俘虜のシベリア義捐金送金 ~ 名古屋俘虜収容所の例 〜
校條 善夫(春日井市)
名古屋俘虜収容所では、シベリア抑留俘虜への義捐金送付で成功例と失敗例の二つがあったことが、今回「フォイクトレンダー情報」を通じて初めてわかった。
フォイクトレンダー情報少尉が名古屋収容所で集めたシベリア抑留のドイツ兵俘虜へ送る義捐金は合計で¥125.65であった。これを東京の牧師シュレーダー氏(Schroeder)経由で送金した。最終の届先はシュレーダー牧師に一任された。その一方同じ名古屋収容所でも伍長のカール・ワイスが義捐金の送金計画をしたが、彼は処罰され協力した労役先の日本人の上司は解雇された。俘虜の同じ義捐金活動でこの二件の間に大きな差違があったことを知りショックをうけた。
俘虜のカール・ワイス(後備役伍長)は、ドイツのランツ社の蒸気機関の据付や運転操作の有能な技師である。名古屋の特種技能者の中でも貴重な存在であった。彼は仲間の一人と共同で日本に高度な近代的工業技術の会社を創立したいという申請書を作成したほど、工業技術には自信があった。
ところでその彼は仲間から義捐金を最初¥130所内で集め、収容所管理部に送金を依頼したが、規則違反として断られた。集めた¥130はそれぞれの俘虜に返金した。その後彼の労役先の上司に協力を依頼して同じ会社の日本人社員名義で今度は¥30円を送金しようとした。しかしこれも軍部に見つかり重営倉30日の処罰をうけた。協力した日本人の上司は会社を解雇された。
ドイツ兵俘虜のシベリアの抑留環境は大変苛酷なものだったことは名古屋にいたドイツ兵俘虜もそれをよく知っていた。収容所では日本の新聞記事が所内のドイツ語新聞に掲載されていたので、世界の情勢については概ね日々その動向を知っていた。
ついでにいうと、日本の民間の有志の間ではドイツへの義捐金は大々的に行われていた。例えば渋沢栄一や今の東京女子医科大学の創立者吉岡弥生などがそうだが、ドイツは彼らの多額の義捐金に感謝して、渋沢や吉岡らにプロシャ赤十字勲章を授与している。荒廃したベルリンの子供達にも義捐金を贈る活動が新聞記事に大きく載っていた。
いずれにしても情報将校のフォイクトレンダーから東京の牧師経由の路線であれば、無事故で目的地へ届いた。その一方収容所内で下士卒の俘虜仲間が集めた義捐金活動は、本人は処罰されたばかりか、協力した日本人の一家の生活の道は絶たれた。
同じ義捐金送金でありながらこの格差は見逃せない。当時の軍隊の階級制度の差別的取扱いの不条理を印象づけられるが、同時に一部のキリスト教牧師の仲介活動が注目される。牧師の仲介活動は、名古屋だけでなく他の収容所でも行われていたとみられる。各収容所管理部は、牧師の仲介を警戒していたという報告が研究者のレポートに散見される。警戒されていた牧師は、フンツイカー牧師(スイス人)とシュレーダー牧師(ドイツ人)の名前が目立つ。両牧師は東京の旧小石川区上富阪にあった通称「東亜ミッション」(宣教師神学校併設)に住み、ここから日本各地へ布教に出ていた。牧師らの俘虜収容所への出入りについての記述は、ドイツ館発行の研究誌に収録されている。井戸慶治氏(研究誌第8号)や高橋輝和氏(研究誌第5号)による俘虜の手記の翻訳文の中にみられる。
名古屋の場合はシュレーダー牧師に関する記録が多い。彼は1919年(大正8年)6月の名古屋での俘虜製作品展覧会に名古屋在住のドイツ人と共に収容所長から招待され挨拶(begruessen)さえしている。収容所長はシュレーダー牧師が秘密通信の仲介者だということを知っていたのかどうか。俘虜のフォイクトレンダーについても収容所長の認識がどの程度あったのか。興味のある疑問点である。フンツイカー牧師とシュレーダー牧師には板東収容所から「通信仲介」の疑いがあるとして訪問禁止の要望がだされ、特にフンツイカー牧師については、「宣教師としての資格はない」とまで付言されている(井戸慶治氏の前掲翻訳注記)。
俘虜でも将校ルートの抜け道、牧師という名の隠れ蓑の一面など、俘虜収容中の不条理で矛盾に満ちた事実があり、かつ収容所間にも統一性のない「まだらな」収容所管理の一端を知った思いである。