よみがえった「徳島エンゲル楽団」

―エンゲル・松江記念音楽祭15年間のあゆみ―

南川 慶二

 

丸亀俘虜収容所から板東俘虜収容所に移ったパウル・エンゲルは、丸亀保養楽団およびエンゲルオーケストラを指揮して、またバイオリニストとして、収容所内外で多数の演奏会を開いたほか、徳島の住民からの要望に応えて収容所外に出向いて音楽教室を開き、西洋音楽の演奏を指導した。その生徒たちは徳島初の西洋音楽演奏団体「徳島エンゲル楽団」を結成し、西洋音楽を紹介することで徳島の音楽文化発展に貢献した。徳島エンゲル楽団は俘虜の解放後も演奏活動を続けたが、指導者エンゲルが不在の状況で活動を維持するのは困難だったようで、昭和の初期には自然消滅したと伝えられている。第二次世界大戦下の19457月の徳島空襲で多くの資料が失われ、大正時代の日独友好を象徴する「奇跡の楽団」は時の流れとともに忘れられようとしていた。

俘虜たちが去ってから80年近くが過ぎた20世紀の終りに、徳島市で郷土史料の発掘や文化振興活動を行っていた佐藤義忠氏[1]の発案で、徳島エンゲル楽団の復活が構想された。関係者の尽力により、20001月に徳島市で再現演奏会「エンゲル記念コンサート」が実現した。その後紆余曲折を経て楽団の活動は続き、新しい企画を加えながら年に1回のペースで演奏会の開催を継続してきた。本稿では、よみがえった徳島エンゲル楽団のこれまでの演奏活動の概要を紹介する[2]

 

大正時代の徳島エンゲル楽団

はじめに、エンゲル音楽教室の生徒が結成した大正時代の徳島エンゲル楽団について簡単に述べる。林啓介著『板東ドイツ人捕虜物語』(海鳴社 1982)および同『第九の里ドイツ村』(井上書房 1993)によると、板東俘虜収容所でドイツ兵俘虜たちが音楽を演奏しているという新聞記事を見て興味を持った徳島市の洋装店主田處栄治氏(18951991)が友人の立木真一氏(18831957、立木写真館[3]二代目当主)らを誘って板東まで見物に行った。初めて見る西洋楽器の響きに触れた青年たちは自分たちも演奏してみたくなり、俘虜から指導を受けたいと松江所長に願い出た。その結果、許可を得てエンゲルが指導することになった。最初は霊山寺近くの遍路宿で教室が開かれたが、後に徳島市にエンゲルが出向いて指導することになり、公会堂や立木写真館などを会場に毎週熱心に練習が行われた。立木写真館でエンゲルを囲んで撮影された記念写真はよく知られている。

 

大正時代の徳島エンゲル楽団[4]1918年頃、立木写真館応接室)

 

徳島エンゲル楽団の復活

1999年頃、徳島市東富田公民館主事(当時)の佐藤義忠氏が徳島エンゲル楽団復活を構想し、手始めに有志を募って「東富田エンゲル合唱団」を結成した。その後音楽関係者に広く呼びかけて演奏者を募集し、徳島エンゲル楽団の再現を試みた。徳島県警察音楽隊嘱託・徳島文理大学非常勤講師(当時)の岡山茂幸氏が指揮者となり、趣旨に賛同した有志によって大正時代の徳島エンゲル楽団を超える人数の楽団が成立した。吹奏楽関係者が中心になった経緯から、管楽器に比べて弦楽器が少ない編成となり、演奏会を開くためには多くの編曲作業が必要となった[5]

最初の演奏会は大正時代の徳島エンゲル楽団が練習した場所の一つである千秋閣(旧徳島城表御殿)庭園で徳島城博物館[6]の主催事業として2000130()に「エンゲル記念コンサート」という名称で開催された。出演者は徳島エンゲル楽団と東富田エンゲル合唱団および徳島市周辺のいくつかの合唱団のメンバー、そして藍住町の人形劇団「ごんべ」であった。人形劇との共演により、エンゲルが立木青年たちと出会い、音楽教室を開いて西洋音楽の演奏を教える物語とともにベートーベンの交響曲第6番「田園」の抜粋と同第9番の終楽章から「歓喜の歌」が演奏された。真冬の屋外での演奏会のため、さまざまな苦労があったが、成功に終わり、その様子はテレビのニュースでも放映された。

 

記念コンサート初期の変遷

最初のエンゲル記念コンサートが終わった時点では、この演奏会が継続的に行われる予定はなく、集まった演奏者たちはそれぞれが本来所属していた団体での活動に戻った。その後、徳島城博物館の主催により演奏会が継続されることになり、20011125()に「第2回エンゲル記念コンサート」が開催された。この時には徳島エンゲル楽団は再結成されず、東富田エンゲル合唱団と一般の合唱団および声楽家や県内の学校の吹奏楽部などが出演する多彩なプログラムのコンサートであった。続いて20021117()にも同様の形で「第3回エンゲル記念コンサート」が行われた。この第3回コンサートに関連した企画として、1110日から当日までの1週間にわたって徳島城博物館ロビーで「立木写真館 119年の軌跡とパウル・エンゲル」と題した写真展が開催された。

上記の第1回から第3回までのエンゲル記念コンサートについては、徳島城博物館にプログラムやチラシなどの資料が保存されている。2003年には博物館の行事予定表に第4回エンゲル記念コンサートとして1117日開催予定と掲載されていたが、実際に開催された記録はない。2006年に再開されるまでは徳島城博物館の主催事業としては中断された。延期された演奏会は、エンゲル記念コンサート実行委員会の主催により翌2004314()に徳島県郷土文化会館の県民広場で開催されることになった。郷土文化会館は徳島市藍場町にあり、松江所長の住居跡[7]に隣接することから、記念演奏会の場所にふさわしいとして選ばれた。実行委員会の手作りで再開された演奏会は、この年から「エンゲル・松江記念市民コンサート」と称し、エンゲルとともに松江所長を顕彰することも明示するようになった。

この演奏会のために徳島エンゲル楽団の再結成が試みられたが、財政的基盤を持たない実行委員会の資金難に加え、最初の演奏会から3年以上が経過していることなどから、当初のメンバーがすべて集まることはできず、演奏者の確保にも難航した。窮状を取材した新聞記事が元になり、新たな展開があった。世界的に活躍するバイオリニスト奥村智洋氏[8]を後援する坂田隼通(会社役員)の支援により、奥村氏がコンサートマスターとしてボランティアで友情出演することになった。奥村氏の協力を得て無事に開催されたこの演奏会では、大正時代の徳島エンゲル楽団がエンゲルに指導を受けて演奏した「荒城の月」「美しき天然」「ドナウ川のさざなみ」の3曲と、徳島の民謡「祖谷甚句」、そしてドイツ兵俘虜がたびたび演奏し、徳島エンゲル楽団も演奏したと伝えられる「美しく青きドナウ」、奥村氏の独奏を挟み、最後にベートーベンの第九から「歓喜の歌」というプログラムであった。合唱には、徳島男声合唱団「響」のメンバーなども参加した。プログラムの合間には、阿波踊りのおはやし「阿波よしこの」の名手として知られたお鯉さん(多田小餘綾、19072008)のインタビュー録音が流され、幼少の頃に徳島俘虜収容所の近くに住む祖母の家を訪れた時に収容所から聞こえてくる西洋音楽を耳にして驚いたという談話が披露された。演奏会終了後には郷土文化会館小ホールで奥村氏のソロリサイタルも開催された。奥村氏はその後2009年、2012年、2013年に客演し、徳島エンゲル楽団の演奏活動にさまざまな形で貢献した[9]。一流のソリストとの共演が何度も実現したことは楽団の活動において特筆すべきことである。

常設の楽団としてではなく、エンゲル・松江両氏を顕彰する目的で有志が集まって演奏する運営方法は、当初から演奏者の確保の点で困難を伴っていたが、多忙なメンバーが大半を占めていたことが主な理由で運営に関する意思決定が困難であったため、大きく変化することなく長期間継続されることになった。翌2005年は奥村氏の参加は得られなかったが、同様の楽団・合唱団の編成で312()に同じく徳島県郷土文化会館の県民広場で開催された。3月には珍しく雪が舞う寒い日の野外コンサートであった。

 

ふたたび徳島城表御殿へ

20053月の演奏会の後、同年121日から20073月末まで徳島県郷土文化会館は耐震改修工事のため全館休館となった。このため、2006年の演奏会場は、第3回までと同じ旧徳島城表御殿庭園に戻ることになった。2006321(火・祝)、前年までの2回の演奏会の曲目や演奏形式を引継いで会場を旧徳島城表御殿庭園に移して「エンゲル・松江記念コンサート」が開催された。この時から、演奏会の最初には高橋敏夫作詞、新川清作曲「友愛の花」が演奏されるようになった。作詞者の高橋敏夫氏は、「愛の墓守」として知られる高橋春枝さんのご子息で、第二次世界大戦後に引揚者住宅に転用された板東俘虜収容所に住んでいた頃から両親がドイツ兵慰霊碑の清掃や献花を続けたのをともに体験し、今も慰霊碑を見守り続けている[10]。母春枝さんのささやかな友愛の心から始まり後に大きく花開いた徳島とドイツとの友好の歴史をコスモスの花で表現したこの歌は、エンゲルをはじめとするドイツ兵俘虜たちと徳島の青年たちとの交流を記念する演奏会の幕開けにふさわしく、演奏者にも聴衆にも毎回好評を得ている。

回を重ねるごとに演奏や合唱への参加者は交代しながらも少しずつ増え、演奏活動も徐々に知られるようになった。20068月には、鳴門市ドイツ館で開催されたイベントへの出演依頼があり、自主企画以外での初めての演奏機会を得た。このイベントは、「あれから61年 第12回ピースコンサートin鳴門」と題されたもので、終戦記念日に近い日程で毎年開催される平和を記念するコンサートであり、さまざまな団体が出演している。このコンサートでは徳島エンゲル楽団・合唱団は、小森香子作詞、大西ススム作曲「青い空は」などを演奏した。ドイツ兵俘虜との直接的な関係はないが、戦時下に俘虜との友好的な交流を行った大正時代の人々に思いを馳せ、世界の平和を願うコンサートへの出演は、再現された徳島エンゲル楽団の趣旨にふさわしい活動であった。

国民文化祭(おどる国文祭2007)参加と大ホールへの移行

2007年、国民文化祭が初めて徳島県で開催され、さまざまな文化の催しが企画された。県が設定した4つのモチーフ「阿波藍」「阿波人形浄瑠璃」「阿波踊り」「ベートーベンの第九」に示されるように、第九を中心とするクラシック音楽がテーマの一つとなり、オーケストラの祭典や合唱の祭典など、数多くの演奏会が実施された。徳島エンゲル楽団もこの国文祭の募集事業に応募し、「もっとみんなで参加事業」の一つに採択され、113日(土・祝)に徳島ホールで「エンゲル・松江記念市民音楽祭」として演奏会を開催した。それまでの演奏曲目に加え、モーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」から序曲とアリア「もう飛ぶまいぞこの蝶々」、ビゼーの歌劇「カルメン」から「闘牛士の歌」を加え、国民文化祭の趣旨に沿ってクラシック名曲を充実させたプログラムになった。フィガロのアリアではドイツ兵たちの歌を再現する意図でドイツ語の歌詞を使用した。これらの曲を演奏するにあたり、男声合唱団「響」および女声合唱団「フラウリッヒ・ヴォカール」の賛助出演を得た。国文祭の宣伝効果もあって多数の聴衆が訪れ、好評を得た。

国文祭でホールでの演奏会を成功させたこともあり、2009320日(金・祝)から、耐震工事が完了した徳島県郷土文化会館(あわぎんホール)の大ホールに会場を移し、「エンゲル・松江記念市民音楽祭」として、2013年まで定期的に演奏会を開催した。

 

 

奥村智洋氏を迎えて開催した10周年記念演奏会(20093月、あわぎんホール)

この2009年の演奏会では、再び奥村智洋氏がコンサートマスターとして客演し、10年間に少しずつ積み上げてきたドイツ兵俘虜との交流を記念する曲目を、設備の整った大ホールで披露する機会を得た。また、徳島俘虜収容所で早くからオーケストラを編成して徳島市民に演奏を聴かせたヘルマン・ハンゼン(後に板東俘虜収容所でベートーベンの第九日本初演を指揮)をエンゲル・松江所長とともに顕彰の対象として、パンフレットにも歴史的意義や再現演奏の趣旨などを記載して来場者に配布した。国文祭イベントと同様に、男声合唱団「響」と女声合唱団「フラウリッヒ・ヴォカール」のメンバーが賛助出演で合唱に加わり、充実した合唱を伴う演奏が好評を博した。

この時期には毎年12曲の新しい曲を演目に加え、プログラムが拡大していった。新しい曲は、『トクシマ・アンツァイガー』(徳島新報)に掲載されているハンゼンとトクシマオーケストラの演奏曲を参考に選択した。ワーグナーの歌劇「ローエングリン」から「婚礼の合唱」、シューベルトの歌曲「菩提樹」の合唱編曲などである。これらの歌をドイツ語で歌うために、エンゲル合唱団の練習も徐々に拡充させるとともに、フラウリッヒ・ヴォカールや阿南第九の会などの合唱団メンバーとの(個人的な)連携を深め、合唱の充実に努めた。2010211(木・祝)には、婚礼の合唱や菩提樹とともに、徳島市出身の作曲家である南能衛18811952)の功績を讃えるために、代表作「村祭」をプログラムに取り入れた。このような新しい取り組みのほか、あわぎんホールでの演奏会のプログラムでは、前半に子供たちの邦楽演奏を取り入れた2部構成とした。これは、ハンゼンやエンゲルが徳島の人々と共演した「和洋大音楽会」を再現するとともに、子供たちに参加してもらうことで大正時代の友好の歴史を次世代に継承する意図も込められている。

 

インターネットによる広報と阿波大正浪漫バルトの庭との連携

あわぎんホールに会場を移したことで、来場者から好評を得るとともに、広い会場に空席が目立つことから、広報の不足を感じるようになった。そこで、20111月から筆者がインターネットに「徳島エンゲル楽団のブログ」[11]と携帯サイトの暫定版ホームページ、翌年には新たな「徳島エンゲル楽団のホームページ」[12]を設け、演奏会の情報や団員募集、演奏曲目の簡単な解説などのさまざまな情報の発信を開始した。これらのサイトを活用して広報に努めた結果、最初の成果として、ブログを通して映画「バルトの楽園」ロケセットを保存・展示する阿波大正浪漫バルトの庭[13]との交流が始まった。

2011327()には、あわぎんホールで「日独交流150年記念」と称して、エンゲル・松江記念市民音楽祭を開催した。プログラムには、ハンゼンとトクシマオーケストラが徳島俘虜収容所で演奏したとの記録があるハイドンの交響曲第6(94)[14]「驚愕」の第2楽章を新たに加えた。来場者は200名程度で、800名収容の大ホールでは空席が目立ったものの、アンケートでは大変好評を得ることができた。また、この直前に発生した東日本大震災のための募金を行い、わずかながら日本赤十字社を通し被災地に義援金を送ることができた。

インターネットのブログでの情報交換に端を発し、同年417()にはバルトの庭一周年記念式典に招かれて演奏会を行った。林啓介氏による大正時代の徳島エンゲル楽団についての解説の後、歓喜の歌や友愛の花、美しく青きドナウなどのレパートリーを演奏した。その後、バルトの庭では同年1023()および2013420()に公開練習と演奏会を開催している。

 

バルトの庭一周年記念イベント演奏会(20114月、阿波大正浪漫バルトの庭)

2度目の国民文化祭

2012519日(土)、同一県初の2度目の開催となる国民文化祭のプレイベントとして、奥村智洋氏をコンサートマスターに迎えて「エンゲル・松江記念市民音楽祭」をあわぎんホールで開催した。毎年演奏曲を追加した結果、この年には2時間を超える演奏会に発展し、最大の曲数を数える充実したプログラムとなった。これまでに述べた曲目の補足説明も兼ねて、以下に曲名と作詞・作曲者・年代などを示す。なお、この年は来場者数も過去最高の550名を数え、大盛況となった。

 

13回エンゲル・松江記念市民音楽祭プログラム

(第27回国民文化祭・とくしま2012プレイベント)

1. 友愛の花(高橋敏夫作詞・新川清作曲

2. 美しき天然(武島羽衣作詞・田中穂積作曲1905(明治38)

3. 異国の丘(増田幸治作詞・佐伯孝夫補作詞・吉田正作曲

4. 荒城の月(土井晩翠作詞・瀧廉太郎作曲1901(明治34)

5. ドナウ川のさざなみ(堀内敬三作詞・ イヴァノヴッチ作曲

6. おぼろ月夜(高野辰之作詞・岡野貞一作曲)1914(大正3)

7. ゴンドラの唄(吉井勇作詞・中山晋平作曲1915(大正4)

8. Auf der Lüneburger Heide (歓喜の行進曲) 1912年(リューネブルク)

特別出演・奥村智洋 バイオリン独奏 

 村祭(南能衛作曲)1912(明治45)

 無伴奏バイオリンソナタ第1番よりアダージョとフーガ(バッハ)

9. 歌劇「ローエングリン」より「婚礼の合唱」(ワーグナー)

10. 歌劇「カルメン」より「闘牛士の歌」(ビゼー)

11. 歌劇「フィガロの結婚」より序曲、アリア「もう飛ぶまいぞこの蝶々」(モーツァルト)

12. 美しく青きドナウ(ヨハン・シュトラウスII

13. 歌劇「椿姫」より「乾杯の歌」(ベルディ)

14. 交響曲第九番より「歓喜の歌」(ベートーベン)

15. ラデツキー行進曲
(ヨハン・シュトラウスI

指揮:岡山茂幸

演奏:徳島エンゲル楽団・合唱団ほか

特別出演:奥村智洋 (Vn)

 

徳島で日本初演されたバイオリン協奏曲の再演

大成功に終わった2012年の演奏会の後、奥村智洋氏との懇談の機会に、徳島市で日本初演されたベートーベンのバイオリン協奏曲[15]の演奏について打診し、快諾を得た。そこで、早速翌年のメインの曲目として検討を開始した。ベートーベンのバイオリン協奏曲を演奏するためには、独奏者のほかにオーケストラも大きな編成が必要であるため、徳島大学交響楽団に共演を依頼した。また、合唱付きの曲も大編成のオーケストラに合わせるために増員が必要となり、徳島大学リーダークライスにも出演を依頼した。学生団体が参加することによって、本格的なオーケストラと合唱の演奏会が実現したことに加え、10年以上にわたる活動を一部ではあるが若い世代に引継ぐことができたのは意義のあることである。2013623日(日)に「エンゲル・松江記念市民音楽祭」としてあわぎんホールで開催した演奏会には、交響楽団と合唱団を合わせて約100名が出演し、530名の聴衆から大好評を得た。

 

俘虜来日100周年と楽団15周年目の原点回帰

2014年はドイツ兵俘虜たちが徳島俘虜収容所に収容されてから100周年である。この記念の年の企画は、大規模化から一転し、本来の徳島エンゲル楽団・合唱団での演奏会に戻ることにした。2014427日(日)、7年ぶりに徳島城博物館との共催で旧徳島城表御殿庭園での演奏会を開催した。新曲として、エンゲルが独奏して何度も演奏会で採り上げたサラサーテ作曲「ツィゴイネルワイゼン」を選んだ。独奏は団員の今津崇晴氏が務めた。和洋大音楽会の再現企画として、従来からの子供邦楽演奏に加え、徳島邦楽集団会長の英崇夫氏にボランティア出演の快諾を得て、尺八独奏による中尾都山作曲「木枯」が演奏された。風の影響など、野外演奏につきもののハプニングが続出したが、大正時代のドイツ兵俘虜や立木青年たちが演奏したであろう美しい庭園での春風を受けながらの演奏会は、手作りで続いてきた演奏会の原点に立ち返ったようで、感慨深いものであった。

過去15年間にわたる活動は、ほぼすべてが佐藤義忠氏個人の尽力によるもので、今後も継続的に実施するためには新たな取り組みが必要かもしれない。これまでの佐藤氏の多大な努力に感謝するとともに、本稿に記した意義ある活動の記録が次世代への継承のための一助となることを願っている。

 

 



[1] 元徳島市立富田中学校長、当時東富田公民館主事、後に館長。

[2] 筆者は2006年から同楽団に参加したため、2005年までの経緯は佐藤代表ほか関係者への聞き取り調査とプログラム等の資料に基づいて記述する。

[3] 連続テレビ小説『なっちゃんの写真館』(1980)のモデルとして知られる徳島最初の写真館。このドラマにもエンゲル音楽教室のエピソードが登場した。当時は地域の文化サロン的な役割も果たしていた。

[4] この写真に写っている人物については『チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会メール会報』(http://homepage3.nifty.com/akagaki/) 05040506号、0515号、0581号で紹介されている。

[5] この時の楽器編成は、コンサートのパンフレットに配置図とともに掲載され、大正時代の徳島エンゲル楽団も同様な工夫をしたことが解説されている。

[6] 徳島中央公園内の旧徳島城表御殿庭園に隣接した御殿跡にある博物館。徳島藩主蜂須賀家に関係した美術工芸品をはじめ、徳島の歴史に関する資料を収蔵・展示している。

[7] 「武士の情け 日独親善生みの親」と書かれた記念碑が2005年に設置されている。

[8] 53回日本音楽コンクール第1位・増沢賞。カール・フレッシュ国際ヴァイオリン・コンクール入賞。ナウムバーグ国際ヴァイオリン・コンクール優勝。ジュリアード音楽院でドロシー・ディレイに師事。日本、米国、欧州など各地で演奏活動を行う。

[9] 奥村氏との共演については続編で詳述する予定である。

[10] 鳴門市ドイツ館館報『ルーエ』第7(200310)に、同館で開催された高橋春枝さんの回顧展の報告と敏夫氏の回想記が掲載されている。

[11] http://ameblo.jp/engel-tokushima/

[12] http://engeltokushima.jimdo.com/

[13] 2006年に公開された映画「バルトの楽園」と、その題材となった板東俘虜収容所をテーマとするテーマパーク。ロケで使用されたセットを中心に、実際の収容所建造物も交えて、収容所や映画撮影時の模様を紹介している。

[14] 『トクシマ・アンツァイガー』発行当時は第6番と呼ばれていたが、現在は第94番に改められている。第2楽章は静かな曲の途中で急に大きな音がすることから「驚愕」あるいは「びっくりシンフォニー」などと呼ばれて親しまれている。

[15] バイオリン協奏曲の王者とも呼ばれるベートーベンの傑作。1916年に徳島俘虜収容所でハンゼンが日本初演した。エンゲルも丸亀および板東で同曲を演奏している。