『バラッケ』の「漫筆」あれこれ(その1)
 
田村一郎
 
 
一.なぜ「漫筆」を取り上げたか
 現在のNHK大河ドラマ『八重の桜』に惹かれている。珍しく会津の置かれていた立場を、幕末・明治維新という大局の中でのせめぎ合いからきちんと抑えており、ヒロインの八重を軸に会津人のひたむきさを丹念に追っていてなかなかの力作である。これらを踏まえ改めて「会津」について書いてみようかとも思ったが、これからたくさんの資料を読み返すのは無理なので諦めた。
 もう一つ前から気になっていたのは、『ディ・バラッケ』(以下『バラッケ』と省略)の幅広い記述をドイツ兵の側からユーモラスに支えながら、時にはそれなりに鋭い風刺や批判をも交えている「漫筆」の見直しである。もちろんその柱をなすのは25回にわたる「収容所漫筆」であるが、それを補足しているのがその他の数多くの「漫筆」である。編集部をはじめ、所内でのその位置づけは『バラッケ』の「索引」の構成を見て行くとよく判る。
まず周知のことだが、『バラッケ』とは板東俘虜収容所の所内新聞の名である。徳島・松山・丸亀の3収容所が一つにまとめられ板東収容所が開設されたのは1917年4月初めのことだが、それからほぼ半年後の9月30日に第1号が発刊されている。この新聞は週刊で毎日曜日に刊行されたが、1年半後の1919年3月30日の通巻第79号を最後に月刊に変わっている。難航していたパリ講和会議も近くまとまりそうで、帰国が早まるのではとの気運が高まったからである。この新聞が前払いの予約制だったことも、月刊切り替えの大きな理由だった。ただヴェルサイユ講和条約が調印されたのは6月の末で、ドイツの条約批准は翌20年1月まで延び、実際に帰国が始まったのは1919年の12月末であった。したがって『バラッケ』の月刊も9月まで延長され、結局この新聞は正味2年間刊行されることになる。面白いのはこの新聞が半年ごとに製本して売り出されたことで、第1巻に26号、第2巻に27号、第3巻に26号、第4巻に4月号から9月号がまとめられている。週刊は1号平均24ページ、月刊は1冊平均120ページで合計2,720ページにも及んでいる。発行部数は300前後で、習志野でも51名が定期購読していた。
 『バラッケ』の内容は多岐にわたっているが、この半年ごとの合本の週刊3巻と、月刊6冊からなる第4巻のそれぞれの巻末に付けられている「索引」に手際よくまとめられている。巻によってはある大項目がなくなったり中項目の中身が変わったり、用語にも多少の違いがあるが、基本的な構成はほぼ同じで次のようになっている。
 
T.戦争の時代  1.時事問題 2.軍事 3.戦況(第3巻では「軍事」がカットされ、第4巻では全体が「時事問題」に統一されている)
U.東アジア   1.日本 2.シナ(第4巻では「日本」と「シナ」の区別はなくなっている)
V.われわれの収容所  1.収容所の出来事 2.演劇 3.音楽 4.スポーツ(第4巻では「スポーツと遠足」となっている)5.漫筆(第3巻のみ「漫筆など」となっている)6.その他
  W.他の収容所(この大項目は第1巻と第3巻でだけ使われている)
  X.懸賞作文(この大項目は第1巻と第2巻でだけ使われている)
  Y.自然科学関係(この大項目は第2巻以降に使われている)
  Z.『バラッケ』(第4巻だけ『ディ・バラッケ』とされている)
  [.格言と詩
  \.絵と図表
].雑(この大項目は第4巻にはない)
?.チェス(この大項目は第2巻と第3巻でだけ使われている)
 
 このように「漫筆」は「V.われわれの収容所」の大項目に入れられている。この項目は所内の出来事や諸活動を取り上げているのだから、「文化活動」の一環として「講演・学習」や「印刷・出版」の中項目を立て、後者の小項目とでもした方がすっきりしたろう。あるいは「Z.『バラッケ』」の主たる内容の一つとする方法もあったろう。それがこのように演劇・音楽・スポーツなどと並べられていることには違和感を覚えるが、おそらくこのように扱ったのは編集者が「漫筆」を、「われわれの収容所」の有り様を一貫して的確に表現していると高く評価していたからではなかろうか。
 先に述べたとおりこの「漫筆」は、定期的にやや長めにまとめられている「収容所漫筆」と、補足的にそのつどの所内の出来事や様子を扱った「漫筆」に分けられる。大事なのは前者の執筆者が、第1回を除いて第2回以降はk.に固定されていることである。その他の「漫筆」にはもちろんk.が私的に寄稿したものを含め、さまざまな人が投稿している。
 「収容所漫筆」の第1回は第1巻の第6号(1917年11月4日)に載っているが、執筆者は .n..n となっている。これも以前から気になっていたのだが、『バラッケ』では筆者がこのようなペンネームで記されていることが多い。あまり自信はないが今回は瀬戸武彦さんやシュミットさんの労作の『名簿』なども参考にしながら、できるだけ「筆者」を推測してみた。『バラッケ』がより身近になると思ったからであり、ご叱正頂くとともにご面倒でもお付き合い願いたい。くどいようだが、もう一つ付け加えておきたいのは人名などの読み方である。例えば有名な名でも使う人によってかなり異なる。本棚に並んでいる詩人のHölderlinのタイトルを見ただけでも、ヘルダリン、ヘルダリーン、ヘルダーリーン、ヘルデルリーンとさまざまである。哲学者のLeibnizはライプニッツが使われてきたが、最近はドイツ語の辞書でも発音記号は pよりbを使うことが多く、訳語にはライブニッツだけとかライプニッツと併記しているケースが目立つ。この人の子孫という方がドイツ館に来られたことがありどちらが正しいか尋ねてみたが、どちらも正しいとの答えだった。どれが正解とも言い切れないので、なるべく瀬戸さんの記述に合わせるようにした。
 まず手始めの.n..n 氏だが、この人は第1巻の第13号に「ペンション・シェラー」という芝居の批評を載せているばかりでなく、第17号に「われわれの展覧会」、第24号に「展覧会」の記事を書いている。「展覧会」とは、1918年3月8日から19日まで霊山寺境内を中心に開かれた「美術工芸展覧会」のことである。あの企画はどうなっているのだと責められて困っているという記述やその開催意義を強調した文章からすると、この人も主催者の一人だったのだろう。展覧会はシュテッヘル大尉など7人の幹事が推進しているが、その一人にヴァルター・フォン・ホルシュタイン(Walter von Holstein) という2等海兵がいる。ほかにこのようなペンネームに相当する人はいないので n..n はvon Holstein の末尾の 2つの nを活かしたものと思われる。
 後に触れる通り第1回の「収容所漫筆」はきちんとしたものだが、第2回が掲載されたのは7か月以上も経った第2巻の第12号(1918年6月16日)においてである。しかもこの号からは執筆者はk.に変わり、以後の第25回までの24回分はこの人が担当することになる。k. が誰かははっきりしている。というのもこの人パウル・ケーニヒ(Paul König)2等海兵は、1919年初めに『日本の板東俘虜収容所からの漫筆』という単行本をグスターフ・メラー(Gustav Möller)の挿絵入りで出版しているからである。
 なぜ第2回が掲載されるまでに半年以上もかかったのか、しかもなぜそこで執筆者が変わったのかは判らない。まったくの推測だが、ケーニヒは第1回の載った第1巻第6号に「いばら姫」、第11号(1917年12月9日)に「秋」、第23号(1918年3月18日)に「収容所の窓辺で」と相次いで「漫筆」に投稿している。このことと、ホルシュタインが「展覧会」の準備に追われていたことが変更の一つの要因なのかもしれない。ちなみにその後ホルシュタインがこの項目に投稿したのは、第2巻第11号の「木こりたちへ寄せる頌歌」という「詩」と、第24号の「夏のスポーツ怪人」だけで、その他の項目への投稿もないようである。
 
 
二.「漫筆」の内容
 「漫筆」の内容を、「収容所漫筆」を軸として各巻ごとにまとめてみよう。なお引用と訳語は、原則として鳴門市刊『バラッケ』の「鳴門市ドイツ館史料研究会」訳によった。
第1巻〈第1号(1917年9月30日)〜第26号(1918年3月24日)〉
 1)「収容所漫筆」(第1回)
先に述べたとおり第1巻では「収容所漫筆」は、第6号(1917年11月4日)の1回のみである。「門は閉まっている。有刺鉄線がわれわれと外界の間にある。刺はだんだん鋭さを失った。それとも、われわれの皮膚がそれほど厚くなったのだろうか」、ホルシュタインはこのように書き出す。石油ランプで始まった捕虜生活の場である新しい収容所には、まもなく電灯が灯った。その変化を所内で演じられた『新聞記者』『良心のやましさ』などの8つのタイトルに絡めてしゃれのめした後で、30もの居心地のよい家族用住宅としての兵舎を紹介し、そこでの底を高くしたベッドの下での「人生」の効用が推奨される。私的な空間を求めての狭い室内の間仕切りが流行り、高台には別荘が作られる。家畜を飼う人も増えた。第1棟には仮設の劇場ができ、スポーツが推奨されトライプバル(一種のホッケー)・シュラークバル(クリケットに似たドイツ式野球)・ファウストバル(拳だけを使うドイツ式バレー)などの新しい競技も広まり、ボーリング場も開設された。印刷所もでき、童話や催しもののプログラムなど様々な印刷物がきれいに刷り上げられた。これらはすべて有刺鉄線が鋭さを失っていくことの表れとされる。
  気配りの行き届いた、開設後半年以上経った収容所の現状のしゃれたまとめである。おそらくこうしたホルシュタインと堅実なケーニヒを執筆者に併用する案もあったのだろうが、どちらがよかったのかは判らない。ともかく第2回からはケーニヒに移ることになる。
2)その他の「漫筆」
 @「植物園」(第1号、f.):所内にそれとなく作られていた、植物名の札まで付けたミニ植物園の紹介である。この筆者の特定は難しい。小文字のf. は、ケーニヒがk.を使っているからF. と取ってよいのだろう。Faul や Freisewinkelなども考えられるが、この短い文章には2度もK下士官・専門知識をもったKr氏の名が出てくる。もちろんこの両者は同じ人だろうから、展覧会に1,000点もの植物標本を出品したクルーク(Krug)伍長を指すのだろう。この人は、板東の小学校に多数の植物標本を寄附しその作り方の指導までしている。このクルークに近い「筆者」となると、同じ展覧会に砂車小屋を出品して評判になったフィーダーリング(Fiederling)伍長が考えられる。f. はおそらくこの人と思われる。
 A「いばら姫」(第6号、k.): ケーニヒは第1巻に3篇の「漫筆」を寄稿しているが、ことに「百年の深い眠りについたいばら姫と魔法にかかったお城のように、われわれの収容所は静まり返っていた」で始まるこの一文は重要である。いつもはスポーツに湧き音楽が溢れ、人々が行きかう所内が暗く落ち込んでいるからだ。文中にはその原因は一切ふれられず、重苦しい状況だけがくり返し描写されている。
所内の管理は松江所長ら18、9名の専任の将兵・軍医・通訳のほか、徳島からの憲兵・衛兵が交代で34,5名、さらに板西警察分署からの警官30名が派遣されて行われていた。この警備警察官出張所の『雑書編冊』という日誌と小冊子の「板東俘虜収容所沿革史」が元署長宅に残っていて、その日ごとの出来事などが記載されている。ただこの貴重な『日誌』は、残念ながら前半の1917年4月から1918年12月までしかない。 
これらの資料によると、1917年10月21日の消灯後見回っていた日本側の下士官が、床に入っていなかったデッカー(Decker)二等海兵に注意したところいきなりこん棒で殴られ、それに近くの数人も加わるという事件が起きている。当然デッカーは営倉となったが、彼は単独の行動を主張し他の犯人は現われなかった。所長は犯人が現れるまでということで酒保を閉鎖し、スポーツ・演劇・音楽など一切の所内活動を禁止した。師団司令部から理事が来て調査したが、デッカーは共犯者不明のまま10月30日に高松監獄に送られ、軍法会議で1年間の刑に処せられた。作業とその他の活動は11月1日に再開されたが、この事件は松江らの手厚く慎重な管理にかかわらず、ドイツ兵の間に消し難い敵対感情がうずいていたことを露わにすることになった。
 B「秋」(第11号、k.): 雨が降り続く徳島の秋の自然の推移と、ドイツ兵が所属の隊に応じて水兵や半ば陸軍風でもある海兵隊の服装に着替えて行く様子などが描かれる。寒くなると、それまで気にしなかった南向きと北向きの窓をめぐって争いが生ずる様子などが面白い。
 C「バラックの窓際で(挿絵付き)」(第23号、k.): この巻で3つ目のケーニヒの投稿である。7ページほどの長編で、映画のように北風の吹く窓に映し出される所内の生活をユーモラスにまとめている。不満そうにナイフをかざしていく連中は作業のイモの皮むき隊、嬉しそうに酒保からの買物を抱えて帰る幸せ者、楽器やスポーツ用具や製図版を手にしているかと思うと、重そうに劇場のためのイスを運ぶ人もいる。それぞれに有効に余暇を過ごしているのだ。時折行き交うニワトリや犬を眺めていると、夕方の点呼のラッパが響いてきた。
この「漫筆」で初めて、『バラッケ』に14枚もの「挿絵」が入れられた。担当したメラー副曹長は1818年1月からゴルトシュミット副曹長に代って『バラッケ』の編集に加わったが、前年に所内で単行本として出されて好評だったベール(Ernst Behr)の『三つの童話』の挿絵や装丁を行っている。25号の「展覧会」の挿絵も担当しており、その後も楽しい新聞作りに貢献することになる。
D「板東、町と砦」(第15号、A.Dt.): 「われわれの収容所が、小さな町に似ているという印象を誰も否定できないであろう。そこで町民たちは、自分の選んだ職業に従事している。収容所はそれだけではなく、小さな砦に似ている」。このように書き出されるこの「漫筆」は、この収容所という二重の鉄条網に囲まれ歩哨が見張っている「砦」が、いかに堅固に敵から収容者を守り、同時に収容者の勝手な行動を許さないかを描いていく。そうした現実を踏まえ筆者は1,000人ものドイツ兵が収容されているこの町が、唯一の出入り口である城門に始まる公的な施設によって、いかに行き届いた管理ができるよう作られているかを紹介していく。しかしこの町は、戒厳令下にあるとはいえ住民にとっては生活の場である。運動のための広場があり、生活用品を売る酒保があり、タアパオタオという中国名の商店街があり、ゲーバという菓子工場にボーリング場までが備わっている。筆者は、奥の高地に予定されている個人所有の別荘の建設には批判的である。表向きは高地があちこち掘り返されて下に害を及ぼすということをあげているが、真意は住民の生活内容や意識の差が大きくなることを危惧しているのではなかろうか。そんな心配が要らなくなるためにも、早くここを去りたいと文章は閉じられている。
 このきちんと整理された収容所紹介の筆者A. Dt.は、第23号にも所内の憂欝な目覚めを嘆いた、「雨の日の気分」という「詩」を載せている。この人は『バラッケ』の最終号である第4巻9月号に、「橋梁建設の2年間」という記事を寄せている。つまり「慰霊碑」や「ドイツ橋」などの設計・建設に当たったアドルフ・ドイッチュマン(Adolf Deutschmann)工兵少尉がそのご本人である。この人は第2巻にも「ああ休暇」という愉快な作文を載せている。内容は乞うご期待。
 残りの一つはヘーネ(Höhne)二等海兵が第20号に寄せている、<「ここ」板東と「故郷」ザクセン>という「詩」である。板東の現状に鉄条網や日本兵への不満を積み重ねながら「故郷」を対比し、そのザクセンも今はどうなっているのかと結んでいる。
                          (次号に続く)