シュミットさんの質問への回答
 
 本メール会報第562号でシュミットさんが情報を求めておられるということが書いてあるので、以下に私が知る情報をお知らせします。
(1).
 工場の写真は、「株式会社服部紡績工場全景」です。絵葉書の下欄にこの社名が書いてあります。神社は熱田神宮で、服部紡績工場はこの近くにありました。服部紡績の女工さんの募集資料だったのでしょうか。
 服部紡績は話題の多い会社です。当社は青島戦以前にランツ式蒸気機関をドイツから輸入し使用しておりました。この蒸気機関は当時の有力な重機でした。この重機の据付や運転操作ができる日本人はいないので、これに詳しい俘虜のカール・ワイス技師が雇用されていました。青島戦後にワイス技師が久留米収容所にいることがわかり、会社は名古屋への彼の異動を要請したところ承認されて来名しました。この会社は正式には「服部ウイーヴィング商会」と称しており、陸軍省への申請書はこの社名で届けております。この会社の後身は現在「興和」の名称で知られている会社で薬品や化粧品で有名です。
 そして当時は服部紡績だけでなく、名古屋市内の他の会社の工場にもランツ式蒸気機関は輸入されていたので、ワイス技師は掛け持ちで他社の重機の据付、操作指導や修理のために出入りしておりました。例の「ケーニヒ情報」によれば、彼は重機の操作指導にとどまらず、近代工業の技術や経営など各方面にわたって示唆助言を与えおります。ケーニヒは彼が名古屋の会社や工場の近代化に大いに貢献したことを報告しております。
 帰国前には、彼カール・ワイスは同僚の俘虜エルンスト・ハーフェルトと連名で「機械製造工場設立主旨概要」という表題の提案書を作成し収容所長に提出しています。俘虜の文書であるので、主旨を理解してもどこかが採用することなどはありえませんでした。この『主旨概要』を収容所長はおそらく高く評価したためだと思われるが、収容所の『業務報告書』の巻末に一緒に綴じられています。
 彼には別の話があります。彼の友人がヨーロッパ戦線で俘虜になり、シベリアに抑留され、極めて過酷な状態であることを知るにおよんで、名古屋の収容所内で内密に仲間の俘虜から義捐金を募ったところ30円集まりました。これを送金するについて俘虜の身分では無理なので、彼の上司に頼んでその課長名義で郵便局から送金手続をしましたが、それが発見されて上司は即刻解雇、彼は30日の重営倉の処罰となりました。
 この件は名古屋の「東区郷土史研究会」の研究誌第12号に拙稿を載せておりますが、その研究誌自体は余分はなくもう在庫はありません。将来は再度何かの形で紹介できる機会を持ちたいと思っています。
(2).
 俯瞰図は名古屋俘虜収容所の風景を俘虜が描いたものです。これは『業務報告書』の巻末に他の写真と一緒に綴じられています。かなり絵の上手な俘虜が描いたものだと思われますが、俘虜の誰が描いたのかはわかりません。表紙らしきに「写真帳」としてあるところから推察すれば、他に当時の写真が収録されているようにも思えます。俯瞰図はその中の1枚だと思われます。これがアルバムだとすれば、俘虜が名古屋で購入したアルバムを遺族がまとめたものでしょう。中央に4棟の収容棟が描いてあるのが象徴的です。手前から第1、第2、第3そして第4棟です。第3棟の端に図書室がありました。少し離れてもう1棟あるのは、所長室、事務室、医務室など管理部門の建物です。その奥に森がありますが、松林の丘になっておりラウベが建てられていました。そのまた奥がサッカー場でした。手前にテニス・コートが見えますが、コートは6面ありました。方角はテニスコートがある方向が来たです。設計図ではないので実際の様子を正確に描くこともなかったでしょう。
 この絵は私が地元で収容所の紹介(講演会やパネル展示会)をする時に、よく使う写真です。
以上です。