44. 三木先生との出会い
 
藍川 由美
 
 「ほうか、宇多津かァ・・・」といわれたその言葉は、紛れもなく懐かしい讃岐辯でした。芸大受験の最終日、三週間にわたるホテル暮らしですっかり体調を崩してしまった私は、試験官に保健管理センターに連れていかれ、はじめて三木先生にお会いしたのです。話す相手もなく、早く試験に落ちて家に帰りたいとばかり考えていた私にとっては、まさに『地獄で仏』、生き返ったような気が致しました。昭和四十九年春のことです。あとで知ったことですが、先生が芸大の常勤となられ、保健管理センターが出来たのがその年だったというのも何かの御縁でしょう。
 さて、運よく試験に通った私は、持病のこともあって早速三木先生の許に行き、その時から学部四年、修士三年、博士五年という長期にわたる保健管理センター詣でが始まるのです。私が芸大の声楽科でソプラノとしてはじめて博士論文を書くという大それたことができたのも、すべて、三木先生のお励ましと御指導のお陰といっても過言ではありません。
 一体、先生のあの別隔てのない御慈愛はどこからくるものだったのでしょうか。私のような学生は他にもかなり居て、先生の所では必ず誰かと一緒になるのですが、不思議と皆んな妙な連帯感とでもいうものを持ちつつ、その時々の仲間と同席していたことも懐かしい思い出となっています。
 私が保健管理センターに通った理由は、健康上のことは勿論、精神的なことも多く、殊に声楽家にとっての命綱ともいうべき発声の問題では、三木先生にどれほどの示唆を与えて戴いたか測り知れません。ただ、今となってはもう取り返しのつかないことではありますが、せめて私一人分の御苦労でもなかったとしたら、先生はもっと長生きされたのかも知れない、と思うばかりです。
 また、先生が私に教えてくださった、「田舎に育ったことを恥と思うな。故郷を持つものの強みを生かして、真に日本人の心を歌える声楽家になれ。決して芸術至上主義のみに陥るな。」という言葉の意味を理解できたのがあまりに遅かったことも残念でなりません。外国のものばかりに目を向けず、日本の音楽についても考える、しかも芸術的なものだけでなく、大正時代以降に生まれた童謡や歌謡曲などが、なぜ大衆に支持されているのかということも考えていかなければならないと何度も何度もおっしゃって下さったのに、そしてそのために、『童謡を歌う会』をもつように強く勧めて下さったのに、私の視点はなかなかそちらには向かず、先生の訃報をきいた時には、足元がすっかり崩れ落ちてしまったかのような激しい後悔と絶望感に襲われるだけでした。
 先生がお亡くなりになって、もう一生ご恩返しをすることのかなわなくなった私に、どんな道が残されているのかと考えた挙句、『童謡を歌う会』を始めることにし、昭和六十二年十二月に第一回昭和六十三年七月に第二回、そして今年の一月に第三回を行ないました。この歩みの中で、先生の本当におっしゃりたかったことが私の心の内に刻み込まれ、その教えのもとで歌を続けていけるような気がして、深い感謝の念とともに、音楽を愛する歓びを噛み締めております。そして、年代は違うけれど、先生と同じ瀬戸の内海の潮に洗われて育ったことを誇らしく思える昨今です。
 私の心からの歌声が先生のもとにとどきますように・・・・・。合掌。
 
(声楽家・学術博士)