22. 三木成夫君を偲ぶ
 
中井 準之助
 
 終戦後、昭和二十四、五年から東大解剖には次々と新人が入ってきた。浅見一手(頓天大教授)、三木それに芸大から内地留学の中尾喜保(芸大名誉教授)の諸君は殊に仲良しで、一緒の助手室で、常に行動を共にした。三人組と呼ばれていた。よくわが家に夕飯を食いに来た。楽しい思い出である。
 あの頃はすべてに物不足、酒を飲んだり、映画を観るなどの楽しみは何一つなかったから、忘年会は何よりも待たれた。教室全体が何か出し物を考え、家族全員を招いての一大行事であった。そうそう、仲良しの日大、医遠大、横浜医大も常に一緒だった。当夜、小川鼎三、藤田恒太郎の両教授は万才をやった。余り面白くなかった。私と細川君は、オオ,スザンナというのを英語で合唱した。信太利智君は女の衣装でお宮をやり、同じ技官の安藤君に蹴飛ばされた。圧巻は三人組の人形劇「ヘンゼルとグレーテル」 であった。芸大出でない二人も絵心があったから、人形の出来映えは素晴らしかった。その頃、各教室は極秘に出し物の準備をした。三人組の部屋は特別に秘密保持が徹底していたから、何が行われているのか、当日幕を開けるまで誰にも判らなかった。
 この人形の衣装を縫っていたのが誰あろう、のちの三木夫人であり、彼の下宿のお嬢さん、当時確か女学生だった、と知ったのはずっと後のことである。
 三木君は医科歯科大時分、一時ノイローゼに悩んだ。女子医大の千谷七郎先生のおかげですっかり元に戻ったようであり、最後まで彼の人生の師匠は千谷先生であったようだ。その頃三木君は発生学に熱中し、我が国の血管発生学の第一人者、浦良治先生に私淑した。
 千谷先生といい、浦先生といい、彼は数少ない先生に、ぞっこん惚れ込んで、終生変わらなかった。浦先生(東北大名誉教授、八六歳)には研究生は沢山おられたが、本当の後継者は彼と思つておられたのではないか。先生はなおかくしゃく、毎日名誉教授室に通っておられる。
 
 昭和四十三、四年の世界を風靡した大学紛争は、日本では東大医学部が火の元であった。私はその火中の栗を拾わされた。
 ある時、医学部長室に中尾さんが事務長帯同で現れた。芸大の保健センターに三木君をほしいという。当時、私は東大の保健センター最も兼ねていた。センターの医師の中に「猛者」がいて、併任のセンター長は医学部から教授を送らねばならないのに、誰も行き手がなかった。仕方なく解剖学の私がセンター長を兼任していたのである。中尾さんの話を聞いて、はじめはビックリした。それはともかく、三木君は医歯大の人である。直接三木君と折衝してもらうことにして、そ
の場はお引き取り願った。しかし、あとでじっくりと考えて名案だと思った。三木君にピックリではないか。解剖学は医学部の中でも特に「ヘビー」学科である。それから解放されて、保健センターヘ、しかも芸大に勤めるとは三木君にピックリという気がした。中尾さんの友情である。
 その後、三木君が訪ねてくれるたびに、いかにも今の職場が気に入っていることが感じられ、芸大の学生に保健以外の三木流「生物美学・生物哲学」を得々と講義しているらしい話を聞いて喜んだ。
 
 私は東大定年後、筑波大学に移った。そこの解剖の河野邦雄教授はよい人で、医科歯科大当時の仲間、三木君を毎年医学部学生への特別講義に招いた。例の三木節はいつ果てるともなく延々三時間を越えても、河野君はニコニコしていた。
 講義のあと、三木君は多勢の学生(三木教の信者)を従えて、必ず私の官舎に立ち寄ってビールを飲んだ。彼は飲むより、例の「間」を十分にとった独特の話し方で、右の掌で、しばしばゆっくり顔を撫でおろしながら、話し続けた。座ったまま、上体をとび上がらせてオッオッと声無き笑いで、皆の共感を期待した話ぶりは、「いつ果てるとも知らず」、しかし楽しかった。そのあとまだ二次会が待っていた。彼は信者達を引き連れて、どこかに繰り出すすためである。
 
 彼が大学から帰ると、宿舎の階段下に待っている子供さんを、肩車して階段を駆け上がるのだと、嬉しそうに話した。その頃彼はもう白髪頭だったと思う。一体そのお子さんは、いまいくつか?彼は夫人にも、子供さんにも一度も会わせてくれなかった。
 
(浜松医科大学長)