46. 菩薩の行――三木成夫先生の想い出
 
井出 善空
 
 恩師の訃報に接するのはこれが初めてではない。が、三木先生の死は実にショックであった。三木先生の暖かみが他に例を見ないものであるだけに、その悲しみは大きかった。
 芸大を出て、埼玉の県立高校に勤め始めたのは、昭和五十二年だった。教職というのは雑用の固まりのようなもので、なかなか自分の時間を確保するのに苦労するのだが、それでもなんとかそんな時間ができると、決まって足を向けたのが、保健センターだった。美学研究室には寄らずとも保健センターにはおじゃましたものだ。
 昨年の一周忌そして「偲ぶ会」で、いろいろな方々のお話を伺ってみると、私などは三木先生との接触が最も少なかった部類だと思われる。にもかかわらず、先生の印象は強烈であり、ある不思議な感動を伴っているのはなぜか。
 三木先生の授業は絶品であったという。魂を揺さぶられる授業であったという。多くの学生が先生の授業に惹かれたと聞く。残念ながら、私は一度も先生の授業を受けたことはない。うかつだったと思う。そんなすばらしい授業に一度でも触れておくべきだったと思う。が、今はむしろそれに接しえなかった無念さのほうを大切に胸におさめておきたいと思う。
 先生ご自身が授業を非常に大切にしておられたということで、あるとき、科学博物館にシーラカンス(実物)が届き、先生も見に行かれたとき、その解剖とあいなったわけだが、内臓や骨格の構造を正確に知る人がおらず、思わず横から口をはさんだ三木先生が執刀する次第となった。例によって立て板に水を流すがごとき巧みな弁舌のもとにこの古代魚の解剖実験が進んで行ったのだが、授業の五分前になったとたん、しきりに感心して解剖術を見物していた他の諸先生方をあとに残して、雲のごとく立ち去り、定刻には芸大で学生たちに講義を始められたという。いかにも先生らしい話である。
 一度、お宅に伺ったことがある。きっかけは『内臓のはたらきと子どものこころ』(築地書館)という本を先生が送ってくださったことから、そのお礼をかねて、高校の同僚と二人で、上福岡の公務員宿舎を訪ねた。こじんまりした書斎に、あのナマケモノの写真が貼ってあった。このナマケモノの子どもに先生はなにか父親のような愛情を抱いておられるかのように私には感じられた。日頃愛用されている小物(文鎮や原稿用紙、ペンなど)がきちんと整とんされており、ここがあの厖大な「三木学」の発祥の地かと感銘を受けた。実に簡素で清潔な書斎であった。
 ご家族は奥様もお子さんたちもみな物静かなやさしさとでもいったものに包まれていた。休日にはよく自転車でお子さんたちを新河岸川や荒川へ散策に連れて行かれたそうだ。三木先生はおやじ業も完璧だったようである。
 亡くなる二〜三日前、テレビで、巨人―中日戦をご覧になった。新人の近藤という投手が巨人打線をバッタバッタとなぎ倒し、ついにノーヒットノーランを記録したあの試合だ。ゲームが進むほどに先生は大いに喜ばれ、「この子の顔は十八歳の顔ではない。大したもんじゃ、えらいもんじゃ。」と感心することしきりだったらしい。
 若い人を育てる。これが先生の真骨頂なのかもしれない。子どもたちに無類の愛情をそそぐのはすべての生きとし生けるものに父母のようなまなざしをそそぐ仏の慈悲と同質のものだと思われる。そのような意味で先生はまさに現代には稀な「生き仏」だったのではないかと思う。そういえば、倒れられたのも、早朝親戚の方への薬の処方を封書にしたためられた直後であったと聞く。最後まで人を救って、先生は他界された。先生の死を悼む声は今もなお続く。少しでも先生に接した方はこれからもずっと先生の「おもかげ」をまぶたに浮かべるだろう。どなたか言われたように、また先生から電話をいただいたり、ひょっこりお姿を見せられるような予感をいつまでも抱かせる。
 あそこにいけば三木先生がおられる。そういう存在感のある方であった。
 そんな三木先生のいらっしゃらない芸大。最近はあまり芸大にも足が向かなくなってしまった。
 
 
東京芸術大学美学修士課程修了
埼玉県立鷲宮高等学校教諭
高鍋山善教寺 関東連絡所主任