30. 三木先生からのおくりもの
 
広川 勝c
 
 学生時代に私が一番感化を受けたのは三木先生であった。感化を受けたと言っても、何故か先生の御専門の解剖学についてはどんな講義を受けたか殆ど覚えていない。 三木先生と親しい漢方財団研究所の伊沢凡人先生の編集した追悼集では、三木先生との出会いを書かせて頂いたが、その最初の講義でも覚えているのは、ウイルヒョウの細胞病理学総論であり、ゲーテのモルフォロギー、クラーゲスのガイストとゼーレのヴィーダーザッヘと其角の俳句である。 こうした話は、本来の解剖学の前にされたはづであるが、本来の解剖学は何の講義だったか覚えていないのである。
 三木先生の学問的領域に少しでも接する機会があったのは、私が卒業後病理学教室に入ってからである。 学生時代の私にとっての三木先生は学問以外の事をいろいろと教えてくれる先生であった。 その様々な教えは私にとっては生涯にわたる先生からの「おくりもの」といっても過言ではない。 その「おくりもののいくつかを思い付くまま書いてみた。
 「モーツァルト」 神保町の裏道の目立たないところにモーツァルトと言う喫茶店があった。 四六時中モーツァルトの音楽を流している二階立ての店で、コーヒーの味もまあまあであった。 学部の一年が終わって、神保町の蕎麦やの二階で解剖の講義の打ち上げ会が終わった後、三木先生が連れて行ってくれたところである。 極めて静かなところで、おしゃべりには向いていなかったが、一人でブラっと行って、ボーっと過ごすには良いところであった。 音楽については、私はもともとクラシック派で、特にバロックが好きであった。 三木先生ご自身はヴァイオリンを弾き、広い趣味をもっておられ、モーツァルトだけが特に好きであったとは聞いていない。 しかし、私の方はその喫茶店にたびたび通い、モーツァルトを繰り返し聴くうちに、かなりのモーツァルト狂になってしまったのである。 今でもモーツァルトを聴くと時々その店の事を思い出す。
 「ケーキ」 同じ神保町の大通りに面して柏水堂という洋菓子店があった。 先生はここのモンブランがこの近辺では最高であると折り紙をつけておられた。 そう言われて食べてみると、確かにおいしいと思ったのは私だけではなかったはづだが、何故かその後その店はつぶれてしまった。 同じ解剖学教室にいらっしゃった萬年先生は、プリンならば駿河台下のエスワイルの方が良いと主張され、お二人が議論きれていた。 柏水堂はかなり以前になくなってしまったが、エスワイルの方は今でも残っている。
 「コーヒー」 当時、コーヒーは珈琲店でのむもので、今みたいに家庭で入れることは少なかった。 しかし、先生のお宅には四角い手動式のコーヒーミルがあって、先生はよい豆をこの手動式のミルでゆっくりとひいていれたコーヒーが最高であると自慢されていた。 私も暫くして同じ形のコーヒーミルをもとめ真似をした事を覚えている。 しかし、その後怠け者の私の方はすぐに堕落して、電動式のコーヒーミルにしてしまった。 朝の忙しいときに、手動式のミルを使う精神的な余裕がなかったのである。 しかし、最近になって時々その古い四角いミルを股の間にはさんでコーヒー豆をひくことがあるが、そんなときは必ず三木先生のあの独特の風貌を懐かしく思い出す。
 「欝病」 先生ご自身が欝病の患者であったと窺っている。 欝病患者あるいはその傾向のある人は、朝の寝起きが悪く、午前中はボウーとしているのが特徴で、それは仕方のないことだとおっしゃっていた。 夜遅く迄、遊び惚けている学生達にとってこのお言葉は有難く、何かとサボル為の口実のように使っていたように思う。
 「旅」 三木先生と旅行した事が二〜三回ある。 一度は高知の日和佐海岸まで行き、徹夜で海亀の卵の採取をした。 まだ新幹線のない頃で、卵を腐らないようにもって帰るのに菩労したことを覚えている。 アカハライモリの採取は東北地方に出かけたが、何処へ行ったのか、正確な地名は覚えていない。 旅行をするなら余り人の行かない交通不便な所が良いと云うのが先生の持論であった。 日本地図を広げて、鉄道のないところが良く、例えば北陸中とか青森県の竜飛岬が良いとおっしゃっていた。 北陸中は三木先生の新婚旅行の場所であると聞いている。 私も三木先生の勧めに従い学部の3年の夏に、無論一人であったが北陸中まで行ったことがある。 盛岡から支線に乗り換え終点まで行き、そこから一日一便しかないバスで2時間位かけて平井賀まで、東京を夜行で発ってもまる一日はかかった。 平井賀の旅館は本家旅館というのが一軒だけであった思うが、先生のおすすめ通り、人情がよく新鮮な魚を惜しみなく使った料理もおいしかった。 北陸中は今では鉄道も通り昔の面影はないであろうが、日本地図を広げて捜せばまだそんなところが残っていそうな気がする。
 
(東京都老人総合研究所 基礎病理部)