32. 追 悼 連 句
 
星野 惠則
 
 僕はいつもそうだ。憧れていながら近づけない。三木先生もそのような方の一人だった。考えれば、先生の一番近くにいたのは、医科歯科大での人体解剖実習の口頭試問のとき、僕が提出した下手くそな神経系解剖図の課題をご覧になって、「はう、水彩画ですね」と、目を細められたときではなかったか。色鉛筆ではどうしても思うような感じに色がのらなかったので仕方なく絵の具を溶いたのだったが、先生が講義のときに、まるで宝物を見せるかのように見せて下さったゲーテの蕃生の薔薇の水彩の絵が僕の頭にあったのかも知れない。女子医大精神科に人局してからも、医局の会などによくおいで下さってお顔を拝見したが、ついにご挨拶以上のお話はせずじまいだった。そして、夕焼けの本郷通りを足早に先生に近づいていったその先で、先生はすでに数多の花に組まれて永遠の眠りを眠っておられた。
 翌月の第六天連句会で、ちょうど僕に捌きの順番が回ってきたので、発句の候補句に追悼の一七文字を出したところ、今泉準一(忘機)先生、浅野欣也(黍穂)先生をはじめとする連衆がとりあげて下さって、以下の追悼連句が成った。風になり雲になり、今は遍くわれわれのまわりにおられる三木先生の霊のご笑覧あらんことを。
 
(東京女子医科大学 神経精神科)
 
                      
  世吉桐『凝る雲』の巻
 
  三木先生の通夜に急ぐ
 
タ焼にひと時凝る秋の雲               惠則
 ネオン頻(し)き鳴く月のまぼろし          黍穂
初声の飼鈴虫に安堵して                忘機
 新酒囀がし舌の滑らか               猛康
地下街の金魚の鰭の虹いろに               纓
 牡丹の香出でて漂ふ                 秀夫
久々に弓百本の朝稽古                 機
 万年筆の軸太目なり                  穂
 
ウラ
難問は南の国の娘たち                 夫
 日本へ向いた墓はカラユキ              纓
女衒なる男行脚のなれの果て              康
 喰(くら)ふおにぎり自(おの)が面(つら)ほど   則
内視鏡雪の雫のしきりなる               纓
 あちこち切ってレーガンの息             穂
よたよたとドルはどうやら持ち直し           機
 案内(あない)御巫(みかんこ)京をめぐりて     夫
タワーから碁盤目照らす月を賞で            康
 今日限り越す家に秋風                則
何知らぬ弟(おとと)おどける爽やかに         機
 犬の抜毛は鳥の巣の代                穂
念仏の如くに花の虻を聞き               則
 野原を渡る春の鐘の音                夫
 
               昭和六十二年九月十三日首尾
                         惠則捌