33. 三木成夫先生の思い出
 
増田 昭
 
 三木先生に初めてお会いしたのは、昭和三十三年五月でした。東京医科歯科大学解剖学教室です。当時先生は、第一解剖の助教授をしておられました。研究は発生学、教育は中枢神経及びマクロ解剖の講義と実習をされました。長野県北佐久の農家の三男、母親が早く亡くなり孤独な少年時代を過ごした私にとりまして、三木先生との出会いは、肉親以上のものでした。
 教室で三木先生の研究に協力する事になり、静岡県三島市山中の洞窟へ懐中電灯、虫かご、虫とり網持参で、キクガシラコウモリの採集に行き、十数匹のコウモリを捕まえて帰り大学で飼育しました。餌に苦労した記憶が残っています。翌年私が中央大学理工学部化学科(二部)へ入学した時、三木先生が第六高等学校で使用された有機化学の教科書を頂きました。この本で思い出されることは、私が一番大切にしている一枚の写真です。この写真は当時先生が、この有機化学の本を開きポーズを取っているもので家に飾り毎日拝見し思い出に浸っております。昭和三十五年には、山田平弥教授が、アメリカのNIH研究所へ留学された為、三木先生が組織学の講義及び実習をされました。その為か、三木ファンの学生が、特に多い年でありました。現在、第二外科の平山廉三先生、内科循環器の沢登徹先生、他多数の先生方です。昭和三十六年に、竹谷桃子様と結婚され、西武池袋線の中村橋に、新居を築かれました。その新婚家庭では猫がお好きで雌猫を飼っておられました。確か、猫の名前は、ペチャコだったと思います。やがてその雌猫は、近くの、ボス猫「練馬団十朗」と恋をして何匹かの仔猫が生まれました。そして、練馬団十朗の家系系図ができました。その後、中村橋の家へ、二回程おじゃましたところ、その度に団十朗の家系図は、多くなっておりました。三年程して、新宿の百人町へ移りペチャコつまり雌猫はやがて避妊手術を受けました。この時の先生のお話がとても面白く思い出します。動物病院の受付で、三木ペチャコさん、お入りくださいと呼ばれ手術を受けたそうです。勿論、保護者は三木先生だったそうです。
 研究は、ヤツメウナギ、オタマジャクシ、ニジマス、サンショウウオ、アカウミガメ、ニワトリ等を使用して、発生学の研究に努力されました。特に、血管注入の方法は、東北大学の浦良治教授の研究室へ内地留学しマスターして、帰京されました。ガラス管をガスバーナーで細工した物を使用して、受精卵をフラン器から取り出し、実体鞍徹鏡の下で観察しながら、メチレンブラウ、墨汁を注入しました。又、アカウミガメの研究の時は、特に力を入れられ、古い木造の解剖学実習室の前に大きな穴を掘って、たっぶり砂を入れ、人工海岸の砂浜を作りました。そして海亀の上陸する四国の日和佐海岸へ採集に出かけられました。持ち帰えった海亀の卵は、人工海岸は使用されず、結局はフラン器で卵を孵化しました。以上の様な研究が基礎となり、やがて「胎児の世界」として誕生することになります。その後、東京芸大へ移られてから、益々胎児の世界は発展しました。
 先生の住宅が百人町にあり、近くの山手線と中央線による掻音がひどかったため相談を受けた私は、魚釣り仲間の事務官(宿舎係)福田光男君に頼みますと、埼玉県上福岡市の公務員住宅に決まりました。少し遠くなりましたが、緑が多く喜んでおられました。私は魚釣りの帰りに時々立寄らせていただきました。確か、長女のさやかさんは中学生、良男の成能君は小学生の時でした。その頃の平和な御家庭が今でも瞼に焼き付いております。
 又、三木先生から年賀状を頂き、思い出深いものがあります。それは、十二年前の年賀状です。「新しい研究室で幸福になって下さい」と書いてありました。その年、東京医歯大の第一解剖に新しい先生、和氣健二郎教授がお見えになられた年であります。この時程暖かく感じられた年賀状はなく、とても嬉しかったです。その後、九月に芸大祭が有ることを知り、三木先生にお電話したところ、早速大学祭のパンフレットをお送り下さいました。それ以来毎年芸大祭に行きます。
 先生の文献集で分かったことは、海棠子というペンネームです.所謂、海棠子三木先生は、丸亀に誕生し、岡山の六高、博多の九大、東京の東大、東京医歯大、仙台の東北大、そして東京芸大と大回遊をされ、古里の川を発見したと信じております。最後にお会いしたのは、昭和六十二年五月六日だったと思います。前日に、先生は東大の五月祭で講師として講演され、胎児の世界のお話が学生に一番評判良かったので喜んでおられました。その時、南と北の生物学などの別冊を頂きました。先生は八月十日の月曜日に脳出血で倒れられました。その前夜は高校野球と中日対巨人戦テレビ観戦されました。新人である中日近藤投手の大活躍で巨人を完封しました。中日ファンである先生は、大変に喜んでおられたそうです。(先生は、三原修監督の西鉄ファンでもありました。)
 以上三木先生の思い出であります。私は上京して最初に巡り会えたことを感謝申上げます。今から、三十一年前、一緒に仕事をしていると、君はまだ子供の臭いがすると言われたものです。先生は、私の「父の乳」でありました。ご家族の御健康と幸せをお祈り致します。
 
(東京医歯大 解剖)