「ドイツ人たちによる青島(Qingdao)歴史探索ツアー」に参加してきました。
東京 篠田和絵  
 
 
実は夫と私はこの旅に対し、大きな勘違いをしてしまいました。結果、8日間の歴史ツアーのまたとないチャンスを残念なことに3日間の参加で切り上げてしまいました。それゆえ今回の「ドイツ人たちによる青島歴史探索ツアー」について、一部しか報告できない結果になりました。
秋にシュミットさんからチンタオに行かないか?というお尋ねがありました。お手伝いできるかもしれないと思い、大喜びで承諾。シュミットさんのメールが、「チンタオに行こう」としか書いてない非常に短いものだったので、内容をよく把握できないままに、シュミットさんご夫妻だけで敢行するチンタオ探索旅行と思い込みました。その後の仮予定表の中には中国とのインタビューとか、フォーラムありで、これはシュミットさんがてっきり中国側からの招待を受け、チンタオにいらっしゃるのだとさらに思い込んでしまいました。全行程同行は遠慮せねばと勝手に3泊4日のショートツアーに変更しました。が、実は50人のドイツ人たちによる8日間の「青島歴史探索ツアー」だったのです。現地で本当の内容を知って、後悔しましたが、後の祭り。結局3日間を通しての見聞記になってしましました。
 
話を最初に戻します。
2014年11月4日~11日まで「ドイツ人たちによる青島歴史探索ツアー」が行われました。やはり第一次世界大戦勃発100周年記念行事ではなかろうかと思いました。参加者はチンタオ戦で日本の俘虜であったドイツ兵の子孫にあたる方々が半分(ほとんどの方がお孫さん)と半分の方々は1911年青島ドイツ海兵隊にあって、発足したShanty-chorus(合唱団)、現在もその音楽活動が100年続いるという驚きの合唱団員の方々でした。(合唱団は必ずしも子孫ではありません。)総計約50名という大家族のツアーでした。これは青島とドイツの友好を図る目的でもあり、100年前まで遡る子孫の家族の方がたに向けられた追憶の旅でもあったかと思います。
ドイツ通の青島ツーリズムカンパニー副局長 Dr. Jiang XiuKai 氏とドイツ旅行団の団長Mr. Geore Müllerの(マガジン599号王棟氏の記事参照)見事な連携プレーでできあがった旅のプランだとお聞きしました。実にユニークな壮大なツアーです。日本も旅行ばやりで魅力的な旅のプランが巷に飛び交っていますが、今回のように100年という長い時間の波間に静かに眠っている歴史の足跡をたどって、扉をノックして回るという旅の話は前代未聞です。このツアーに参加できてとても幸運だったと思っています。
 
さて、11月4日の夕方、私たちは、チンタオ空港に着きました。空港は2008年当時と変わっていません。指定された宿泊地は、フォンダオ(黄島)にある超デラック版チンタオ・ヒルトン・ゴールデン・ビーチホテルです。
黄島ここは?州湾を青島側から海底トンネルで横切って到着します。
車で30分ほどトンネルを走ると西側の半島に出ます。ここは、2007年、2008年には何もなかった地域です。海底トンネルができていて?州湾を横切るとは予想もしていませんでした。トンネルを出ると、突如、まったく見たこともない新しい巨大な都市が目の前に飛び込んできました。この地域が実に立派に整備されていることに非常に驚きました。超高層住宅が林立し、周囲の低層の住宅群も、ひとつひとつがお金持ちでなければ住むことができない大邸宅です。道路も広く、緑の木々が道路に沿って一直線に植えられており、とにかく別天地に来た思いがしました。すぐにここは北京からの格別な人々が利用するのではと・・想像してしまいました。お目あてのヒルトン・ゴールデン・ビーチホテルは、夜のとばりの中で、文字通り金色に光っていました。とてつもなく広い敷地に、ディズニーランドに来たかと思いました。タクシーの運転手も初めてらしく驚いていました。道路沿いにそびえる超高層マンションにはまだ人の住んでいる気配はしません。
しかし、何かが始まるのです。ここは。
 
写真1<林立する超高層マンション
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写真2<ヒルトン・ゴールデン・ビーチホテル>
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ホテルの後ろは海です。そう、ここは確かにハワイを思わせるリゾート地に仕上がっています。中国のイメージではありません。変化していく中国の力の強さを見せつけられた思いでした。青島の旧市街とは対照的です。
今回の豪華なホテルへの招待は新しくスタートした近代的なフォンダオ・中国をまず最初にドイツ人に見てもらいたいというプロモーション活動を中国に感じました。実際はどうなんでしょう
 
6時:ホテルにはシュミットさんはまだ着いていませんでした。我々だけでビュッフェにて夕食を済ませ、部屋で待っていました。小1時間すると、シュミットさんからの連絡があり、下に降りていきました。びっくりしました。レストランには先ほどはだれも人はいませんでしたが、今は外国人でいっぱいです。そして、それがドイツから来た旅行団であるとは夢にも思っていませんでした。まだ私たちはひたすらシュミットさん夫妻だけを待っていたのですから。
シュミット夫妻を見つけました。
夫は特に2006年以来でしたから、気持ちを込めてシュミットさんご夫妻に挨拶いたしました。その間にも、そばの外国人たちが(私たちには皆さんがドイツ人だということがわかりません。)私たちに何故かにこやかな挨拶を送ってくれます。その謎がMr.ジャンとMr. Müllerを紹介されたときにやっとわかりました。皆さん大家族ツアーを組んでドイツから今、このフォンダオに着いたのです。赤いスカーフを首に巻き、海兵隊のセーラー服を着た方々が多くいます。シュミットさんの予定表にそういえばセーラーによる合唱と書いてあったのを思いだしました。何のことやらわかっていませんでした。そうとわかれば!なんて素晴らしいこと!こんなにもたくさんの人々がチンタオに思いを馳せる旅行にでかけてくるなんて!だとすれば、私たちの短すぎる旅行がとても残念。
最初の夜はドイツから到着した方たちの喧騒の中で、驚きながらもだんだんにうれしさがこみ上げてくる不思議な夜でした。
 
2日目 11月5日、
「モルゲン」と昨晩出会ったばかりの人々と挨拶を交わします。シュミットさんご夫妻と一緒に朝食。他のメンバーの方々がテーブルに立ち止まっては、私たちに自己紹介をしてくださいます。とてもいい朝。
朝の光を受けて、中庭から見るホテルはまるでお城のようです。しかし昨日今日と晴れていますがスモッグがかかっていて、少しかすんでいます。幻想的でそれもいい感じですが、おそらくそうではなく、北京、上海あたりと同じ公害のせいだと思われます。
 
写真3<ホテルの中庭から>
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10時出発。バス2台です。旧市街の見学です。バスのあとをチンタオの報道関係者がどこへ行くにもついてきます。チンタオでは100年来のドイツからやってきたお客様が珍しくて、今や大変なニュースなんです。目的地に止まると、団体の行動などをTV局のカメラが追いかけ、インタヴューも盛んに行ったりしています。シュミットさんは行く先々で雑誌社やテレビなどの記者にインタヴューを求められていました。どこで知ったのか私もインタヴューを受けました。
Müller氏は特に狙われていました。そもそもこのような旅の計画はMüller氏の発案だそうです。子孫一人一人に電話で計画を話し、理解と参加を得たのだと聞きました。ご自分は普段はチーム医療スタッフとして責任のある仕事をされているとか。‘コ・メディカル’というキーワードをメモに書き留め、のちにその意味を調べました。Co-medical 先進医療にはなくてはならない分野だそう。
 
写真4<ミューラー氏とDr.ジャン>
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写真5<インタヴューを受けるシュミットさん>
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この日は青島(チンタオ旧市街)めぐり最初の日です。チンタオの主役、旧市街は変わっていません。街をバスで走りました。ドイツ時代の建造物は健在です。中国人はものを大事にするのかしないのか・・微妙ですが、100年前の一般住宅に関しては建物をそのままの状態で現在も使用しています。もう少し手を入れてきれいにしたらどうでしょうと言いたいです。表はきれい。でも裏に廻るととても汚くて、その落差にびっくりします。
その例を中山路の交差点にある私の祖父が住んでいた住居の写真で紹介しましょう。散策中にちょっと抜けて祖父Viktor Walzerの家に行ってみました。      感動の家も3度目となると、その存在を冷静に確認しただけで満足。
しかし今回は、裏から家に入ろうと試みました。そこは荒れていて不潔。明かりもなし、表には通じていないよう。裏のわずかな敷地にバッラック小屋が建ち、そこから不法侵入かとでも言いたげな表情で一人の老人が出てきました。  そこに寝起きしているようです。少なからず一部の中国人は雑居することが普通のことのよう。家の表は2008年に見たのと同じ、子供向けの洋品店で、かわいくて、とてもおしゃれな店です。店の名前も変わっていませんでした。実際は不潔な住居と背中合わせなのですが・・。私たちはこの店で、Viktor Walzerの娘の時子さんのひ孫でWalzerの5代目あたる埼玉に住む真歩ちゃん(6歳)のために、ワンピースを買いました。
 
写真6<Viktor Walzerの住んでいた家>
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写真7<Viktor Walzerの家の裏>
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さて、皆さんと合流しまして、Bismark Kaserne → China Oceane University → Lunch in China Oceane University → Qingdao Brewery Museum (チンタオビール工場ミュージアム)と見学は進みました。やはりチンタオビール工場では盛り上がりました。その後、町の中に当時ドイツ兵の集まり場所になっていた倶楽部のある場所(昔のままで現存)に行き、そこでは、昔を偲んでShanty-コーラス隊が海の歌を元気に歌いました。昔のまま海の歌が聞こえて、きっと何かしら幻はいると思われ、うれしくて一緒に歌ったに違いありません。子孫の方の一人が、埃をかぶった当時のものと思われるピアノのふたを開け、静かにひき始めました。幻も聴き入っていると思います。
 
写真8<ピアノを弾く>
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5時になりました。当時のドイツを彷彿させるドイツ風レストランに行きました。夜ごはんです。中国人のウェイトレスさんのエプロンはドイツ国旗と同じ配色、100年前当時の写真が壁一面に貼られています。ドイツにもチンタオにも通じているMr.ジャンのおかげで、ドイツの香りいっぱいのレストランに案内していただき、みなさん、とても楽しそう。
 
3日目 11月6日
小魚山公園に上って行きました。山というほどのことはありません。しかしこの上からチンタオを見るかぎり、ドイツが再現されます。眺める周囲一面はドイツの屋根が並び、ここはチンタオで一番ドイツらしいところです。
旧市街の後ろには高層ビルが見え、その対比は歴史の1ページを見る思いがします。まるで絵のようです。しかし今年みる限りではバックの空がかすんでいて、高層ビルが雲間に消えてしまいそう。
小魚山を出て、ふたたび旧市街。当時の刑務所の見学をしました。ここもミュージアムよろしく当時のままに監獄や刑罰の道具、留置部屋などが残っています。あまり楽しくない館ではありました。
 
写真9<かすむドイツ旧市街>
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写真10<監獄博物館>
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そこを出てからバスは快調にチンタオの中心に位置する総督府に向かいました。総督府の階段に並んで約50人の記念写真を撮りました。
 
写真11<総督府で記念写真>
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総督府を出発。街の中にある元インターナショナルクラブでランチです。
食後には桟橋や海岸付近やストリート、Catholic church などの散策。その間、みなさんは、取材の総攻撃にえらい時間をとられ、やっとホテルに帰りました。
ホテルでは7時からChinese-German Eveningというイベントがありましてホテルの別の棟にある巨大なホールに移動、中国の海洋大学生が大勢参加しており、中独友好にちなんだお話があり、(多分!ドイツ語も中国語もわかりません。)折よくShanty コーラスグループの歌の披露があり、チンタオの女性の踊りなど文化交流が種々ありました。友好記念パーティーと呼べばいいでしょうか。
 
4日目 11月7日
私たちはここで東京に帰ります。多分みなさん、今日は山の上にある旧ドイツ総督邸(迎賓館)や砲台跡などに行くはずです。たった3日足らずでしたが、子孫の方々が同志のような気持ちで、私たちに暖かく接してくださったことが良くわかり大変うれしく思いました。次回の計画は近い将来に日本に行きたいという声が聞こえてきました。レポートにつけ加えてお伝えいたします。
 
 
追記:滞在中に、私の1/4ドイツ人と同じように1/4日本人のドイツ人男性に出会いました。
その方はPaul Schützさんといいます。ドイツにお住まいで高等学校の先生をしています。チンタオ旅行後に彼は日本に行くと言い、私たちと横浜での再会を約束していました。そして17日、彼と会いました。Paulさんは大の日本食好きで、私たちは彼を炉端焼き店に案内しました。そこで日本酒を飲みながら、彼は彼の祖父についていろいろな話をしてくれました。Paulさんの祖父はKARL BÜTTINGHAUS さんといい、習志野の俘虜でした。終戦後、彼は千葉習志野に残りソーセージ加工、他、海事を扱う仕事をはじめました。そして千葉小湊に住む滝口ゆりさんと結婚します。そこから出発したビュッティングハウス氏は、ソーセージ店を東京目黒に開き、成功したものの、関東大震災と思います、家、店すべて失くしてしまいます。その後ドイツに帰国。
 
写真12Paul氏
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下記は瀬戸先生が送ってくださった俘虜名簿からのKARL BÜTTINGHAUSさんの記事です。
 
321)  Büttinghaus(ビュッティングハウス),Karl(?-1944):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。[食肉加工職人]。1916年10月18日福岡から大分へ収容所換えになった。大戦終結後、千葉出身の日本女性と結婚した。1925年頃、目黒に東京で最初のソーセージ工場を作り店舗も構えたが、後に神戸に進出した。1944年暮れに死去。1945年の神戸空襲で店舗は焼失し、戦後再建には至らなかった。なお、1924年に横浜の本牧で精肉業を営んでいた矢島八郎は、上記目黒の工場に豚肉を納めていたが、やがてビュッティングハウスの指導を受けてハム・ソーセージ造りを手がけることになり、今日は三代目の矢島八郎が神奈川県茅ヶ崎市で、手造りハムの店「ハム工房ジロー」を営んでいる。ヴェストファーレンのバート・ザッセンドルフ(Bad Sassendorf)出身。(878:福岡→大分→習志野)
瀬戸先生の俘虜名簿より
 
習志野にて、1921年女の子生まれる。エミーと命名。今回お会いしたPaulさんのお母さんです。祖父のビュッティングハウスさんは習志野でソーセージ作りをした後、東京目黒にソーセージ工場を作りました。その頃、横浜の精肉店矢島八郎商店から精肉を取っていたことからビュッティングハウス氏の教えを受けた矢島氏はその時以来現在に至るまで、茅ヶ崎にてソーセージを作り続けています。
 
ハム工房ジロー
http://www.ham-jiro.jp/about.html
 
目黒の店は好調でしたが東京大震災に見舞われ、店を失くしてしまいます。彼の家族はそれを機に神戸に移動。店を作り、好調の最中、確か神戸大空襲にあったとお話されたと思います。現在は神戸には店はないそうです。
その後、ビュッティングハウス一家はドイツに帰国。Paulさんはドイツ生まれですが、1/4の日本人の血を感じる顔立ちです。横浜・神戸におじさんおばさんが現在も住んでおり横浜、神戸を時々訪れる大の日本ファン。
たくさんお話を聞いたのですが、実は聞き取れない箇所もあって間違ってはいけないので少し割愛しました。今後のメール交換に期待をかけて・・。
祖父のビュッティングハウス氏はドイツへ帰国後、第二次世界大戦時に、やはり海軍として戦争に参加。その後の日本の敗戦の色濃くなった折に、ヒトラーからの命を受けて、Uボートを日本へ送り届ける役目を担ったそうです。この話は、ヒトラーが戦いに勝機を得るためには日本の潜水艦をもっと強くしなければならいと考えて、日本へ(天皇に)Uボート2隻をプレゼントすることにしたのです。この2隻は無事に日本には着いたそうですが、日本ではUボートは作られませんでした。太平洋の島々で潜水艦は作られていたそで、ペナンは潜水艦の基地だった。ビュッティングハウスさんもペナンにもいたとPaulさんは話したと思われます。しかし俘虜名簿ではビュッティングハウスさんは1944年に死亡しており、私は語学にはまるで自信がないので、Paulさんはたくさん話をされましたので、実にあやふやになってきました。夫との共同作業でしたのに夫は専ら飲むことに専念して私はプレッシャーでつぶれそうでした。
Uボートの話は必死に聞きましたので間違っていないと思います。しかし記録では44年没のビュッティングハウスさんはその1年前にUボートを操縦していたことになります。もしかするとその後、戦死かも・・・それにしても第一次世界大戦のチンタオ戦から第二次大戦まで。年齢も気になります。
なんだか自信が・・・・?
 
今回集まった子孫の方々にもそれぞれのドラマがあります。人間の運命は不思議なものだとつくづく思いました。歴史を遡る日々を提供してくれたのがチンタオ歴史探索旅行でした。
    以上でございます。               篠田和絵