29. 師 三木成夫先生
 
平山 廉三
 
 巨星が消えました。
 昭和三十五年九月、チャコールグレーの背広・広い額・スウッと通った鼻梁・やや縮れた剛髪、“ハッキリ”を一服のみやや芝居がかった典雅なお姿で私共の前に現れました。医学部講義に絶望しきっていた学生に……「私」を省かないと「モノ」がみえない。現象に「目的」や「目標」や具備されている筈がない。……など模索中のお考えを溌剌と鏤めつつ、ナマの「三木学」を講義されました。天成の教師、三木先生は「三木学」のルーツを惜し気もなく披露されました。心血をそそいだノート、資料(クラーゲス・ゲーテ・スワ・ホンギ・キカクなど)を借用、筆写させていただいてはその意義を諄々と承りました。
 以来三十年、師は三木成夫先生。
 象は川底を踏みしめて渡河するそうですが、堂々たる『総論十年』の深い御思索が前人未踏の三木学への道程でありましたでしょう。三木学はホンモノ(・師と仰ぐに足る人の手になるもの、・その師のすすめたもの)と天性の鼻の良さで嗅ぎわけて得たもので精緻に構築されていると思いますが、その本質は『詩』でありましょう。
 科学論文には不似合いと思える“詩”もその内に淡々と挿入されもしましたし、また、詩人三木と全人的科学者平光とが机を並べ、詩と真実を対話していた日々をこよなく懐かしんでおられました。
 上野に移られた三木先生をお訪ねするたび、弘法大師・一遍上人を肴に、公望荘で「海苔・酒・そば」を頂戴しましたが、熱狂的な、四国愛の血の騒ぎだったのでしょうか。