名古屋俘虜収容所と仙波将軍 〜 野村新七郎氏の回想記から 〜
 
校條 善夫(春日井市)
 
大正末俘虜の大半が帰国する一方、日本やアジアに残留して未来の生活の活路を求めて活躍した兵士たちがいた。朝鮮開拓に熱情を傾けた一団もいた。渡鮮してドイツ式大規模近代農業経営を実践した。引率したのは開拓団の母体から委嘱された愛知県の農業技師、野村新七郎氏である。大正94月に渡鮮した。
日本人責任者の野村新七郎氏は、開拓状況や人物の日常について実に詳細な日記風のレポートを書き残している。このレポートは大正末から昭和初期にかけて『愛知県農会報』に連載で掲載されたもので、近年遺族の手で整理されて『朝鮮往来』の題名で本になって出版された。前置きはここまで。ここからが本題になる。
 
□ 仙波将軍の示唆
収容所の敷地内に収容棟とは別に、俘虜は東屋を何軒か建てていた。ここで昼寝や読書や談笑をしたりしていた。俘虜の解放でこの東屋は空家になるので、一般の希望者に購入を呼び掛けていた。松坂屋の社長の伊藤次郎左衛門祐民氏は、残っていた東屋のうち八角形の東屋を購入し、自分の別荘地「揚貴荘」に移築した(現在は存在しない)。購入した人は祐民氏の他にもあったようである。『愛知県農会報』に掲載されたシリーズ記事「朝鮮往来」の中で野村新七郎氏は次のように記述している。俘虜収容所の松林の丘陵地に俘虜達が建てた東屋の話題である。
「・・・小さい家の中に炊事場、冷蔵庫、物置、寝台、空気抜き等悉く整った住居方は、当時吾々には珍しかった。後に彼等の還る時、(東屋は)地方の篤志家に買はれて今尚記念になって残って居るのが多い(現在は皆無)。又中には小さい畜舎を建てて下に兎、中間に鶏、上に鳩等飼って、合理的な独逸式を発揮したのがあり、仙波将軍等は頗る珍重されて是は皆に開放して見せるがよいと収容所長に要望された程で、後には在郷軍人や農家の篤農家等見学したものであった。・・・」と記述している。
この記事は何時のことを指すのかわからないが、記者でもない一農業技師がここまで詳しく書いていることにまず感心する。さらに野村氏が仙波将軍をあらたまった形で紹介することなく、すんなりと仙波将軍の存在を記述していることに注目したい。同時に驚きさえ感ずる。仙波将軍はドイツ人の合理性や日常生活の質のよさを日本人に教えたかったのではないか。
この文章を読むと、仙波将軍は特定の行事の時にだけ現れていたというよりも、実は半ば日常的に気楽に収容所と接触していたようにさえ思える。つまり仙波将軍は収容所では「日常的な普段の顔」であったと推測できる。俘虜収容所の話になると、大抵は陸軍対俘虜の図式で語られることが多いが、その両者に加えて仙波将軍という第三者の存在が両者の中間に入っていろいろと好い影響を両者に与え、また両者の間の潤滑油的な存在だったと思われる。そういう点で名古屋俘虜収容所にとっては、おそらく他に例をみない貴重な人物の存在だったと思われる。
仙波将軍は書画の大家でもあった。書の号を「鳳林」という。各地の記念碑に名筆を残している。水墨画の作品はプロと変わらぬ出来栄えである。また浄瑠璃は「玄人はだし」であったといわれる。もともと広く芸能が達者であったので、諸芸に通じていたことはわかる。豊かな芸術的センスをもっていただけに、ドイツ滞在中に音楽に興味をもち西洋音楽に刺激をうけたであろうことは容易に想像がつく。
当時陸大卒の将校がドイツへ留学するケースは珍しくなかった。同じ頃ドイツに軍医として留学した森鴎外の伝記を読むと、音楽や演劇など芸術に親しんだ日常であったことがわかる。仙波将軍も五十歩百歩よく似た日常ではなかったかと想像できる。
今後の課題としては、ドイツ滞在中仙波将軍が音楽にどのように接していたのか。またドイツ自体にどのようなイメージを持っていたのか。この辺の様子がわかれば、さらに名古屋俘虜収容所研究にプラスになるのではないかと思っている。
 
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参考文献:
  仙波将軍については、既にご承知の方も多いと思うが、『仙波将軍と田所大佐〜明治を翔けた青春〜付・伊藤博文と愛媛』田所軍兵衛著(愛媛新聞サービスセンター発行)がある。しかし名古屋俘虜収容所と仙波将軍については、上記の文献には関連する記述はない。
このネットで発表した報告で参考にした資料は「名古屋新聞」、「新愛知」などの記事が事実の認識のベースとなり研究のスタートとなった。雑誌や図書文献としては「岐阜県教育」、『岐阜県教育史』『岐阜市史』などにドイツ兵俘虜に関連する記述がある。仙波将軍の人物紹介では先述した田所氏の著書のほか『濃飛偉人伝』、『郷土歴史人物事典』、『岐阜県の偉人』、『加納町史』、『岐阜市史』、『岐高百年史』、『都道府県別に見た陸軍軍人列伝』、『日本陸軍将官辞典、』『朝鮮往来』などがある。森鴎外のドイツ留学当時の日常については『森鴎外の独逸日記<鴎外文学の淵>』植田敏郎著(大日本図書 1993)を参考にした。
  調べる過程で気がついたのは、岐阜の文献に比べて仙波将軍のことを記述した愛知の文献がなかったことである。偶然のご縁で仙波将軍の直系のご家族がわかり、今後の研究に期待できる場面があればよいがと願っている次第である。