19. おもかげ
 
島 崎 三 郎
 
 五万分の一の川越の地図を見ると、高麗川と鎌北湖にはさまれた台地にユガテと片仮名で書いてあるところがあります。三木さんが「秩父の秘境を案内するから」といって連れていってくれたところです。新大久保のアパートから出版社の人の運転する車に乗せられて、かれの家族といっしょに。幼いさやかちゃんを抱いた奥様といっしょに五人で、何時間もかかって。西武線の東吾野駅あたりから歩いて山に登りました。高麗川の岸にはネムの花が咲き、登りきったところは見事な杉木立の細道で、道ばたの下草にウチワヤンマがとまっているのを見かけました。山の背の鞍部のようなところへ出ると、そこがかれの取って置きの場所でした。「どうです、いいところでしょう、ここに家を建てようと思っています、一緒に住みませんか」。いきなりそういわれても答えられないので、とにかく見せていただくことにしました。そこは一軒の農家の地所で、古い立派な家がありました。かなりよく知っていると見えて、あいさつがすむとみんな上がりこみ、丁度おひる寝の時間になったさやかちゃんを寝かせて、お弁当を食べたり、話しこんだりしました。もうここにくることはあきらめてしまっているみたいに。庭先の草が生えて石のかけらが散らばっているところへ出ると、「ここは昔この家の先祖の住んでいたところなので、きっといい場所なんですよ、なかなか貸すといわない」とか、「ここは書斎にするつもり」とか色々説明があって、最後に入口と反対側の谷へ下りました。谷底には清水が涌いていて、手ですくってみせて「ほら、こんなにきれいな水、毎朝ここで顔を洗うのですよ」といったときのうれしそうな顔。それはそうだけれど、ここまで毎日何度も下りてくるのは相当なことだと思われたので、「いいところだけれど、こんなところに住んだら奥さんや子供さんは大へんなんじゃないですか」とやっとのことでいってみましたが、それもあまり問題にしていないようで「ここへきたら何でも自分でやるつもり、子供の送り迎えなんかも自動車の運転を習って自分がやりますから」という始末。結局その話は立ち消えになったようで、やがて上福岡の雑木林のそばのアパートに引っ越してけりがついたようです。ユガテといえば、夢のような景色と谷の泉のほとりで手で水をすくいながらこちらをふり向いて「どうです」といったかれの顔が目に浮かびます。
 三木さんに感謝していることの一つは、クラーゲスの著書を教えてくれたことですが、あるときそのクラーゲスの横顔のスケッチを送ってきて、「こないだの彌勒菩薩の像、気に入ったと思いますが、こんどのクラーゲスは、あなたによく似ていると思いませんか、あごのあたりから耳にかけて」。私は自分ではよくわからないと返事しましたが、その後ある会合の席で他の人にもそういいながら私を指したのに、誰も何もいわなかったので、これはかれがひとりでそう思って楽しんでいるのだなと思いました。またあるときは、男の子が生まれたからといって写真を送ってよこしましたが、今度は「ゲーテのデスマスクにそっくりでしょう」と書いてある。たとえゲーテでもデスマスクなんかに似ているのはあまり縁起のよい話ではないと思いましたが、それはかれがゲーテに打ちこんでいるので、とうとうゲーテその人が生まれかわってきたということかもしれないと思い当たりました。もっともあれはゲーテのデスマスクではなくて、老年期のライフマスク(?)らしいのですけれども。
 三木さんを案内して江の島(片瀬)に晩年西成甫先生をお訪ねしたこともありました。その前に先生は私に三木さんの医科歯科から芸大への転任のあいさつ状を見せられて、「あゆが生まれ故郷の川に遡るように……」というところを指して「いいではありませんか」といって喜んでおられたので、快く迎えられ、色々と話がはずみました。三木さんは帰りがけに西先生から先生の恩師のフュールブリンガー先生の手紙をいただきましたが、そのときも大へんな喜びようで、昔なら鬼の首を取ったようなというところでしょうが、「これで西先生のお墨付きをいただいたので、比較解剖学の伝統を受けついだことになる」ということでした。帰りの電車の中で、「西先生はやさしいけれど、甘くない人なので、有頂天になっているとえらい目にあいますよ」といっておきましたが、はたしてその次に私が一人でうかがったときに、「三木君は面白い人だけれど、あのまねをしてはいけない、あの生き方は危険ですよ」と釘をさされました。
 三木さんの書いたものを読んでいて「おもかげ」という表現に出会うとき、こんなことを思い出すのです。