体育教育に影響与えたドイツ兵俘虜
−仙波将軍の存在―
校 條  善 夫(春日井市)
 
 
□ 岐阜で体操演技を披露
このネットで先に名古屋にいた俘虜の所外での音楽活動についての報告をした。今回は俘虜の器械体操の演技が、岐阜の学校教育の体育教育に影響を与えた事実を報告したい。
 大正8年9月26日俘虜284人は中嶋所長に引率されて金華山に登った。この機会に県立岐阜中学で県下の中学、師範、農林、商業等の中等学校生徒に体操や競技を見せてくれるよう依頼してあった。その依頼通り同日の午後約2時間、鉄棒体操や平行棒体操などを実演した。(『岐阜県教育』第302号)。
 
□ 仙波将軍の仲介努力の成果
「・・・本年の春参観以来の、一度我青年学生に此優れた体操を見せたいといふ宿望が之で遂げられた。此擧に対して深厚の同情を賜った仙波将軍を始め中嶋所長、学校の諸先生及び市当局諸士の援助に因って幸に此の結果を得たのであります。此処に特記して謝意を表します。」(『岐阜県教育』第302号)
 ここで注目したい第一は、金華山と岐阜市観光と中等学校生徒に体操演技を見学させた功労者は、仙波将軍だったことである。仙波将軍はこの文面より前に中嶋俘虜収容所所長を岐阜へよんで岐阜県の教員にドイツ兵俘虜についての講演会を実現させていたことがわかった。中嶋所長の講演の全文は『岐阜県教育』に上・中・下の3回にわたって掲載された。中嶋所長の講演の要旨はドイツ館の研究誌(第4号)に発表している。しかしその講演会が仙波将軍の仲介で実現されていたことは、この『岐阜県教育』の記事で初めて知った次第である。
 
□ ドイツ兵の体格のよさに衝撃 
 第二に注目したいことは、ドイツ兵俘虜の来岐が岐阜県の体育教育に大きな影響をもたらしたことである。第一次世界大戦で西欧人との体格の差異が認識されて、世界の列強に対抗し得る強兵育成のための、体位向上、体育重視の声が高まった。『岐阜市史』には下記のような記述がある。
 「・・・特に大正八年九月、名古屋俘虜収容所のドイツ軍人二八四名が、引率されて金華山に来たのを見たことは大きな刺激材料となった。その時、二三名のドイツ人による鉄棒体操・平行棒体操・高跳び・幅跳び・鉄丸投げ等を、中学・師範生徒に見学させているが、演技者が『何れも仁王の如き人間計り、彼等の偉大な体格、鋼鉄の筋肉、絶妙の演技、一として観る者をして驚かさざるはなかった』ことや、彼等の体重が将校は平均二〇貫、兵卒は一八貫であったことに眼をみはった」。この記述に続いて、
 「各小学校では、肋木・水平棒・平均台・攀登棒・吊棒などの体育機械の導入が図られ、水泳練習なども行われるようになった。(『岐阜市史 通史編 近代』岐阜市 昭和56年569頁)俘虜の体操演技が岐阜の体育教育に画期的な転換を要請する契機になったと記述されている。
またドイツ兵の体格のよさについての記録資料には、『岐阜県教育』第290号の一色順雄氏(通俗教育常任委員)の論文「俘虜生活に現れたる独逸国民性の一端」の中で記述されている。
 「・・・最も深き印象は、彼独逸人の優秀な体格であった。彼等のあらゆる筋肉は鋼鉄の如く緊張して居る、我お寺の門の両側に立って居る仁王だと思えばマア間違いない。腕力の強きことは殊に注意を引いた。之は彼等は既に小学校時代から体格組合を作って盛んに体育に熱中して居るのみならず、学校卒業後も尚終生体力を練ることをおこたらない結果である。今日本在留の独逸俘虜の体格を表示せば次の通りである。日本人の体格と比較せば思ひ半ばに過ぎるであろう。」(体格の表示は省略)。
 
□ 日本人の体育向上を展望
器械体操を実演した俘虜の代表エングラーから、県立岐阜中学宛の礼状には、寄贈品や歓迎の好意に対する謝意のあと「今後貴校生徒諸子も独逸式体操、運動等を手本として之を実行せらるべきは既に小生の注意に上りたる点に御座候日本の青年諸子は其体質に於いて独逸青年に比し多少虚弱に見受けられ候。小生は日本の学校に於て所謂独逸式体操を徹底的に行われ候はば、日本青年も耐久性と体力との二点に於いてやがて独逸青年に匹敵し得んと存じ候、・・・」(「『岐阜県教育』第302号 大正8年10月)と、日本人の体育向上は独逸式体操や運動をすれば、きっと期待できる体格になるだろうとの展望を表明していた。エングラーのこの言葉も体育教育の改善に影響したと考えられる。
(俘虜代表エングラーとは、Engler,Georg。ドレスデン出身。1914年2月上海の同斉医学工科大学講師。青島戦で召集され第三海兵大隊予備役副曹長。俘虜となって熊本、久留米、名古屋の収容所へ収容換。戦後ドレスデンで教師。1925年再度上海にきて同斉大学付属中学で教師を勤める。(シュミット氏の名簿による)
 
□ むすび ― タイミングのよさと重なって ―
 いずれにしても名古屋俘虜収容所においては、一人の人物仙波太郎陸軍中将、元名古屋第三師団長の存在と行動が、一つはドイツ音楽を公開の場で初めて名古屋市民に聴かせ、もう一つは青少年の体育向上の必要性を関係方面に自覚させたことは確かである。そして付け加えておきたいことは、先のメールでも指摘したように、仙波将軍の活躍を効果的に発揮させた根底には、講和条約交渉が終盤を迎えて俘虜解放が間近という時代のタイミングのよさがあったことも確かである。