5. ああ、火宅に生きた(?)碩学
 
伊沢 凡人
 
 それは、或る酒を汲みかわしながらの時のことだった。
 両手で、ゴマ塩まじりの髪の毛をなぞるようにかき上げながら――“井上がネー、僕が医学部へ入学したと聞いて、こいよこいよと盛んに言うたんです、ハー---。しかしああいうところへはちっともよう行く気にはなれんのです”――と、笑いながら述懐されたので未だによく憶えている。しかし、ああいうところの意味(中味)についてはもはや知るすべがない。
 ところで当時のスルガ台一帯には内科教授をしていた稲田龍吉の屋敷があり、外科ではスクリーパのあとを次いで教授になった近藤次繁の病院があり(今、NTTの建物のある角のところ)、耳鼻咽喉科系ではドイツに留学しその学会設立や専門誌創刊などに奔走した金杉英五郎の病院及び耳科新書を著した賀古鶴所、それを継いだ弓弦の病院があり(金杉は今の杏雲堂のところに、明大のある通りに面して、賀古耳鼻科は、今の額田病院のあたり)、婦人科では、今も続いている浜田病院が(浜田玄達は、ドイツからの帰国后、兼任のベルツ教授のあとをつぎ婦人科教授)、また眼科では今も続いている井上眼科があり(井上達也は眼科教授兼任のあとスクリーパの助手をつとめ、この方面の先駆者)で、ともかく錚々たるドクター達が、りっぱな病院を構えていた。(敬称略)
 そして―“井上がネー”と言われた井上はこの井上眼科のことである。しかも丸亀の実家の三木家へは、ご母堂が、井上家から嫁がれており、ふつう、男の子は母親の実家のほうに、より親しみを持つものとされている。にも拘わらず虫が好かんといわぬばかりに、―ああいうところへは行く氣になれん―と言うのだから、これは三木先生らしい頑固さ、個性の強さ、純朴さのためと忖度するしかない。
 今、純朴さと書いたが、だから頑固さの一方では、柔和で豊かな感性を持ち、それが同居していたし、ゲーテ、ボルグなどにも強く惹かれ、生きかたそのものの中に詩と、いい意味での幼兒性が溶けこんでいたと思える節がある。常に生物とは何か―の夢を追い続けるすばらしい学者として、誰にも、は真似のできない純粋性と素朴さを貫け得たのもそういうご性格のせいであったろう。
 ところで一九五〇年代から一九七〇年代へかけて、わが国の思想界に問題を提起した吉本隆明氏は、キリストについて、「自己愛と緊張症との入りまじった夢想家的なイエスが、現実のささいな場面に足をすくわれてつまづくさま」が、――何げなく、そこかしこに描かれていると言って、マタイ伝の作者の底意を絞りあげているが、ふと思い出すと、三木先生の体質の中にも、どこか、それに似たところがあった。
 それはいずれ定年になることだし、今のうちに官舎から出て、ご自分の城を持たれてはどうですかといった話を交わしたころのことである。――“子供がネー、寝にくると僕は仕事を中断して、机を片づけなければならない---”(しかし、そう言いながらお顔はほほえんでいた)―とか“僕の全財産は、先生、これだけ---”などと言われて、洗いざらい見せられたり、そこで偶々財団の薬草園用地捜しに歩いていた僕は、筑波学園都市周辺へも御一緒したことがある。しかしこの話は結局、お気には召しながら、結実しなかったが、当時を振りかえると、いわゆる“三木学”の完成へ向け生命をかけていた故人が“現実のささいな場面に足をすくわれている”ようなところが垣間見られ、人間「三木」の綻びを、微笑ましく感じたりしたものだが、今はそれもなつかしい思い出の一つになってしまった。
 さて、これも何時ごろのことであったか、日記をつけたことのない僕のことゆえ定かではないが、鉄の製錬の和法に詳しい、という大家のところへ案内された時の道すがら、偶々僕自身の大黄研究について、ささいな苦労話をしたことがある。
 下剤は泥沼に足を突っこむようなものだから、手をつけぬほうがよいと言われていた頃のこと、いよいよ取りかかってみると、大黄に関する文献はいくら調べても見つからず、その生体内作用機序に関する研究はセンナばかりで、しかも当時は便秘は腸管の弛みによる為だから、下剤は腸管を刺激するものだという考えかたが支配的であった。――しかし手をつけてみると今までの考えとは反対で、生薬下剤の多くは弛緩像を示すから便秘の多くは弛緩ではなく攣縮性ではなかろうかと、まァそんな與太話をしたところ“フーン、それはスパスティッシェ・レームング、假仮性近視もそうで、同じでしょう”――と、その反応の即妙さにびっくりしたので今も記憶に新しいが、思えば、故人と筆者の交わりは、この大黄話が契機でぐんと深まりを増し、定着したのかもしれない。
 だが更に敷衍して言えば、それは“排泄”―の一語に尽きようかと思う。解剖畑出の故人とは、あまりにも違う生薬療法の細道をとぼとぼ歩いてきた筆者が、御他界まで、長く辱知を得、続けられたのは、多分それしかない。
 たしかに故人のスタートは解剖学であったが、それに飽きたらず、広く、かつ深く発生・進化の仕組みや生物の態様を問い詰められ、その成果は一応『生命の形態学』に凝縮されつつあったが、おしくも半ばにして、いわば中絶していまった。
 前記の吉本隆明氏は、マタイ伝試論の中で―「予言者は故郷や家では軽蔑されるもの」と指摘しているが、生物の進化の本質に、或いは生物の正体に迫ろうとした先生は、それ故に既制のジャンル(故郷・家・学会)からは食(は)み出さざるを得ず、その厚くて硬い壁と衝突しながらその故郷(古巣)へのノスタルジア?との狭間で多分傍のものが想像する以上に、繰りかえし苦悩もされていたと僕は思う。その意味で、学問の世界は先生にとって或いは“火宅”であったかもしれない。それは、“骨学から講義をはじめなければならないような医学の世界ではネー”と、溜息まじりに言われていたことの中にも頗る端的にだが、にじみ出ていた。
 また[・・・・二十数字、執筆者の了解を得て、削除・・・・]の間のことにしばしばふれながら、“ハーッ、これはもうどうにもならん”と吐いて捨てるように言われた時の、苦渋に満ちたお顔は、あまりにもおだやかな平素のそれとはちがっていた。案外こんなところにも人間としての懊悩を垣間見た気がしてならない。学問の世界に生きる者として、また人間としてアウフヘーベンしなければならないこのような矛盾を抱えながら、三木先生は僅か三日間ほどのコーマをあとに、あっさりと西国へ旅立たれてしまった。或いはそうすることで“火宅”から解き放たれ幸せになられたのかもしれない。ふとそんなことを思い、自らを慰めている昨今である。