14. 三木成夫先生の想い出
 
河野邦雄
 
 病気で倒れられる一週間ほど前の土曜日でした。先生からお電話をいただきました。「娘がミニ・コンポ(ステレオ)がほしいと云っている。何がいいかね」とオーディオに関する相談でした。私は学部学生として医科歯科に入学以来三十年間、おそばで親しくお教えをうけることができました。特に、先生は学生時代にヴァイオリンを練習しておられたとかで、私とこの点で話が一致し、趣味の上でのおつき合いに最も身が入りました。
 「ARはどうされましたか」「あれはもうボロボロになったよ」とのお返事でした。あのときも娘さんが話のきっかけでした。誕生間もない頃かと思いますが、「近頃、娘がモーツァルトの聞こえてくるとおとなしくなり耳を傾けている。これが他の作曲家の曲ではだめで、モーツァルトの曲でないとだめなんだ」とその子煩悩ぶりを聞かされました。「そこで我が家でもステレオを買おうと思うのだが、何がいいかね」と御相談をもちかけられました。私も嫌いではないので、次の日曜日に早朝から秋葉原に出かけることにしました。まずスピーカーをどれにするか決めなければなりませんが、すべてに万能ということは無理なので、先生が最も聴きたいと思われるレコードをお持ち下さいとお願いしました。そのときお持ちいただいたのがカザルスのひくバッハの無伴奏チェロ・ソナタのレコードでした。いや、私は驚きました。通常、スピーカーの試聴には多くの種類の異なる楽器を使った最新のレコードを使うものですが、チェロ一台で全く伴奏はなく、しかも十数年前の古いモノラル録音のレコードで、これでスピーカーの音の違いがわかるかと心配でした。しかし、案に相違してすばらしい効果を発揮してくれました。音源はチェロ一台ですから必ずしもステレオである必要はなく、また弦一本の響きとその倍音に注意すれば音の違いがはっきりと聞き分けることができるのです。居並ぶスピーカーを次から次へと片っ端から聞きました。そしてあるスピーカーの第一音を聞いて即座にこれがいいと結論されました。それはアメリカ東海岸のボストンでつくられたAR−3aというスピーカーで、当時は大評判になっていたものです。その確かな耳には感心しました。それ自身は高価だったので、同じ会社の音の感じのよく似た小型のAR−4axに決定しました。スピーカーも古くなると振動するコーン紙を辺縁で支えているブチルゴムが、カゼを引き脆くなってボロボロと破れて剥がれてゆきます。大切にお聴きになっておられたのでしょうが、このゴムが劣化するともう寿命かと思います。
 「娘もいろいろ調べてビクターがいいと云っているのだが」「ミニ・コンポについては私自身あまりよく知りませんが、ビクターの製品ならば懇意にしている人がいるので頼んでみましょうか」と御返事申し上げたら、「いや、もう金も用意し、明日、秋葉原に行こうかと思っている」「そこまで準備しておられるのならば、しっかり聞いて来て下さい」と云って電話を切ったのですが、相変わらずの子煩悩ぶりに感心しました。恐らく新しく購入されたステレオでお子様達とすばらしい団欒をもたれたのではないかと想像します。
 筑波大学の開学以来、非常勤講師として年一回講義に来ていただいておりました。講義のときは必ず前日に起こしいただき、我が家で夕食を共にしオーディオ談義に花を咲かせるのが常でした。家内は芸大の昔教わった先生方の話や学生気質の古今などを聞くのをたのしみにしておりましたし、また先生は家内の田舎料理を喜んで下さいました。食事のあとはレコードを聞き、お話をして、ほんとうに楽しいひとときを持たせていただきました。今でも白い髪をなびかせ、カバンを肩に、「よおー」と手をあげてどこからか来られるような気がします。目を閉じるといつでも先生が現れ、お話をすることができます。私の心の中にはいつまでも生きておられます。
 
(筑波大学解剖)