28. お茶の水時代
 
平光 厲司
 
 この小文を書くために、三十年前を想い起こしている。私が昭和三四(一九五九)年に東京医科歯科大学・医学部を卒業し、一年間のインターンを終了後、同大学の解剖学大学院に入学してから過ごした、ほぼ十年間をこヽで、「お茶の水時代」としておく。この間に多くの人々から、はかりしれない学恩をこうむったのであるが、なかでも、三木成夫先生のことになると、親切に指導していたヾいたとか、深い影響を受けたというような間柄ではなく、こちらのはなはだ勝手な思い込みだけかもしれないけれども、現在に至るまで、肉親の兄のような気がしてならない。だから、私の考えのなかで、それまでに自分自身がもっていたものと、この時代に培われたものとが混然一体となっていてはなはだ分明でない。
 ともあれ、大学院に入学した時、許される範囲内で解剖学の授業はすべて出席しようという計画をたてた。このとき初めて三木先生の講義を聞いたわけである。当時の学部一年の学生であつたのが平山廉三、廣川勝旻、三宅祥三、山口(藤本)黎子の皆さんであるから、この学年は私とは同じ授業を受けた「同級生」ということになる。このなかで、平山、廣川の両君は、学部に入学直後に生化学の宮本璋教授(故人)の命令で実験の相手をさせられることになったのだから、お付き合いは長い。ここでも勝手な言い分を許していただければ、彼等は実の弟のような気がしている。
 さて、戦災で焼け残った鉄筋コンクリートの本館第一講堂で初めて聞く三木先生の講義は、全く並みの解剖学の講義ではなかった。いわばそれを超越した生命の学であつて、その講義のスタイルは後年の講義の原形であるといってよいのであるが、その時はまだ先人、とりわけクラーゲスの祖述という感があり、失礼ながらいささか心もとないというような印象がないわけではなかった。
 ところが、ほどなく講義の迫力は一変した。それは、一夏を東北大学の浦 良治教授の研究室で過ごされた後であつた。昭和三六(一九六一)年七月、弘前で第六六回解剖学会総会が開かれた時その懇親会の席上、それまでに見たこともないような凄まじい形相で、浦先生を捜しておられたのを、思い出すのであるが、その翌年夏仙台でまとめられた仕事が「大山椒魚における脾の原基と胃循環との連関について」と題して、すぐその秋に千葉で開催された第二二回解剖学会関東地方会において発表された。そのスピードに今あらためて驚いている。この主題について書かれた処女論文でもって学位を受けられ、それからあと怒涛のような著作活動が続くことになる。
 三木先生は、東京大学の解剖学教室に入られるとき、小川鼎三教授(故人)に『十年間はアールゲマイネ(総論)をやらせて下さい』とお願いしたら、「さすがの小川先生もびっくりしたような顔をされていたよ」と笑いながら話されていた。まことその通り実行されて、十年後に見事なスペチエレ(各論)の業績をあげられたわけである。その間、このような心情を理解できない先輩どもが、ことあるごとに論文を書け書けといって悩まきれたということも時々開いたことがある。これが後年、解剖学会から離れられた一つの原因困ともなっているような気がする。充分に力をためて機が熟してから完璧な形で世に問うべく心掛けておられた内心は、その当時なかなか他人には伝わらなかったのであろう。しかし、今ふりかえってみると、三木先生は、きわめて綿密な人生計画をたてヽおられたようである。私がアメリカに留学する前の昭和四三(一九六九)年春のこと、二人で西成甫先生(故人)を江の島の御自宅に訪ねたことがある。この時、帰りの電車のなかで、ふと独り言のように、自分は五十歳から六十歳までに仕事を完成するつもりである、という意味のことをいわれたのか、耳に残っている。やはり、どうやらこの予言も当っていたようだ。
 これまでに、一度だけ、三木先生を怒らせたことがある。それはある時先生のシェーマを見て、感服のあまり「先生は天才ですね」と言ったのに対し、自分は天才ではない、努力しているのだ。どれだけ苦労しているか、人にはわからないだろう。といって、かなり厳しく私の言葉をたしなめられた。最高の誉め言葉のつもりがはからずも軽い響きをもってしまったようで、はなはだ恥ずかしい思いをし、深く反省した。このような表現は二度としなかつた。
 ところで、三木先生との共著論文が私に一編だけある。それは心臓神経の比較解剖に関するもので、私自身の開眼のきっかけとなつた仕事といえる。昭和四十年代初め、激し妄生運動の嵐のなか、火炎壜と催涙弾の飛び交うのを横目で見ながら観察と考察を進めていった。きわめて落ち着かない異常な環境ではあったが、学問的には充実していたと思っている。この論文はアメリカ滞在中に英文で書き上げて、帰国後小川先生にお願いして、学士院紀要に発表していただいた。その後、二十年あまりたって和文で書く機会が与えられたことがあり、その別刷をお送りしたところ『三途の川の河原の砂に腰を下ろして思い浮かべるだろう』というお返事をいただいて間もなく、本当にそちらへ旅立たれてしまった。まことに痛恨の極である。
 
(埼玉医科大学・解剖学教室)