38. 昔の想い出
 
百瀬 博文
 
 三木君は、私の大学時代の最も親しい友人である。彼は昭和二十一年、私は二十二年の入学であるが、私が二年生になった頃、留年して上のクラスから落ちてきた彼と同級になって親しくなった。何故留年したかって? それは、バイオリンという恋人のとりことなって、他の勉強には全然身が入らなくなったからだった。誰もが黒のツメ襟の制服に、角帽をかぶって通学している中で、彼は髪をのばしてふさふさのオールバックとし、私は、私の好きなショパンの様だと思った。もちろん角帽なんぞはかぶらず、バイオリンのケースをかかえて、江藤俊哉さんのお宅ヘレッスンに通う姿は、とても医学部の学生には見えなかった。戦後間もない、荒廃した東京の町で、その様な瀟洒な彼の姿は、当時の娘さん達の目にどの様に映ったことだろう。大体、彼の風采がおかしくなったのは、解剖学教室などというヤボな所(失礼!)へ入ったのが原因と信ずる。
 医学部をやめて、音楽の道に進むといって親を困らせ、自らも悩んだのは、この頃であろう。江藤さんは私達と同年輩、既に小学生の頃、毎日コンクールで優勝して天才少年といわれたが、当時まだ東京音楽学校の学生だった。「オレは、江藤さんの最初の、たった一人の弟子、というわけよ」というのが口癖だった。
 彼からこんな話を聞いた。夜、江藤さんの家の前まで行くと、中から妹さんの弾くピアノの音が聞こえてくる。ドビュッシーの「月の光」で、感動して、しばらく家の前に立っていたというのである。そんな話をする時の彼は、熱にうかされた人の様であった。そういえば、江藤玲子さんの卒業演奏を彼といっしょに、上野の音校の奏楽堂で聴いたことがある。超満員の会場で、曲は葬送行進曲の付いた方のショパンのソナタだった。
 
 私は、学部の三年になって病気で休学し、翌年の秋、一年四か月ぶりに登校した。学生食堂で逢つた彼は、忙しそうに立ち去ったが、後ろから見ると、なんと、髪をキチンと刈り上げているではないか。それに何か様子がおかしい。呆気にとられた私に級友達が話してくれたのによると、まず彼は大学の五月祭に真っ赤な洋服のMädchenをつれてきた由。それはある資産家の一人娘で、卒業したらその家の養子に入る予定で、その家から通学しているという。金の心配は一切しなくてよいから、しっかり勉強して将来は大学教授になる様希望されていること、バイオリンのレッスンの代わりに、アテネフランセに通って語学の勉強に精出していること、などである。要するに彼の、人と生活が変わってしまったというのだ。
 それから間もない十一月のある日、私は柿の木坂のその家に一人で招待きれた。東横線の都立高校前駅で下りて、歩いて十分位か。当時は今とは比較にならないひなびた郊外風景である。娘さんは喜久子さんといい、やや小柄の眼のパッチリしたひとであった。女中さんに、若旦那様、と呼ばれ、オレ、この家では若旦那さまなんよ、と照れた。それから・バイオリンのケースを引っ張り出してきて、グノーのアヴェマリアを弾いたが、その時、ゆるみ切った弦を締めながら、ここに来てからバイオリンに触るのは、これが始めてなんよ、といって苦笑した。取り出してきた愛刀に赤い銹を見つけた人の様な気持だったのか。私はすべてが判った様な気がし、何もいえずにその顔をしばらく見ていた。
 しかし、その家に入ったのは、バイオリンとの苦しい恋を断ち切るためでもあったのか、喜久子さんに対する好意の程はどうだったのか、あとから考えて、私には肝腎な事は何一つ判っていなかったのである。
 その年(昭和二十五年)の暮から、彼は四国の実家に帰省し、一月になって上京した。一月早々から長い卒業試験が始まるのだ。そして、彼はそのまま、そのお宅には戻らなかった。下宿住まいとなり、又元のモクアミの貧乏生活にもどってしまった。前には坐机があり、後ろをふり返れば寝床があり、横を向けばそのまま飯が食える、これが最高の生活だよ、と嬉しそうに笑った。しかし、その高笑いには、何か不自然なものがあった。惜別の思いに、強いて背を向けようとする自分を励ましている様な――。ただ彼にとって大切なものは、世俗の何物にも束縛されない自由であり、教授になるための勉強、というのも、我慢ならなかったのであろう。
 三木さんを見返す程立派な人を養子に、というそのお宅には、彼の一級下、つまり留年した私の新しいクラスの小田君という人が迎えられ、喜久子きんと結婚して竹田姓となった。彼女には、NHKの連続のクイズ番組に出て、その成績が新聞を賑わしたエピソードがあるが、省く。
 私は眼科教室に入ったが、患者でごった返す眼科の外来で、バッタリ彼女と顔を合わせたことがある。夫君の紹介で、同級のF君の所に受診に来たのだった。私はひと目で彼女と判って驚いたが、彼女にはまごつく様子はなく、即座に「しばらくでございます」とはっきりした挨拶が返ってきた。私はその夕方、薬学科と道路をへだてた解剖学教室へとんで行き、事件を三木に報告した。彼は根ほり葉ほり知りたがったが、私の交わした言葉は一言だけ、どうにもならなかった。
 彼女と竹田君は、それから間もなく、本当に十年を出ずして、あいついで同じ心臓マヒ(?)でなくなられた。
 
 彼がどこにすんでいた頃か忘れたが、こんな話をしてくれたことがある。帰宅の際、バス停で降りたら、待ち構えていた女性が彼の背中をぶった。何回もぶつので、やめんか、と叱ったら、泣き出して困ったというのである。そして、「どういうわけか、体格の良い、力の強そうなひとばかりが寄ってくるんよ」といって、肩のあたりをさする様な仕種をした。
 
 それから池袋の先の千草町に移った。解剖の細川助教授が、よそに出られたあとの部屋である。母屋から庭を隔てたはなれで、トイレに立ったら、「一穴だからの、注意してやってくれ」といわれた。床面に和風の便器が一つあり、小便器はない。大便の時の様にしゃがんで使うのか、立ったままやるのか迷ったが、注意してやれという以上、彼は立ったまま使うのだろうと思った。あんな難しいハルンはしたことがない。
 母屋から、中学生の桃子ちゃんという子がよく来た。無口で、眼だけ輝かして私達の話をじっと聞いている。そんな子だった。
 数年たって、私は東大から水戸日赤へ赴任した。三木は医科歯科大の助教授になっていた。所用で大学に来た時、赤門前でバッタリ桃ちゃんに出逢った。すっかり大人びた彼女に驚いたが、「三木先生と婚約しましきと告げられた時は、ああ、やっぱり、と思い、驚かなかった。
 それから間もなく、水戸の県営アパートの私の宅に、一枚の写真が送られてきた。新婦は高島田に真白いうちかけ姿で椅子に坐っており、その左側に新郎が立っている。新郎は三十六才、姿もリラックスして、二十才の新婦をいたわる様な笑みを浮かべている。写真の裏に、「行き暮れて峠の茶屋の白狐」と書いてあった。希望と挫折と喪失をくり返した私達の青春に、夕暮れが来て、完全に幕が引かれたのだと思った。私はもう一度写真を表に返し、その友人の顔を、祝福と羨望の思いをこめて、しばらく見つづけていた。
                             
(杉並区 久我山眼科)