の最奥の神的精神の地、聖域であり、伊勢の海から、神である太陽が昇る。そして伊勢の海から東と北へ、鎌倉、江戸へと直接につうじる。ボーネルはこのように描くことによって、「大和‐伊勢」を日本(人)のエートスの地だとする。それは、具体的には賀茂真淵や本居宣長の国学が言う、万葉の古歌にある精神、「高き直き心」なのである。

 彼の考えでは、古代、伊勢の斎宮(斎王)は、「中心的氏(central uji)」によって神に仕えるために差し出された「生け贄(ikenie 犠牲)」である。彼女の心は神の声を聴き、正しきこと、「高き直き心」を伝える。この斎宮こそ、神の声を伝える者として「鏡と剣と玉」の、身体による結節点をなしているとされる。

鏡は伊勢の神、太陽の第一のエンブレムである。太陽の光のもとで、鏡は全てのものを、そのままに、ありのままに反映する。したがってそれは善と悪、全ての正邪を映しだす。鏡は真(まこと)を示す。「鏡は誠である[23]」とボーネルは言う。斎宮は誠に神に仕え、真の声を伝える。

第二のエンブレムは剣である。彼によれば、剣の本性は、揺るぎない精神、勇気、決断、厳格であり、鏡の前と同じく、剣を前にして「誠」が示される。「誠」に忠実であるには、行為で表わされなければならない。「神の剣を掲げよ!」剣は鏡の誠を行為で表わす、揺るぎない勇気、決断を表わしている。ところで日本では、剣のこの本性は、支配や暴力を意味しているのではなく、「生け贄」の斎宮と同じく、自己を犠牲にすること、揺るぎない忠誠や自己の生命をかけて献身することと結びつけられて考えられている。剣とは、こうした自己犠牲する心と決断・実行を象徴する。

第三のエンブレムは玉である。古代日本では、玉は、森羅万象の秩序を映すものであり霊魂であり宝である。伊勢の海の真珠も、日本のあちこちにある龍宮伝説も玉にかかわる。真珠は、太陽に育てられた玉(宝)であり、龍宮には、見目うるわしい乙女が住まっている。この乙女は玉(Tama)、太陽の乙女である。それは、その美しさによって宝のように人を魅了するからである。

 日本人にとって玉の本性は、優しさである。玉は球であり、どこへでも転がり入りこむ。玉には上も下もない、球は突起がないという意味で、何ものも傷つけることはない。それは、女性がもつ優しさ、美、心である。国家を創り繁栄させ、安定させるのは、鉄のような堅い男のパワーだけではない。優しい美的力も必要である。斎宮とはそうした身体として据えられているはずなので、ボーネルは「斎宮は鏡、剣であるが、彼女の本質は玉である[24]」と書く。

 このように、高貴さ、優しさ、美という玉の本性、斎宮の本質は、美的調和によって万物を秩序ある構造へと統一するものとなる。それが「和」ということである。この最高のシンボルを掲げたのが大和であった。大和こそ日本(人)の心であり、「和をもって貴しとなす」(聖徳太子)とされるのである。

 彼の解説は、いささか神秘主義的でありすぎる。そのことは、当時の日本の学問状況を外国人として追究せざるを得ない、避けがたい制約として理解しておかねばならない。「日本人とは何か」「日本とは何か」を問う彼の研究が1920年代から1940年代にかけて、皇国イデオロギーに抵触する領域と重なったことは、彼にとっては不幸であっただろう。

 しかし皇国イデオロギーとかかわり、天皇制的秩序構造から「日本とは何か」「日本人とは何か」を考える基準として彼がもっているものは、大和の風土、風景であり、民衆の間に伝わってきた伝承や伝説であり、彼が歩き訪ねた寺社や神社である。これは彼の如何なる論稿においても底流をなしており、このことが、この論稿が時局に接する位置にあるものの、そこから離れた、純粋に文化論的芳香を漂わせるものになっている。

 

 ボーネルの「武士」

 この論稿の発表の翌年に、ボーネルは『20世紀』に第二の論説を寄せ、さらにその翌年に第三の論説を載せている。1943年の論説は「武士道(The path of the Bushi)(19434月号)、その翌年には「関ヶ原の戦い(The Battle of Sekigahara)(19444月号)を寄稿している。

 「武士道」の展開も、民衆の伝承や信仰との関係から始められている。日本では古代から馬は信仰や神と結びついていたという。馬の骨は悪霊を追い払い幸せを願って、家の鴨居にかけられる風習があったし、馬は神事や祭礼には欠かせなく、馬の代わりに奉納される「絵馬」、白馬は神馬であり、聖徳太子は「厩戸皇子」であった。馬頭観音の信仰もある。このように日本人と馬は古代以来、聖なるものとの関係をもって人々の日常生活や信仰に染み込んでいたと、ボーネルは考える。

武士道は、江戸時代に主人と臣下の関係にスコラ主義化されてしまったので、武士道の真の姿へとさかのぼる試みを彼はする。それが武士と馬との関係である。武士も、また馬と分かちがたい。馬を操り、敵と対峙する武士の戦い。神とつながりをもつ馬と共にあることは、戦いにおいて神の目のもとで正々堂々と互いに立ち向かうことを要請される。互いに名を名乗り名誉を守る戦いの勝敗は、神の判断にある。武士道はこうした中から形成されてきたものであるという。

 だから剣道では現在でも剣士は祭壇に礼拝し、戦いの前に互いに礼を交わす。力を尽くして剣士は戦うが、その結果は神の判断になる。神の判断であるから勇敢な戦いは、勝者も敗者も讃えられ、尊敬される。

 神との関係をもつ武士道は、名誉ある死は単なる死ではない。勇敢な死は、神的存在である「御霊」となり、生の終わりを意味していない。生は死を通じて永遠の星の下にあるのだから、武士道の「切腹」は、生(=命)を贖って生(=名誉)を守る行為なのだとされる。

 真の武士道は、生を神の判断に従わせるということにある。武士道とは生に従い、生を守るという自然の武士道にたちもどると、私の生に先だつ父母の生がある。私の生の後に、子どもや孫の生がある。武士道は、そうした生の連続性をも勇敢に、また名誉ある形で守り、発展させるということでもある。父と子、母と子、師と弟子という風な日常的な共属性の中に武士道がある。武士道は、日本人の古代からの生の感覚と結びついていると、されている。

 「関ヶ原の戦い」は、先の論説とは若干趣を変えている。「三種の神器」や「武士道」は、ヨーロッパの近代的合理主義からは理解困難である日本(人)の特殊性を語るものであって、アジアに住む外国人にはそれなりに関心を惹くものである。しかし「関ヶ原の戦い」は、日本人にとって歴史上の戦いとして興味があるとしても、外国人にとっては何ら意味をもたない。それでもボーネルが、このテーマを選び論じるのはなぜだろうか。

 ボーネルによれば、関ヶ原は、その名の通り日本を東西に分ける「門」にあたる場所であり[25]、この「門」を制するものが日本を支配できる重要な位置にあり、ここでの戦いは、まさに日本の帰趨を決する戦いだとする。関ヶ原の戦いは、まさにこの場所で起こらざるをえなかったのである。関ヶ原の戦いに至る経過を語った後、彼は戦いそれ自体を藤井冶左衛門[26]の叙述を借りて展開している。

 関ヶ原の戦いは、日本史上もっとも決定的な戦いであり、武士によって統一された日本を創り上げ、250年の平和を日本にもたらしたが、武士の支配が明治維新によって打倒され、東と西が本当の形で新しい日本として統一されることになったという。

ボーネルの念頭にあったのは、「大東亜戦争」が新しい日本、新しい世界を創る戦いだということであろうか。彼が、日本とドイツは「発展の時代」にあると考えている限り、「関ヶ原の戦い」を書くことは、ドイツと日本の戦争が世界の新しい統一をもたらす使命にあると、主張しているようにも思える。こうとらえることも可能だが、筆者にはボーネルが実際そう考えていたかは疑問に思える。

戦争による「発展の時代」の日本とドイツの現実世界と、ボーネルが究明しようとした「日本(人)のエートスは何か」という精神世界との間は、ボーネル自身の内部において、架橋されていなかったのではないか。現実世界ではナショナリストの自分があり、日本(人)のエートスの研究の世界では、現代からはるか遠い時代にさかのぼる自分―彼は現代の大和、奈良の町、京都の寺院さらには比叡山や高野山、さらに各地の仏閣を訪ね歩いて、追体験しようとする―があり、その二者が、彼の中でそれぞれ別個に存在をして、決して一つになることがなかったようだ。なぜなら、『20世紀』という雑誌の性格をどこまで知っていたかは分からないが、彼の論調は、静かで熱することなく、時局には無関心に淡々と、常に大和へ思索を巡らすことから成り立っている。

 

小伝記と民話

 ボーネルが、『20世紀』の編集者メーネルトに注目され、寄稿を要請されたのは、『神皇正統記』や『聖徳太子』の研究が政治的イデオロギーに合致していたからに違いないが、ボーネルは、聖徳太子の研究に並行して、この時期、徐々に政治的イデオロギーと直接つながるようなテーマから退き始めている。彼は、神皇正統記や聖徳太子の浩瀚な著作をドイツ東亜協会から出版していたが、その一方で上智大学が1938年に創刊したMonumenta Nipponica”に投稿している[27]

 この雑誌へのボーネルの寄稿から、伺い知れるのは、彼は日本(人)のエートスを、二つの側面から理解しようとし始めたことである。それは、一つは主に塙保己一が編纂した『群書類従』からとりだされた人物の伝記を、もう一つは庶民に目を向けた民話などである。この両方とも、それまでのボーネルにはなかった姿勢である。

まず伝記の方をみてみると、1938年から中断の1943年までボーネルは8本の伝記を扱っている。それらは、「花園天皇[28]」「田村麻呂伝記[29]」「和気清麿伝[30]」「鎌足伝[31]」「武智麿伝[32]」「橘逸勢伝[33]」「弘法太子[34]」「白箸翁伝[35]」である。ここに見られるのは、政治的に巨大な人物だけではない。弘法太子や琴の名手であった中納言長谷雄(白箸翁)、和歌の道に優れた花園天皇、三筆の一人である橘逸勢といった文化人を扱っている。

 しかもそれぞれの翻訳の伝記そのものは、短いものである。ボーネルはそれに解説をつけているが、解説そのものが単なる解説ではなく、それ自体一つの重厚な論文になっている。翻訳の本文は数ページにすぎないのに、解説はそれをはるかに上回る量で書かれていることもしばしばである。これは、ボーネルの独特のスタイルで、彼が発表した著作のほとんどすべてに共通する方式である。それは、語義にできるだけ忠実に翻訳することを通じて、読み手に直接に文献を伝えることこそ王道だと考える翻訳論に従いつつ、しかしそれが持つ弱点、つまりそうした翻訳をすることによって引き起こされる理解することの困難さを補い、同時にそれによって彼の日本学―日本とは何か―を示すことにあった。

 彼の論考の、もう一つの特徴は、それ自体が旅への誘い、名所旧跡案内になっていることである。それは、ワンダーフォーゲルに親しみ、時間を作っては「歩く」ことを楽しんでいたボーネルにとっては自然のことであっただろう。例えば「花園天皇」では高野山、金剛寺が、「田村麻呂伝記」では将軍塚、清水寺が、「和気清麻呂伝」では高雄寺(神護寺)、広隆寺、宇佐八幡宮、石清水八幡宮、薬師寺が、「鎌足伝」では飛鳥寺(明日香)、橘寺、法興寺、元興寺、法満寺、畝傍山、多武峰とのつながりが語られている。人物と風土、大和や京都・奈良の仏閣のつながりが縦横に語られ、彼の論考は、あたかもそれらを訪ね歩くことによって人物を自らの身に惹き寄せることができるかのようにさせる。それは、彼がまた人物を文献上の人物としてではなく、その時代を生きた人物、歩く人物として捉えようとするからである。彼にとっては大和や仏閣を歩くというのは、そういう行為であった。

 ボーネルが、この時期に小伝記を軸にして、新しい研究を始めることについて、最初の伝記翻訳である「田村麻呂伝」の冒頭で示している。それによると

「この研究を進める意図は、翻訳を通じて日本の原資料に近づきやすくすることにある。『群書類集』に収められている膨大な作品を見るなら、すでになされた翻訳作業はあるけれども、ローマのものなどに比して、膨大な原資料から翻訳されたものが極めて少ないことに気づく」からであり、資料のわずかにでも近づきやすくすることに貢献できれば日本学を促進するであろうと、位置づけている[36]。雑誌の編集者も、彼の試みは「日本学でこれまでほとんど研究されていなかった領域を開拓する」ものであって、後に本にまとめられて出版される予定であると期待している[37]

 しかしこの計画は実現しなかった。1943年に雑誌は発行中止になり、1951年に再刊されたものの、1957年になってようやくボーネルは戦後最初の寄稿をしている。恐らくそれは、40年代からボーネルは、より非政治的で美的な世阿弥研究に傾注していったことと、従来のボーネルの研究の神秘主義的な「政治的な性格」が影響していたのであろう。その論文は「本朝神仙伝[38]」。これを最後にして掲載はない。彼のこの仕事―それは彼の戦前の研究の連続性にある―は、新しい時代の日本学にとっては、日本(人)のエートスを探索する彼の意図とは別に、時代遅れに見えたのであろう。この一回だけの寄稿で、この企画は以後続けられることはなかった。

 民衆の生活や民話から日本(人)のエートスを探ろうとする、もう一つの新しい方向が、この雑誌への別の寄稿からも伺い知れる。雑誌には「雄鶏と時計[39]」「昴と月及び壱岐の伝説[40]」「大衆抜けまいり[41]」の三本が掲載されている。前二本は、共に壱岐の民話を紹介するものである。雄鶏や昴のテーマはヨーロッパ文化の中にもみられることから[42]、それらとの比較を通じて、ボーネルは古代日本の文化がヨーロッパのそれと何ら遜色をもたないものだと言う。「抜けまいり」を扱う作品は、民話ではなく、歴史的事実としての庶民の「抜けまいり」を紹介し[43]、デルフィの神殿(ボーネルは伊勢を日本のデルフィの神殿という)やローマやギリシャと対比し、「抜けまいり」が聖なる神に認められる民衆の運動だと言う。

 雑誌への発表以外に彼は『日本の童話と物語[44]』を著わしている。これは、アジアに住むドイツの子供たちのクリスマスプレゼントとして、ドイツ大使館の依頼で作成したものであった[45]。彼はこの仕事を、昔話から現代に至るまでの日本の児童書を作成する手始めと考えていたが、戦争とその結果が不可能にしたと記している[46]

 このように民話は、ボーネルの公刊された業績の中では、決して多くはない。けれども「動物伝説500余、伝説1000」という膨大な量の翻訳草稿が死後20年近くなって発見された[47]。この膨大な量の翻訳作業から推測して、彼が政治的重要人物の業績分析から、民話研究、民話分析を通して日本を紹介し日本を理解しようとする日本学の新しい視点を創ろうと準備していたことをうかがわせる。しかし彼がこれをどのような時点で本格的に取り組むつもりであったかは定かではない。というのも、彼は1940年ごろから、畢生の作品になる一連の世阿弥研究にも取り組みだしたからである。

 

 

ヘルマン・ボーネルの最初の日本に関する論文は、「日本の弁神論」であった[48]。それは、蒙古襲来の「神風」から日本人の国民意識と歴史意識の中心的体験を理解するものであった。それ以後彼は、神話や仏教の宗教的世界から日本を解釈する姿勢を取り続けた。それは、「牧師館の子」であるボーネルにはそうした方法は身についたものであり、いささかの疑問を感じることがなかったであろう。けれどもドイツと日本が戦争の深みに入るにつれ、これまでの研究対象に疑問が生じてきたかのようだ。何が動機であったかは今ではわからないが、民衆的な説話や能の世界への、精神的亡命ともとれそうな没入が始まった。そこには、少なくとも戦争の経過が影響していたことは確かであろう。そして彼は、ほとんど出版のあてもないまま世阿弥の研究や民話の翻訳に打ち込んでいくのである。

敗戦後、進駐軍によってかつての枢軸国国民ドイツ人の本国強制送還が行われた。しかしナチ党日本支部が日本で結成された1933年以前に来日し、ナチ党に関係していなければ、送還を免れることができた。ボーネルもこの規定によって送還をまぬがれた[49]。そして敗戦前と同じように、大阪外国語学校(1944年に大阪外事専門学校に改称している)で教育と研究と生活を続けたのである。もちろんその研究は、神話的世界や権力者像に戻ることは決してなかった。

 

 



[1] 筆者はこれまで4回にわたりヘルマン・ボーネルの足跡について本誌に掲載してきている。その間乙政潤氏(大阪外国語大学名誉教授)から、幾つかの点について指摘をいただいた。機会をみて修正・補正などする必要があるが、ここで謝意を表しておきたい。なおヴィルヘルム及びゾイフェルトについては、本誌第6号(2008)の拙稿「牧師館の子Hermann Bohner 日本への道」を参照。

[2] 国立公文書館アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp/

[3] 筆者は以前(本誌第7号、2009)の注1072頁)でボーネルの当時の俸給は不明と記していたが、国立公文書館所蔵のボーネルの叙勲裁可書(1936年)添付の経歴書で判明した。

さらにその際の注記に筆者は「ボーネル夫人が教壇にたっていたと推測しているが、資料や証言はない」と記していたが、その後布施俊夫氏(大阪外国語大学名誉教授)から、大阪外国語大学の教授であった「赤阪(力)先生がボーネル夫人に教わったと聞いている」と情報をいただいた。赤坂力は1934年卒業生である。『大阪外国語大学70年史』(大阪外国語大学70年史刊行会,1992)にも大正14年(1925)から昭和8年(1933)にかけて授業を担当したと記されている。

[4] 外務省外交資料館「本邦雇用外国人関係雑件」

[5] ショーの前任校(山口高等商業学校)の給与は、月額525円であった。ショーの地位は「 奏任5等以上ニ准ジ取扱ハル」である。

[6] バチー・ビン・ワンチクは、1914年に東京外国語学校に就任し、月俸120円。契約更新毎に昇給し、1920年に月俸270円を支給されている。

[7] 関思福の場合、1913年の小樽高等商業学校の就任時は月俸100円であった。大阪外国語学校には1922年に嘱託講師となり翌年に雇外国人教師に就任している。雇外国人教師就任時も、嘱託講師時と同じ月俸200円が支給されている。

[8] ネフスキー、プレトネルについては、山口慶四郎氏(大阪外国語大学名誉教授)が大阪外国語大学同窓会「咲耶会東京支部」のメール会報に拙著に関連して書かれていた。

[9] 雇外国人教師の月俸引き下げを命じる公文資料を筆者は現在見つけるに至っていない。

[10] バチー・ビン・ワンチクの場合は、1933年に以前の300円にもどっている。なお筆者が見出した資料(叙勲裁可書)では、グレン・ウィリアム・ショーと関思福については記載されていない。

[11] 『ヘルマン・ボーネル先生生誕百年記念展示会』(「ヘルマン・ボーネル先生の業績を讃える会」19841111日)の「ボーネル先生略年譜」には、1922年から1936年までの項に「勅任官、瑞宝章5等」と記されている。またボーネル及び大学によって何らかの機会に作成されたと思われる1958年までのドイツ語タイプ経歴書では「1936511日に勅任及び勲5等瑞宝章」と同時に「19371010日に勅任」と二通りの記載がある。さらにボーネルの死後、八木浩が整理した経歴書(ドイツ語)では「1936521日勅任」「19361222日勲5等瑞宝章」とされている。しかし筆者が調査した、ボーネルの叙勲議案及び裁可書(19361221日)には「大阪外国語学校雇教師(奏任5等以上取扱)」と記されている。このことから「准勅任」の任命は、再契約後の1937年だと思われる。

[12] この時期、ミュンヘン大学以外に、ボーネルはライプチッヒ大学からの招聘の話があった。ライプチッヒ大学は二回機会があった。これらについては、本誌第7号(2009)の拙著参照

[13] 1937年のこれらの事情については、ボーネルの手による経歴補足説明文書による。

[14] ゴットロープとアルフレートについては本誌第7号の拙著参照

[15] ここで記載したゴットロープの件も外務省外交資料館「本邦雇用外国人関係雑件」に存在している。

[16] これについては本誌第8号の拙著を参照。

[17] 上記拙著参照

[18] 杉原幸子『六千人の命のビザ』大正出版1993、阪東宏『日本ユダヤ人政策19311945―外交資料館文書「ユダヤ人問題」から』未来社2002 163ページ以下。外交資料館資料を精査した坂東によれば、194071日から41228日までに神戸に入ったドイツ・ユダヤ人は2098人である。

[19] クラウス・メーネルト(19061984)はモスクワで生まれ、大学卒業後1934年から1936年にかけてドイツ新聞のモスクワ特派員。1937年からハワイ大学教授であった。敗戦により中国で拘束されたが、1946年にドイツへ帰国した。帰国後も編集者として、またソ連や中国の専門家としてアデナウアからヘルムート・シュミットまでドイツのソ連、中国政策のアドバイザーであった。

[20] 英文の表題ではMirror, Sword, and  Jewelとなっている。勾玉をボーネルはJewelとしているが、本文ではtamaとしている。また勾玉は玉とは形状が異なるが、ボーネルは球体の形状でtamaを使っている。

[21] The XXth Century, Vol.2, January, 1942, p.2

[22] ditto, p.29

[23] ボーネルは次のように言う。「日本には誠(ma-koto)という素晴らしい言葉がある。kotoとは物事、事実を意味し、maは強め、最高である。したがって誠(ma-koto)は真の事、絶対的真実、真理である。鏡は誠である.」ボーネルは他の論稿でも時々、漢字の意味を、このように分解して説明している。表意文字である漢字をヨーロッパ人らしく表音文字に解体して解釈する。

[24] The XXth Century, Vol.2, January, 1942, p. 34

[25] 「関(Seki)は柵、門の類、誰もが通らなければならない狭い道のことである。」The Battle of Sekigahara, The XXth Century, Vol.6, No.4, 1944, p. 283

[26] ボーネルは、戦闘の叙述を関ヶ原の専門家である、Fuji Iizaemonによる、と書いている(p. 286)と記しているが、藤井冶左衛門の誤りである。またこの叙述にあたって、ボーネルが藤井冶左衛門(メーネルトもFuji Iizaemon)のもとで研究したドイツ士官ケリン(Werner Köllin)の援助を受けたと記している。

[27]Monumenta Nipponicaは、1938年に創刊され、1943年まで発刊された。中断後1951年に再刊され現在まで続いている。恐らく唯一の、戦前から続く外国語による日本学研究雑誌である。なおボーネルの弟アルフレートもこの雑誌に帰国後のドイツ・カイザースラウテルン(Kaiserslautern)から寄稿している。Alfred Bohner, Tenchi Hajime no KotoWie Himmel und Erde entstanden, Vol.2, No.2, 1938

[28] HanazonoTenno. Taishi wo Imashimuru no Sho, „Mahnung an den Kronprinze“,  Monumenta Nipponica, Vol.1, No.2, Jul., 1938

[29] Tamuramaro-denki, Monumenta Nipponica, Vol.2, No.2, Jul., 1939

[30] Wake-no-Kiyomaro-den, Monumenta Nipponica, Vol.3, No.1, Jan., 1940

[31] Kamatari-den. Taishokukwan-den. Kaden, d.i. Haustraditionen (des Hauses Fujiwara) Oberer (Band), Monumenta Nipponica, Vol.4, No.1, Jan., 1941

[32] Muchimaro-den. Kaden, d.i. Haustraditionen (des Hauses Fujiwara) Unterer (Band), Monumenta Nipponica, Vol.5, No.2, Jul., 1942

[33] Tachibana-no-Hayanari-den, Monumenta Nipponica, Vol.5, No.1, Jan., 1942

[34] Kôbô Daishi, Monumenta Nipponica, Vol.6, No.1/2, 1943

[35] Vom Alten mit den weissen Stäbchen, Monumenta Nipponica, Vol.6, No.1/2, 1943

[36] Hermann Bohner,Tamuramaro-denki, Monumenta Nipponica, Vol.2, No.2, Jul., 1939, p573

[37] ditto

[38] Honcho-shinsen-den, Monumenta Nipponica, Vol.13, No.1/2, Apr.-Jul., 1957

[39] Hahn und Uhr, Monumenta Nipponica, Vol.2, No.1, Jan., 1939

[40] Siebengestirn und Mond und einige Iki-Sagen, Monumenta Nipponica, Vol.4, No.2, Jul., 1941

[41] Massen-Nukemairi, Monumenta Nipponica, Vol.4, No.2, Jul., 1941

[42] 「雄鶏と時計」では、マタイやルカの福音書「あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度私のことを知らないというだろう」が、昴伝説ではオデュッセウスがそうした例としてあげられている。

[43] ボーネルは「抜けまいり」の紹介を、早稲田大学のNishimura Masatsuguの論文「群集心理―おかげ参り」(1927)からとりだしている。Nishimura Masatsuguの漢字表記及び掲載誌を筆者はまだ確認できていない。

[44] Hermann Bohner, Märchen und Geschichte aus Japan, Druck der Pekinger Pappelinsel-Werkstat, 1942

[45] Hermann Bohner, Arbeiten und Veröffentlichungen, Osaka Gaikokugo Daigaku, 1955, s.57

[46] ditto

[47] その事情について、八木浩『能楽研究への転機―生誕百年のH.ボーネル―』にある。この短いエッセイは、八木浩の遺稿の中に、掲載された出版物の当該ページ(3ページ)分だけ切り取られて存在していた。表題から推測して1984年ごろのドイツ語関連の冊子に載せられたものと考えられる。筆者は八木が述べている動物伝説の独訳の現物を確認していない。大阪大学外国語学部での野村教授による資料の再発見の中には、それは存在しなかった。

[48] Hermann Bohner, Japanische Theodicee, Zeitschrift für Missionskunde und Religions-

wissenschaft, Berlin,1929

[49] 上田浩二、荒井訓によれば、「イデオロギー的な要素」に米軍により、日本学の研究者は、これらの規定に合致していても、本国送還になっている。(上田浩二、荒井訓『戦時下の日本のドイツ人たち』集英社新書、2003)ボーネルの研究内容から考えて、占領軍にはきわめて「イデオロギー的」に見えたはずである。しかしボーネルは本国送還を免れた。なぜ彼が本国送還を免れたかは不明である。