18. 三木さんの想い出
 
重 井 達 朗
 
 三木さんのおもかげは、いつも上野公園の緑と結びついている。名古屋から、実験データを携えて、何度芸大に通ったろうか?噴水を樹々の緑が囲む広場を通り、風情ある一画を抜けて芸大の門を入れば、すぐ右前方に保健センターがある。植え込みと、彫刻が形よく配置された構内は公園の続きのようだ。雑務に追われる大学の日常から、ひと時解放されて、三木さんを訪れるのは、いつも愉しい所用であった。心臓、血管の宗族発生の話に魅了されて、イヌ静脈系の仕事を続けた二十年の間、研究の節目々々で三木さんに相談するのが、しつか習慣となっていたのである。
 明るい部屋で、ソファにくつろいで、テーブルにデータを並べて、あれこれと検討していると、途中で大抵学生がやって来る。ちょっと待って下さい、と三木さんは診察室に消える。静かな空気の中で、時々対話の声が漏れて耳に入る。感受性の強い若者と、長髪温顔の三木さんの間の、ほのぼのとした雰囲気が伝わって来るようだった。
 周りを見廻せば、所狭しと置かれた奇怪なもの達―動物あり、草根木皮あり、何やらわからぬものの方が多く、すべて学生達の成績物だとか。暫くして戻ってきた三木さんは、やおらその一つを手にとって嬉しそうに撫でまわしながら、作品と作者の解説を始める。こちらは一々感心しながらきいている。そこへ助手の女性(看護婦さん?)がお茶を運んで下さる。又、仕事に戻り、データの解釈やら、図の修正やら、この先の方向やらを話し合う。独特の図を画き、本を開いて見せては、わかりのわるい私の質問に根気よく解説して下さった。一方、話はすぐ脱線する―ゲーテ、漢方、リズム、時々はお子さん達のこと、それは心愉しいひと時だった。いつの間にか窓外に暮色が迫り、一緒に鶯谷まで歩いて別れるのがお定まりのコースだった。たまには池袋のてんぷら屋にしけ込んで夢を語ったこともある。三木さんの“形”と、私達の“薬”のデータが綯い交ぜになって、言はば長編小説の筋書を、半定期的に作り続けたとでも言おうか。
 三木さんは、一九七七年から七九年にかけて「生命の形態学」六回を連載、そして一九八三年には「胎児の世界」を書かれた。その間には血管に関する国際シンポジウム(一九八一年、京都)に参加していただいた。連載の〈4〉は消化系、〈5〉は呼吸系。毎回別刷を下さったが、〈5〉の表紙に書かれていたのは、“Vの「人類の呼吸」ですこし大風呂敷をひろげました。御笑覧下さい。次回は待ちに待った循環系です。いまから準備運動などして心中ひそかに期するところがあります。この秋ごろまでお待ち下さい。”
 そして、〈6〉循環系の時には、“……、扨て同封の別刷は御待たせ致しました。時間に追われ、とくに腎循環系はもっとも不充分で残念でした。少しでもお役に立てば幸いです。……”この〈6〉は私にとって何より大切な宝物である。長い間勝手な気分で三木さんにつきまとったが、ずいぶんひとりよがりだったのかもしれない。しかし、考えてみても、三木さんが不機嫌な顔をしているのを見た覚えがない。芸大は三木さんにとって本当に居心地のよいところだったのだろうとも思うし、私は私なりに、どこかで三木さんと波長が合っていたのだろう。
 〈6〉循環系が書かれた後、連載は中止された。別のモノグラフを書くのだと言って、本棚から一抱えもの原稿用紙をとり出して見せられたことがある。「私の最終目標は中枢神経のフィロゲニーだ」ともきいた。まだまだ雄大な企図があったにちがいない。
 芸大を訪れ始めた頃、明治村にあるような木造建築の中に保健センターはあった。なるほど優雅なところ、と感心したものだ。間もなく現在の瀟洒なビルディングに変わった。今でも、あそこに行きさえすれば、やあ、やあと三木さんが現れそうな気がしてならないのである。
 
(前名古屋大学教授、薬理学)