45. 三木先生と上野によせて
 
有森 正道
 
 この文集から多くのことが語られ、多くの真理に近づく人々が増えると思う。私は芸大で美術を専攻したことで、一つの総合的な理論の創世記に出合った。一般教養科目でしか扱われない講義が、まるで専門科目のような生意気な様相で私の生活を支配しはじめたのである。それが私たちが遭遇した『生物』の授業であった。単位を取った後も、学部、院と時間の許す限り出かけて聴いた。三木先生の講義は面白い!皆そう思ったようである。単に名物教授の面白講座ではなかったからである。長年に経って先生の講義を聴講するものが後を絶たなかった。
 美術は加算される感情、高まる情熱から生まれると思いがちだが、むしろ虚の力が重要な世界でもある。間、余白、など、造形には絵の具を取りさっていく、仮面を剥ぎ取ってしまう力も要求される。人生に裏表があるように、美にもそういう面がある。私たちが受けた日本の教育は、加算混合であって、加算する知識によって知らず知らずに、本質を見れない人間に育ってしまう。絵の具の加算混合は、グレーに近づくのです。
 三木成夫先生は大変な勉強家だったときいていますが、壮大な無駄、遊びの世界を、私たちの変形した心に示されたような気がする。絵画技術を学び得たことも大学での成果であったが、表現することや生きることに対する間を持つに至ったのは、三木先生の『生物』「形態学」に負うところが大きい。医大での先生の業績なども知りたいのですが、他の方々の文で少しは知り得るかもしれません。
 上野での三木先生は実にユニークであった。ビールに杯が重ねられる度に、やさしいまなざしで自然と人間を語られた。「やあ、よく来たね。ちょっとこのデッサンの線みてごらんなさい。ボナールの線だよ。君のデッサンの線と共通している。解放された虚の線だよ。」私はいつもスケッチブックを持参し、志向する世界を話した。実のところ、研究室に入ると先生の方から「さあこれのぞいてごらん」。とぎょっとする驚きの内にアイピース内の世界にひき込まれた。そこには胎児の顔があり私をみつめていた。多くの学生が生でこの姿を見せていただいた。先生の生命を解く態度は生命の尊厳をいつも意識されていて、私たちはそのことで救われていた。美しい標本たちは「見てごらん」という先生の最高の教授で、まさに生きていた、その形姿を見て、一人の人間の重みを一瞬にして感じることが出来た。形態のもつ時間を超えたエネルギー。
 三木先生の研究室でのこの体験は、その後の自分を明らかに変えた重大事件であった。私の青年時代に出合った数少ないこの身体で感応するうつ震えるような体験だった。ほんとうに先生の講義は、実に丁寧な準備に裏付けられ、教室では平易に解説されたので、ある者は、あたり前のことを述べる先生だと思い込んだそうだったのである。講義での先生の印象は、始め、虚ろな表情やボソボソの語り口、白いしみの付いた革靴等が心に残った。それは、実は講義の準備で数日を費やし、芸術的なスライドなどを制作され精根を傾けられたためと知った。靴の白いしみは、始めは解剖の汁か体液のしみかと思って気味が悪かったのだけれど、後に雨に濡れただけだと知った。偏見の愚かしさである。
 時と共に先生は私の意識の世界を拡げてくださった。東洋も西洋も超越した世界は、宇宙との対応を必然的にし、自分と世界との対話が生まれはじめた。ああ、創れるぞ、という気になってきた。今や上野の杜に先生の後ろ姿を見ることが、かなわなくなった。先生お元気ですか!何百人もの芸術家が先生に出会い眼を開かれたのです。このことは、大学という教育機関では驚くべきことでした。「アッハハ……」。私がみつけた宝物のガラクタをみて先生は子供のように好奇心を持たれた。先生が亡くなられて二年、語り尽くせない感謝と尊敬を捧げたい。今日も又、皿の裏をのぞいたり、雲の流れを、十時間眺め続けるかもしれない。
 昨年、亡き先生宅で奥様や息子さんお嬢さんを知った。何年もスライドで見せていただいたので、赤ちゃんのころの面影が懐かしく、大変嬉しかった。自分に子供が生まれて、講義で語られたことが、少しだけ分かったようなこのごろです。この度、この文集が発刊されることを知り、先生を語ることが出来、大変幸せに思います。先生ありがとうございました。      合掌
 
(画家)