『バラッケ』の「漫筆」あれこれ(その2)
田村 一郎
二.「漫筆」の内容
2.第2巻(第1号:1918年3月31日〜第27号:1918年9月29日)
第1巻と同じく、第2巻の「漫筆」を「収容所所漫筆」と「その他の漫筆」に分けて紹介する。
1)「収容所漫筆」
前号で詳しく説明したように、第1巻では「収容所漫筆」はたった1回しか掲載されなかった。執筆者はヴァルター・フォン・ホルシュタイン二等海兵だったが、第2巻の「第2回」から第4巻の「第25回」までの24回はパウル・ケーニッヒ二等海兵が担当することになる。
第1巻第6号(1917年11月4日)に「第1回」が掲載されてから、実に7ヵ月12日も経ってようやく第2巻第12号に「第2回」が載った。これも前に述べたとおり理由ははっきりしない。なかなか編集者の間での意見がまとまらなかったのか、ひょっとしたら管理者当局との調整に手間取ったのかもしれない。ともかく紹介していこう。
・「第2回」(第12号:1918年6月16日。翻訳 233〜236ページ)
満を持しての登場ということで期待したが、この時期は所内が平穏だったせいかひどく淡々とした記述である。まずいつもと違って6月というのにあまり暑くならず、早々と冬服を片付けた連中はとまどったそうである。雨も多かったので作物などの水やりが不要になり、その分土木工事や花壇・庭造りが進んだ。
他方さまざまな禁令が増えたのは、昨年のデッカーらの見回り日本兵殴打事件のあおりもあったのだろう。ただしその内容は訪問者への印刷物の配布、鶏の放し飼い、兵舎の窓や入り口からの水捨てなど日常的な注意事項が多い。
テニスコートが3面新設されたりスポーツは盛んで、シュラークバル・体操なども広まってきた。前回もふれたが、シュラークバルとはクリケットとソフトボールの合いの子のようなドイツ独自の野球で、1チームは12人でピッチャーはおらず、バッターがノックのように自分でボールを投げ上げて打ち、ベースの代わりに立てられた3本のポールを回って本塁に帰ると1点が入る。タッチだけでなく、ランナーにボールをぶつけてもアウトになるのがミソである1)。体操は6月初めに訪れた60人もの日本人教員の前で模範演技が行われ、後には学校に出かけて指導するようになった。
この時期のハイライトは6月1日の日本でのベートーヴェン『第九』の初演だが、反響などの記述は一切なく演奏されたことが紹介されているだけである。5月末に青島の地方長官だったギュンターが到着し、高台に立派な住宅が建てられた。もちろんやっかみの声もあったろうが、気持よく過ごしてくれるようにとあっさり記している。
また5月末には最後の薪の伐採が終わり、その所内への運搬が行われる。「最後の」とあるが実はこれは第2回目の最後ということである。1917年頃から戦争のため食料品が高騰し、捕虜の食事も目に見えて悪化した。食費値上げの嘆願書に対して、松江所長は自発的な改善策として、炊事と製パンに不可欠な薪を近くの山から切り出してはとの提案をした。これにはクリーマント曹長をはじめ賛同者が多く、「木こり団」が結成された。1918年2月から第1回が始まったが、そこを切り終わると隣の山も伐採に入り、2回目が終わったのが5月末である。切り出した木は鋸で20pほどに切って細かく割られ、写真が残っているとおりたくさんのドイツ兵が参加して手渡しで集積所に運ばれた。この作業はさらに第3回が1919年2月からも行われており、食費の改善などに資することになる。その経過は『バラッケ』第3巻18号(1919年2月2日)の「木こり団創設1周年によせて」(翻訳第3巻268〜270ページ)にまとめられている。副官の高木大尉の提案らしいが薪の運搬の際に、元気づけの意味もあってか楽団が行進曲などを演奏して活を入れたという。連帯意識を盛り上げる意味でも大事な作業だったのだろう。
所内の改築などから見ると、一般的な収容所関係の予算はそう窮屈ではなかったようで、兵士の士気も高く西部戦線での攻勢の高まりや、スカゲラックの戦勝記念日2)を祝ったりもしている。精神面では読書熱は盛んだが、学習会が早々に夏休みに入り始めたという。講演会も後退ぎみとあるが、6月には17回も開かれている。もっとも7月には10回、8月は7回と減りぎみだが。
・「第3回」(13号:1918年6月23日。翻訳 247〜249ページ)
前号に続いて、次の13号にも「収容所漫筆」が載っている。他の新聞からの抜粋などを張り出す『日刊電報通信』が、明日朝4時から6時に「皆既日食」があると伝えた。早起きした人も多かったのだろうが、天候が悪く見られなかったらしい。ことのついでに廊下の電灯が少なく、物がいっぱい積まれていてけが人も出ていることがふれられている。道路もぬかるんだりしていると、やや八つ当たり的な不満を述べている。
正門前の牛舎やミツバチの巣箱はひどく増えたようで、日本人の商人とのお金のやり取りも増えたからだろう「所内紙幣」が話題になっている。デザインの懸賞募集も行われらしいが、鷲を使ったもの以外は評判が悪かったようだ。先週所内に初めて3階建ての建物ができたらしい。東別荘地区の奥の高台にある展望台のことだろうか。世界がよく見えると大げさなことを言っているが、それだけ外への関心が強かったということだろう。
・「第4回」(15号:1918年7月7日。翻訳 279~283ページ)
一号おいて15号から18号まで、4号続けて「収容所漫筆」が載っている。この号の中心は板東地区と西地区での市長選挙である。この件については説明が必要だろう。すでに徳島収容所にも少しはあったようだが、板東では個人用の、「別荘」は大げさにしても小屋を建てることが許されていた。場所は、東地区は下の南池から上の北池の右側の展望台のある小高い台地、西地区は南池の左側と北側にあった将校棟の上の丘である。有権者の数からすると、東地区に67軒、西地区に43軒の合わせて110軒あったことになる。この号の翌年4月に、ヤコービ(Jakoby)一等海兵が精密な625分の1の「要図」を残してくれたが、ここに「私営の家・小屋」として書き込まれている。「市長」も大げさだが、収容所の左下隅に80軒ほどあった「タアパオタオ」という商店街にも市長がおかれていた。こちらは管理者の指名だったようだが、自主性と責任分担を重視してだろうが、当局は別荘地区に関してはそれぞれ市長選を行うよう指示してきた。
選挙といっても関係するのは約1,000人の収容者の1割くらいだが、初めての催しということもあってだろう、結構盛り上がったらしく演説会が行われたりビールなどによる買収もあったようで、印刷されたポスターも残っている。西地区の方は穏やかに済んだようだが、東地区は決選投票にまで進み騒ぎだったようだ。
この間文化面ではシェクスピアの『じゃじゃ馬馴らし』が上演されたりしたが、音楽の方はうるさがる人も多く、練習場に使われた風呂場も希望が重なり、日に1時間半しか使えなかった。そうした中で個々にひっそり練習したり、徳島オーケストラは門外の小屋を使ったりしたが、ことのついでに境界を越える人も増えたらしく、所長は1ヶ月の活動停止を命じている。
学習会はかなり専門的なものも多く、帰国後就職に活かした人も出ている。講演は長期に続いた『中国の夕べ』とドイツをさまざまな面からとらえ直した『郷土研究』は、青島の独中大学で教鞭をふるっていたゾルガー大尉の独演だった。そのほかボーナー二等海兵の『ドイツの歴史と芸術』やそれぞれの戦争や戦闘についての知識や体験を語ったものなど専門性の高い多彩な講演は、たくさんの人に学ぶことの楽しさを植え付けた。
その他の事項としては、祖国の勤め先からの送金への不満や、青島に残った仲間の動向、募集された「連隊書記」に収容者ほとんどの922名もの応募があったこと、危険を伴うドイツ式ホッケーの「トライプバル」クラブが危険補償を打ち出したなどの情報が加えられている。
なおこの号からこの欄の初めに、歩哨用か個人用かはっきりしない小屋の横に大きな木があってその根元にドイツ兵らしい人がのんびり坐っていて、その脇にドイツ語で「収容所漫筆(Lagerplauderei)」書かれた挿絵が載せられるようになる。1918年1月1日からゴルトシュミット(Goldschmidt)副曹長に代って『バラッケ』の編集スタッフに加わった、グスタフ・メラー(Gustav Möller)副曹長が書いたものだろう。冨田弘は『板東俘虜収容所―日独戦争と在日ドイツ俘虜』3)に次のように記している。「(第2巻の―田村)第25号の『バラッケ』は表紙の上方に三色の花環をかかげ、幔幕をめぐらせた会場の霊山寺を多色刷りにしている。全頁を展覧会の記録にあて、GとMを重ねたサインを入れた線画一三点をちりばめている。このサインは『バラッケ』の挿絵の随所に見られるが、展覧会の漫画の部門の出品者であるグスタフ・メラー副曹長と特定できる」(192ページ)。
この文章は1918年3月8日から19日に、収容所近くの四国八十八か所の一番札所霊山寺を中心に行われた「美術工芸展覧会」の美術を紹介した箇所である。メラー副曹長は『バラッケ』第1巻の刊行当初から各号の開始を告げる巻頭の挿絵を書いている。第7号(1917年11月11日)の表紙絵にGとMを重ねたサインを用いるようになり、第14号(1918年1月1日)からは正式に編集員として表紙絵も担当することになる。第23号の「バラッケの窓際で」からは「漫筆」などにユーモラスな挿絵を入れるようになり、『バラッケ』の評価を高めた。その腕は25号の展覧会の紹介でさらに活かされ、ドイツ兵ばかりでなく日本の大人や子どもの様子なども伝えている。第2巻でも第1号の「犬になる仔犬」、第25号の「ホッケー競技」の紹介など楽しい誌面作りに貢献している。ただし先にふれたとおり、第22号の「ヤーン祭り」の体操の挿絵はムッテルゼーのものである。
・「第5回」(第16号:1918年7月14日。翻訳 302〜305ページ)
この号では、所内のさまざまな不満とそれへの対応が書き連ねられている。いきなり、「いつでも思いっきり怒鳴ることだ。そうすれば何とかなる」という勇ましい言葉が掲げられる。これはまともなドイツ人の行動原理だそうで、もちろん捕虜に関しても同様というわけである。まず滞っていたドイツからの郵便への不満が爆発する。その効果だろう、まもなく西部戦線の戦況の前進が載っている新聞がどっさり届き所内が明るくなった。中国に家族を残してきた人もいるようだが、青島などへの印刷物の発送も停滞し、ロシア行は完全にストップしている。そのためここで印刷されている自慢のプログラムなども売れなくなり、関係者も弱っているそうだ。
新しい建築や改築も止まってしまい、今は噂されている90名とも200名ともいう久留米からの仲間の移送が期待の的である。運送会社の馬小屋も新設されず、元からの牛小屋の隅に押し込まれた。
撫養からのジャガイモ運びは重労働だが、帰路の楽しみの水浴びも中止になり辛いだけになった。4)
シュラークバルはさらに盛んになり、審判にも権威が認められるようになってきた。テニスコートは近く4面増え、周囲に置く安楽椅子も揃ってきた。パンやお菓子作りを担当している「ゲーバ」では、飼われているミツバチがお菓子を襲うようになり困っているそうだ。飼い主はきちんと餌をやっているというのだが。
・「第6回」(第18号:1918年7月28日。翻訳 336〜339ペ−ジ)
7月14日に、4面の新しいテニスコートの完成式が行われた。テニスは約1割の人が参加していて人気があった。前にふれたが、禁止されていた乙瀬川での水浴は7月22日に再開された。飲水をおいしくしようとフィルターも使われるようになり、レモンも活用されたようである。便乗してアルコール入りの飲料水まで売り出されたらしい。
水は近くの板東川から引かれていたが、その竹の水道管の管理や下水路の世話と清掃も大変で、雇われた人が責任を持って維持していたらしい。増える一方のごみも、豚小屋の近くに投棄場を移すなど工夫がなされている。
さまざまな支払いも所内紙幣に代り、犬にも鑑札が支給されることになった。ちなみにたくさんの犬が飼われていて、なかには朝夕の点呼に参加するものまでいるそうである。猫は数匹しかいなかったようで、「第9回」の450ページに到底ねずみ退治には役立たないと出てくる。印刷所では所内案内書の企画もあり、最近は日本に詳しいマイスナー二等海兵の『日本地理』が人気とのことである。
・「第7回」(第20号:1918年8月11日。翻訳 369〜374ページ)
何度も噂になりながら、延び延びになっていた久留米からの移送が本決まりになった。板東ではその受け入れ準備一色になり、2週間前からあちこちの修理やペンキ塗りなどがなされた。たくさんの人が多様な能力を持っていることに、あらためて驚かされる。ことのついでに、あちこちに一人当たり95cm幅の仕切り壁が作られた。
久留米は市内の狭い場所に熊本や福岡の収容者まで集めたため、一時は1,300名を越えかなり窮屈でドイツ兵の不満も絶えなかった。その上二・二六事件の黒幕といわれる真崎甚三郎など山気の多い人が所長だった時期もあり、ドイツ兵を殴りつけるなどのトラブルも起こった。そのため、一部の名古屋や板東への移動が行われた。板東へは1918年8月7日に、将校6名・下士官13名・兵卒71名の90名が到着した。船で小松島に着き徳島から舟と汽車を乗り継いで池谷まで来たが、駅頭での行進曲での出迎えは許されなかったらしい。その代わり、収容所では「ゲーバ」のパンと冷えたイオン水が配られ暖かく迎えられた。「久留米から板東へ転属の戦友の到着を機に」と題された、板東の設備や所内活動などを紹介した心のこもった「収容所案内書」も配られた。これはわれわれにとっても、板東収容所の生活の実態を知れる貴重な資料である。
筆者のケーニッヒは、そうしたこの日の様子を6ページにもわたって紹介している。冗談めかして、「久留米からゴキブリまで連れてきていなければ良いが」とも書いているが、「漫筆」の「久留米から板東へ」(翻訳443〜)では、久留米から来た南京虫の嘆きが綴られている。また今回の372ページに「丸亀式あいさつ」という言葉が出てくるが、これは青島から近くの港に着いたドイツ兵を、丸亀の人々は青葉と花で飾った歓迎アーチを建てて出迎えたが、その上の方にドイツ語で「心からの友情と思いやりを込めて歓迎します!(”Freundlichst mitleidsvoll empfangen!“)」と書かれてあったことになぞらえたものである。感動的なのでドイツ語を添えておく。
一時は「久留米から何かいいものが出るなんて」などという言葉が流行ったこともあるようだが、「第9回」で紹介するとおり、所内の郵便制度が久留米の経験を活かして作られたことですっきり変わったらしい。当初の歓迎どおり、戦友の受け入れはしだいに定着していったようである。
・「第8回」(第21号:1918年8月18日。翻訳 411〜413ページ)
ドイツ兵の健全さを地域の人々にも示し好評だったのは、集団体操と競歩大会、それに櫛木海岸での水泳大会だった。8月11日に、ドイツ体操の父の誕生を祝う「ヤーン祭り」が開かれた。体操競技の様子と板東でのスターたちは、403〜410ページに久留米から来たムッテルゼー(Muttelsee)二等海兵の挿絵入りで、体操仲間のフレーゼ(Freese)伍長が詩で紹介している。老ヤーンが天国から世界を見渡していて、板東の「祭り」に気づき感動するという設定は巧みである。「老年組」の年を越えた健闘も人気を呼んだ。
ほかのスポーツも相変わらず盛んだが、物価の値上がりは深刻で、自分の前で肉やソーセージが売り切れた人がトラブルを起こさないか心配なほどだったという。
・「第9回」(第24号:1918年9月8日。翻訳 447〜451ページ)
この記事は、「始まったのだ。収容所の郵便局が」という言葉で書き出される。板東でも本当に役立つ制度が布かれることになったのだ。まず電報が打てる。為替を送ることもできる。至急便も出せる。反面大事なだけに、こうしたことの書き方には十分な配慮が必要なことが判った。というのも前号以後に2つの大事件が起きたからだ。一つは木こりの一人が、自分たちをおしゃべりのネタにしたと怒鳴り込んできた。自分たちは薪の切り出しを仲間だけでしているのではなく、ふだんも40人ほどが協力し、昨日は79人も来ていたというのだ。調査不足だった。もう一つはたくさん並んだにしても肉が大量に売られているという記事からだろう、ほとんど肉の入っていないスープを食わされていると分置所のユダヤ人など5)が、食堂にこん棒を持って乗り込んできたのだ。信仰による肉の違いなどもあるのだろうが、こちらのスープも同様だったので大混乱にはならなかったが、気を付けなければならない。
郵便局に戻ると、先に述べたとおりこの制度はすでに久留米で作られていたらしい。それに学んだということで、不遜な「久留米から何かいいものが出るなんて」などという言い方は影を潜めるようになった。なるほど聞いてみると、板東と久留米にはいろいろプラス・マイナスがあった。例えば彼らはスポーツや文化系の活動に役立ったばかりでなく、業務面でも卵の扱いやミルク製造・製靴技術・安全剃刀の刃の輸入・盗難・災害などの保険や歯科技術等に習熟していた。また洪水や停電に会うこともなかったらしい。反面健康保険組合や薬局を中心とした衛生管理は板東がはるかに進んでいた。床屋の道具の消毒や皮膚病対策も十分で、南京虫退治などもまめに行われていた。他方久留米では買い取りのネズミ退治が奨励されていたらしい。
気候にも違いがあり板東では台風が多く、水が出たり歩哨小屋が飛んで来て花壇を打ち壊したりし、その都度停電に見舞われた。冬にサッカーなどをしようと思うと、ぬかるみを埋めるなど大変である。久留米ではこうした心配はなかったようだ。互いの地域事情を知るようになるにつれ、詰まらない偏見やいさかいは無くなっていったようである。
・「第10回」(第25号:1918年9月15日。翻訳 466〜469ページ)
やっと第2巻の「収容所漫筆」も最終回になったが、記述もややけだるさが目立つ。9月というとまだまだ残暑が厳しいのがふつうだが、今年はもう朝晩が涼しい。朝風呂や乙瀬川に入る人も少なくなった。もう秋だというのに今になって夏服が支給され、パジャマが囚人服みたいなのも気がめいる。日本に来て5回目のクリスマスも遠くないことが、クリスマスカードの展示会で知らされた。ドイツでもアメリカでもわれわれのカードは評判のようで、みんなそれを石版画だと思っているらしい。日本製のガリ版を使った多色刷りと知ったらさぞ驚いたことだろう。それほどわれわれの印刷所は秀れているのだ。入賞を逸したハガキにも面白いものがあったが、「太っちょベルタ6)」という大きな大砲でプレゼントを有刺鉄線越しに送りつけるというのは当てこすりがすぎよう。
3月にロシアとの講和条約が結ばれたといっても、西部戦線の戦いは終るはずもなく、クリスマスを家で過ごすなどというのは夢のまた夢である。みんなもまだ2,3年の捕虜生活は覚悟している。その証拠にまだ楽器を覚えようとしたり、新しいスポーツに取り組んだり、自分の小屋を飾り立てようとあがいている人もいる。公的にも新しいパン焼き竈が作られたり、タアパオタオの店が増え、スポーツ協会は保証書付の新しい馬を買ったりしている。
誰もが役目を与えられれば引き受けようとしている。もし日本人の大尉が止めたら、自分が後任になって働いてもいいと思っている大尉さえいるようだ。身体を鍛えようと、晩中競技場の階段を昇り降りしている人もいる。もちろん賭博も盛んで、酒保で気取ってダイスを振りかざしたり、暑い中、新記録を作ろうと9時間続けて麻雀に狂った連中さえいる。
第2巻の「その他の漫筆」は22編ある。帰国を夢見て日本の革鞄を買う「カバン」とか、「ビール箱」を使って部屋を効率的に使う話など面白いものも多い。次回に引き続き紹介させて頂きたい。
(続く)
1)なおシュラークバルの競技場の基準や基本ルールについては、鳴門市ドイツ館の広報誌『ルーエ』の9号(2004年6月)に載っている。
2)「スカゲラック」とはノルウエーとユトラント半島の間の海峡の名で、1916年5月31日に独英の第1次世界大戦で最大の海戦が行われた。「スカゲラック海峡海戦」とか「ユトラント沖海戦」と呼ばれている。双方が勝利を宣しているが、その後ドイツは軍港に封じ込められた。なおこの海戦については、シュルツ中尉が1917年7月13日に講演している。
3)法政大学出版局、1991年刊。
4)この遊泳禁止はおそらく、6月21日に北池で起こったフッベ一等海兵の水死が関係しているのだろう。自殺とも言われている。
5)久留米でドイツ人将校と争い丸亀に移されたヘルトレ(Haertle)二等兵は、ポーランドの分限者一族出身の一年志願兵だった。「一年志願兵」とは年間に必要な費用のすべてを自己負担することで得られる特別な資格で、ふつうは1年経つと将校になれた。彼は丸亀でも営倉に入れられ板東移動時はドイツ人との同乗を拒否して荷車に縛り付けられて運ばれた。抜群の語学力など高い能力を持っていたが、板東に来てからも争いが絶えず、特殊俘虜としてイタリア人・ロシア人など4名の仲間とともに近くの寺に分置された。解放後は一時祖国に帰ったが共産主義を嫌い、高松に帰り日本人と結婚して生涯を終えた。
6)ドイツ軍の巨砲の仇名で、持ち運びに苦労したためでぶちょの娼婦になぞらえたらしい。