42. 三木先生
 
吉増 克實
                              
 三木先生にあった人で、その人となりに感化きれなかった人間は、おそらくいないのではないかと思われるが、僕の場合も、それがなければ、僕は現在の僕自身ではなかったといっても、なんらおおげきとはいえないと思う。僕の秘かな意識からすれば、現在まで在職している東京女子医大精神科への入局という出来事は、学生時代を通じて三木先生から教わってきたことの結果であったし、三木先生の進めておられた認識の一端を担うべく送り込まれたと思っていたといえなくもない。
 そもそも東京女子医大をはじめて訪れたのも、入局の何年か前、文化の日に、ゲーテ自然学の集いが東京女子医大精神科で開かれた折のことだった。学部の学生であった僕は、三木先生のお誘いを受けて、河田町へとでかけたのであった。先生の講義に魅了されていた僕は、実習講義の中で、「感は動なり」という説文解字の言葉とともに紹介されたクラーゲスという哲学者にひかれ、講義が終了するなり実習室前の休憩所で、煙草をすっていらした三木先生をつかまえて千谷先生の翻訳のことをうかがうや、さっそくお茶の水の勁草書房を訪ねたりしていたのだ。解剖学実習が終わっても先生の講義がうががいたくて、下の学年の講義や芸大の講義に出席きせていただいたりした。オーケストラに所属していた僕は、三木先生の音楽論をうかがい、また僕の描いたパステル画をお見せした折には、自分の風景画のスケッチを見せてくださり、実は、絵をさしあげて解剖学総論の単位をいただいたりもしたのだ。
 ゲーテ自然学の集いの折には、その後二十年近くもいつづける場所になろうとは思わなかったが、結局は、三木先生に伴われて、千谷先生のもとに入局のお願いにうかがうことになったのも、偶然のことではない。臨床医を志す僕が、医療は所詮行為であり、行為が本質的に破壊的なものならば、よきにつけあしきにつけ、決定的な結果が生ずる場所に身をおいて、その結果を引き受けなければならないのではないかとご相談申し上げたところ、「吉増君、それは居直りすぎだ。」とおっしゃって、河田町への入局を勧めてくだきったのだった。
 三木先生は、認識者であると同時に芸術家の魂を持った方であった。心の学を志す立場から言えば、認識を導くものは現実に対する感動であり、認識は現実に感動する心に導かれるのでなければ、不可能なのである。三木先生は、認識のわざが、それを導く感動の妨げとなっていることを感じられた時に、自然科学的な認識の業を感じ、医学部を辞されたのではなかったのだろうか。そして現実への感動とその表現を求める場所へと移られたのではなかったのだろうか。いま、僕自身が、続いて入局した三木先生の教え子でもある仲間達と、かならずしも時代的とは言えない方向での心の学の展開にある幸福を感じているとすれば、それは、宇宙との共感性の中にある三木先生の認識の中にいると確かに感じられるからであろう。
 三木先生が倒れたとの突然の知らせに、僕はもう動けなかったが、一方でなぜか、実習講義の中での、本来血管の入らない外胚葉である脳に、人間では脳の異常な発達に伴っていわば無理をおかして血管の侵入が生じているというお話と、人生はモーツァルトの三十九番の交響曲のように突然に終わるのがよいというお話とが浮かび上がってきたのだった。個人の死は、生命の大海の明滅のひとこまであり、マクロコスモスとの共感性の中では、三木先生は、なおありありといきていらっしゃると感じられるとしても、悲しいことに変わりはないのだ。いま墓前に捧げるにたる作物を持たない僕としては、またまたつたない予感をつぶやくよりない……
 
僕たちの
いまここにある肉体が
その形象の中に明かしているのは、
古代の脊椎動物とばかりでなく
植物や
太古の原形質からさらに遡って
大地や大気とのつながりです。
 
僕たちの心が、
風や、光にときめくのは、
土や水の心との
言葉にはならないつながりを、
明かしているのでしょうか。