36. 三木さんの想い出
 
三輪 史朗
 
 三木さんとの最初の出会いは、昭和二十一年春のことであった。終戦の年岡山の六高から九大工学部航空機学科に入学していた三木さんは、東大医学部入試の為上京し、六高時代の同級生だった私の兄を尋ねて、東中野にあった我が家にこられた。私は一年留年して三木さんと同級になり、暫く我が家にいた三木さんと一緒に通学した。暫くは起居を共にしたわけである。三木さんは強い個性を持っていた。人なつっこい情熱に満ちた話しかた。都会慣れしていないひとの良さ、驚くほどの強い好奇心、芸術的感覚の良さ、といった個性は直ぐに私を魅了した。踏朱金で絵を描くことに夢中になって多くの友人を作り、何時の間にかヴァイオリンに熱中して直接江藤俊哉先生を尋ねて弟子入りし、最愛のヴァイオリンを手にしながらの音楽の話は尽きなかった。音楽喫茶店でブラームスのヴァイオリン協奏曲をともに聴いたりした。コーラスをやって山田一雄さんの指揮のベートーベンの第九交響曲の年末の日比谷公会堂のコーラスを、後ろの方で歌ったのは昭和二十三・四年のことだったと思う。戦後の物資のない時代だったが、そんなことに頓着せずに三木さんと過ごすことができたことは、私の貴重な青春時代となり、また私の人格形成にどんなに役立ったことか。本当に懐かしい思い出であり、今振り返ってみて三木さんが私に与えてくれた無形な影響力の大きさに驚かされると共に感謝せずにはいられない。
 卒業して、三木さんは小川鼎三先生を慕って解剖学教室に入り、私は沖中重雄先生を慕って沖中内科教室にはいった。そして会う機会は学生時代に比べて少なくなった。三木さんが結婚して戸山が原あとの官舎住まいをしていた頃、家内をつれてお訪ねしたこともあった。
 三木さんの才能は、研究者としてある分野のことを狭く深く追求することよりも、広い大きなことをどちらかといえば哲学的に思索することに向いていたといえるのではないだろうか。ところを得て芸術大学の保健管理センター教授となって、「胎児の世界」の著を世に出し、その講義は多くの学生を魅了してやまなかったという。私が東大医学研究所にいた頃、時々三木さんから電話を貰った。学生で貧血があったり、白血球が増えて熟を出しているから珍てほしいといった用件であった。あのなつかしい声を聴くと、どんなに忙しい時でもすぐになんとかしてあげなければならない気持ちにさせられた。学生に対する面倒見の良さ、交友関係の広さは、恐らく保健管理センター教授の職責にぴったりだったのだろうと思った。
 浅見一半君から、三木君が急に倒れて入院したとの電話を受けて、病院に駆けつけた。脳内出血で既に意識は無く、間もなく亡くなられた。家族の方々への心残りはあったに違いないが、満足して人生を生きぬいた人の、幸福そうな死に顔であった。
 三木さんを想う会は二回ひらかれた。故人の人徳と奥様の明るいお人柄とで、大勢の人が集まって賑やかであった。