17. 三木先生との出会い
             ― 長野県塩尻村にて ―
 
佐藤 智
 
 人生における出会いというものは全く不思議である。
 三木先生(失礼ではあるがいつも呼んでいたように三木君と言わせていただく)に初めてお会いしたのは、長野県小県郡塩尻村国民健康保険直営診療所の診察室で、昭和二六年秋のことである。私はその村の村医をしていた。当時は大学の医局から若い医師が一年か二年いろいろな所へ派遣される仕組みになっていたので、私は鈴木秀郎君(産業医大副学長)と二人でこの村へ赴任してきた。
 私は全村民の血圧測定をしようと考え、協力を親しくしていたインターンの三輪史朗君(前東大教授)に相談した。彼は仲間に呼び掛け総勢4人、すなわち三木、三輪両君の他に藤本吉秀君(東京女子医大教授)と広瀬安光君(故人)で不便な汽車を乗り継いでやって来てくれた。
 皆がきてくれた夜に、医師住宅二階でささやかな歓迎パーティーを開いた。当時はおいしいお米を腹一杯食べるのがご馳走で、八畳の私の部屋に皆がゴロ寝をして一週間の生活が始まった。
 その間に、三木君は医学部に入ったけれども本当はバイオリニストになりたかった、ということも知った。そういえば彼は四人の中で最も医者らしくない芸術家の風貌をしていた。
 われわれの毎日の仕事は、血圧計を携えて部落から部落へと廻り、集会所に集まった人の血圧をはかる。来なかった人の所へは「夜討ち朝がけ」で訪ねてゆき測ってくるということは大変なことであった。
 三木君はそれらを黙々とやってくれた。とくに印象に残るのは、数台の自転車を連ねて部落へゆく途中、皆でコーラスをしたが、それをいつもリードしてくれたのは三木君だった。
 昭和二六年十月二一日に帰られたがその日の私の日記に次のように書いてある。
   「藤本君が早朝抜け出して測定にいってくれたり、夜終わってから
   一人で行ってくれる黙々たる実行力、
   三木君の屈託のない明るさ、
   広瀬君のスマートな身のさばき、
   三輪君の統率力、細かいセンス、几帳面なさばき方、
   本当に良き友を得たるものかな」
 
 話は三六年間を一足飛びにこえて昭和六〇年になる。青春時代のひとときを塩尻村で一緒に過ごした仲間が集まろうと言うことになり、「塩尻村時代の会」と開き当時われわれの食事、洗濯から全部の世話をして下さった渡部夫人を東京へ招いた。それは二月二日土曜日午後のことである。
 (詳細は鉄門だより昭和六〇年三月号に掲載されておりますので、お手持ちのかたはご覧頂ければ幸いです)
 当日は五時半閉会なので私は世話役として一時間はやく会場へいったところ、三木君がすでにきていて待っていてくれた。まさに三〇年ぶりの再会である。彼は出席の返事も一番早くくれ、「タイムトンネルの中を光速で連れもどされた思いでした!」ときれいな字で書かれてあった。三木君の友人に聞くと、彼はあまりクラス会など出ない方なので、今回の会は非常に楽しみにしていてくれたのだと思う。
 彼は「僕の人生にとって、あの塩尻村の生活は僅か数日であったが忘れられない思い出です」と述べられた。皆の話を、すこし白くなった髪をかきあげながら楽しそうにきき、話に加わっておられた。彼一人がスウエターでカジュアルスタイルなので、いかにも芸術家らしく印象的であった。
 この会がご縁で彼との交わりが再びはじまり、彼の論文、とくに健康に関する別冊を読ませて頂いた。私からも何回かお手紙をさしあげたが、残念なことにその後お会いする機会を失ってしまった。
 思えば、お互いに二〇歳代後半の若い時代であった。しかも僅か数日の生活である。人生における「出会い」の神秘さを思わざるをえない。
 
(白十字診療所 内科医師)
(ライフケアシステム 代表幹事)