4. 弔辞 
 
(三木成夫教授葬儀における友人代表の弔辞 於本郷 喜福寺)
 
淺見一羊
 
 三木君、月曜日の朝だった。中尾さんからの急の電話で、君が脳出血で倒れ病院に運ばれたと聞き、愕いてそちらに赴いたところ、重点病室の一隅に、人口呼吸器を装着されて横たわる君は、意識がなくて、吐く息とともに洩れる喉の音ばかりが、三木君の音声であった。
 いま、遂にその深い眠りから覚めることなく、君の命を惜しむ親愛な人たちと花とに囲まれて、君は横たわっている。
 顧みれば、君との最初の出会いは、戦争が終わった翌くる年の春、始めからやりなおす気で、東大医学部に入学した時だった。クラスにはその頃まだ丸刈り頭が多く軍服も混じる中で、房々と波打つ長めの髪、紺のコートがよく似合う君は、みるからにロマンチックな面影の美青年だった。だが、いつからか君は江藤俊哉氏に師事してヴァイオリンに打ち魂み、惜しげもなく留年してしまう。
 そんなことで僕より一年晩れて、三木君と、また今日葬儀委員長の中尾さんとが、解剖学教室に入り、教室は俄に賑やかとなった。以来、小川鼎三先生から「三人組」と呼ばれる仲となり、互いに精進を競う傍ら、楽しみをも共にした。土曜の午後は踏朱会でも、君と一緒に絵を描いた。踏朱会のコンパで、君が六高名物のシラミ踊りを演ずれば、一座は抱腹絶倒したものだ。
 当時、君は千早町に住み、そこはのちに三木夫人となる桃子さんのご実家の離れだった。中尾さんは、今この葬儀を行っている喜福寺境内の離れ(もと観音堂)に住み込んでいた。「外食者同盟」と称し、安くて旨いものをときには腹一杯食べた、我々にとっては、色々な思い出のあるお寺だ。
 ところが、教室入り二年目にして、君は鬱病という厄介な病にとりつかれる。しかしあの病気とのつらい対決を通して、君はその後の人生観に転機を経験したのではなかったか。クラーゲスの生の哲学に、またゲエテの形態学に、関心を深めてゆく。
 病から癒えた君が、心血を注いでやった「脾臓の発生」に関する優れた研究は、MoellendorfのHandbuchにも君の手になる美しい図を添えて紹介されている。解剖学以外の学会からも特別講演に招かれるほどの反響があった。
 一方、君は後進のためにも惜しみなく尽くす、優れた教師だった。東京医科歯科大学の助教授として、特に解剖学の実習授業に並々ならぬ熱意を傾けた。当時の学生で、君と今なお深い繋がりをもつ人たちがあるのを、僕も知っている。 
 昭和四十八年、君が医科歯科大学を辞め、解剖学会からもサラリと離脱して、東京藝術大学に職を転じたのは青天の霹靂だった。しかし、芸大では保健センターの初代所長を勤める傍ら、美術・音楽両学部の学生を対象に「生命の形態学」なる授業を開講した。以来十年間、練りに練り上げた、ユニークな講義の概要が、中公文庫の形で出版された「胎児の世界(人類の生命記憶)」に納められている。
 ゲエテは顕微鏡も望遠鏡も好まなかったというが、三木君も葦の髄から天井を覗く類の観察には飽き足らず、森羅万象に心を開き、壮大なスケールで考察を巡らそうとする。このゆき方を余人が仮にどう言おうとも、僕はこの二日間この本を繙き、更めて深く読み直すところが随所にあった。ユーモラスな譬喩を交えながら、流麗ともいえる文体で、独自の思索を展開し、おのずから文明批評にもなっている。いや君自体が、時流に対し身をもって抵抗していたのだと思う。ただ悔やまれるのは、君の生前にこそ僕がもっと熟読して、君の本について、君と語り合うべきだった。君の方からは、僕のささやかな仕事に対してでも、注意深く取り柄を指摘してくれたのに。それが僕にはいつも、どんなに励ましであったことか。
 近年お互いの家が遠く離れたヽめ、上福岡公務員住宅のお住まいを、この度仮通夜の晩に、初めてお尋ねした。三DKの一間・一間には、人間らしい慎ましい家庭生活の安らぎがみちていた。三木君が斯うも大事にしていた此の場から、天は今どうして、三木君をいきなり奪ってゆくのか!それを思うと僕には、憤りにも似た激情が走る。
 かけがいのない友人を失う僕の心の傷については、口にすまい。長い間の、いつも変わらざる君の友情に、深い感謝を捧げて、この拙い弔辞を結ぶ。
 三木君、いろいろと本当にありがとうございました。
    1987年8月16日
 
(順天堂大学解剖学教授)