37. おもいだすままに
 
本松 清行
 
 昭和三十二年、三木先生は東京医科歯科大学第一解剖に助教授として赴任されました。 以来九年間、私達は色々な相談事や悩みを先生に聞いていただきましたが、常に快く応対され、適切なアドヴアイスを与えていただいたものでした。 当時、先生にとって第一解剖の雰囲気は必ずしも快適では無かったと思います。 その上頑固な不眠に悩まされ、昼近く冴えない顔付きで出勤されるのが常でした。 しかし先生は体調不充分ながら、昼休み、教室員のキャッチボールに度々参加され、流れる様な無理の無いフォームで正確な投球をされました。 なんとなく野球には縁遠い方にみえたのですが、伺ったところでは、先生はご兄弟に甲子園にも出た野球の名手をお待ちとのことで、「わしの血の中には野球選手の血が流れているんぜ。 中日(ドラゴンズ)に牧野ちゅうのがおるじゃろう。あれは従兄弟に当るんじゃ」。 当の牧野茂氏は、今では覚えている人も少ないでしょうが、昭和三十年頃の中日の内野手で後に巨人軍のコーチになった選手で、守備はうまいが打撃は今一つでした.その牧野氏は中学時代、丸亀の三木先生のお兄さんのもとへ殆ど毎日グローブ片手にはるばる峠を越えて野球を習いに来ていたとのことです。 「兄貴は守備は教えたがバッチングは教えんかったんじゃなぁ。それであいつは肝腎な時によう打ちよらん。」
 ある夏の夜、教室員数人で後楽園に巨人−中日戦を見に出掛けました。 勿論三木先生は中日ファンでした。当時は当日売りでも良い席が簡単に手にはいり、一同三塁側のネット裏近くに陣取りました。 投手は巨人が現監督の藤田、中日は左の干ス中山で、両雄合い譲らず試合は零対零のまま7回に入りましたが、ここで中日は一死三塁と言う絶好のチャンスを迎えました。 巨人の藤田投手が絶好調だったので、これを逃せば中日の勝利は難しい状態でした。 そこへ登場したのが牧野茂氏です。 三木先生、右手でツルリと顔をなで、「あいつ、パチーンと三振してきよるぜ」藤田の速球の前に牧野氏はたちまち2ストライクを取られ、好機を逸したかに見えました。 投手はボールをセットして球場には緊張がみなぎり、一瞬訪れた静寂の中、突如響き渡った三木先生の大音声、「牧野ッ! 落ち着けッ!」 次の瞬間牧野氏は見事レフトフライを打ち上げて三塁走者をホームに迎え入れ、結局これが決勝点になって一対零で中日の勝利に終わりました。 試合終了後、先生のご機嫌が良かったのは申すまでもありません。 「あいつ、わしの一喝が聞こえたんぜ。 これから時々喝を入れに行ってやらにゃいかん。」と例の両手で顔を撫で、髪の毛をかきあげる癖(先生がご機嫌の時、又多少照れ臭く思われる時しばしば出る)を連発し、呵々大笑されたことでした。何事によらず一瞬一瞬を大切にされ、ベストをつくされた先生の姿だと私には思えたのでした。
 医科歯科時代に結婚された先生は、昼食に桃子夫人手作りの可愛らしいお弁当を持参されておられました。 ある日の昼休み、先生が例によって愛妻弁当の蓋を取りますと、御飯の上におかずを上手に使って、にこやかな顔が画かれておりました。 その時の三木先生の顔たるや、照れ臭い想いと、頬が自然に緩んでくるのが掬い交ぜになった、何とも言えない表情をされておりました。 三木夫人は本当に素敵な方だ、先生が伴侶として選ばれたのもむべなるかな、と多少の羨望をこめて思ったことでした。 このほほえましいお弁当を私は二度と見ることが出来ず、その後人の噂にものぼる事が無かったので、あるいは唯一度の事だったかも知れません。
 やがて先生は私共の第一解剖から第三解剖を経て念願の芸大に移られました。 直線距離にして医科歯科大学から半道にも満たないのになかなか伺えず、不義理の極みでしたが、一年程後に木造の古めかしい芸大保険センターに先生をお尋ねすることが出来ました。 ヤアという声と人なつっこい笑顔で迎えて下さった先生はセンターでの生活を生き生きしたロ調でお話しになり、日々是好日と言うご様子でした。「ここは面白い処ぜ、汚い学生が入って来てな、アタマ イタイ とだけ言うんじゃ。こいつ頭の中どうなってるんじゃい、と思ったりするんじゃが、それが粘土こねてるのを見たらこちらが腰をぬかしてしまうんよ。すごいのが居るぜ。」 この様なお話をされる先生は本当に楽しそうでした。 数年前、亡くなられる二年程前になりましょうか、先生にお会いした時、随分せわしなくなられたなぁ、という感じがしました。 講演、執筆等でお忙しいためと簡単に考えていましたが、御体が何かを感じていたのかもしれません。 お訪ねしようしようと思いながらついその侭になってしまった事が悔やまれてなりません。
 
                      (東京医科歯科大学 第一解剖)