52. 出会い
 
桐 弘史郎
 
 今こうして更めて三木さんのおもかげを偲びつつ筆を進めること、何とも不思議な縁であるように思えてならないのである。
 おもえば青年期にありがちな人生の生死の問題をかかえ、徒らに濫費をくり返す毎日であった頃“真の人間らしさ”を求め、浦和の故富永半次郎先生宅へ伺うようになってしばらくして、三木さんを知り得たような訳である。当時はまだお茶ノ水の高台にいらして、後上野の杜へ移られるのであるが、いったい如何なる人物であるのか、富永先生から“これ程迄私の言うことを解ってくれた人物はいない”とまで言わしめた人物であることは知っていた。昭和四十八年、東京芸術大学へ職場を移された時、頂いた文に、「ここ東京芸術大学では、美術・音楽両学部の学生教職員各位の健康相談を受け持ち、併せて生物学(Morphologie, Goethe)の講義を担当いたすこととなっておりますが、私にとりましては、この二つの職責は人間の「生の形成」にかかわるまことに厳しい理論と実践の両道であることは更めて申すまでもありません。
 いまをさる廿年の昔、医学部の生活を捨てて生涯の地を上野に求めた、その当時の青春の夢は、やはり今日までこの人生を根底から支え続けてきたものの如く、今回の移転は、いって見れば、鮭やスペルマが“生成の故郷”を目指して激流を逆らってゆく――それは永遠回帰の一コマに誓えられるものではないかとひとりで思っている次第であります。」と記述されていたのである。
 そうであったのか!あらためて驚くと共に親しく接して下さる姿に、身に余るよろこびを感じたものである。その人柄については到底筆述できるものではないが、私なりに、それもはんの一部を素描できればと、記憶を辿りながら紹介してみようと思う。
 あれは確か第三回目かの個展を銀座“ノヴァ”で開いた時のことである。初めて会場に見え、当時、私は人体の“腹面と背面”の極性を形象したような作品を描いていた頃で、その作品を前にしてのそれはもう驚くべき入念に吟味に耽っていかれ、もはや作品を見ているというよりは、その中に埋没している一切のものを引き出して納得のいくまで見極めないではすまされぬという肌目の細かい観察である。次第に御自身の創作体験と結びついて他人の作品を見ている中に御自身の創作の内奥に移入して、その上でさまざまな自問自答が始まるというような、その作品の図の構え、面の置き方、緑の交わり具合から色彩効果、造形表現のそれぞれの要素をこまごまと見分ける。それは他人の作品の中のことであるより、既に三木さんその人の創作の問題に拡がってゆき、内部構造の一つ一つが合点のいくまで、撫でまわすようにしみじみと見尽くされるのである。その直観的な見方が、後に私の創作過程に大いなる刺激を與えることとなるのである。ともあれあれから十三年有余の間、発表をする度、展覧会場に歩を運んで下きり、私なりの変容を見守って下さったのである。
 比較発生学、古生物学と人類宗族発生との関係をグラフで示され、「原形とその変身」によって形成されたというゲーテ形態学の根本理論、著書『内臓のはたらきと子どものこころ』『胎児の世界』等々に詳しく述作されているので、ここでは省くこととし、丁度逝去なさる半年前、研究室に伺った折、「いやア、よく来たネ」と温かく迎えて下さり、話がゲーテに及んだ際、畢生の大作『ファウスト悲劇』第二部第五幕「神秘の合唱」ゲーテ直筆のコピーと、富永半次郎訳
 
ものみなのうつろふからに
さなからに色とりとりにうつるなる。
かけてしも思はぬことの
こゝに起き
ことはにも筆にも堪へぬこと
こゝになる
とこおとめおとめさひすとなよよかに
われらひかれてをとこさひすも。
 
「この富永先生の筆跡を毎日見ながら想うのだヨ、自然は、知識や科学の手が隈なく届いたり、さらには知識、科学によって追いつめたりなど到底できるものではない」とつぶやくように語られたことを、今でも瞼を閉じれば、その儘鮮明に浮かび上がるほど強烈で深い生の秘奥に触れるおもいであった。
 このような一個の人格を失ったということ自身が、とりかえしのつかない悔恨でもあり不幸でもある。それはすぐれた学者の死というものからくる哀惜ではなく、かけがえのない人間から離別してゆくという身をきるような悲しみである。しかし、
「朝に道を聞けば、夕に死すとも可なり」
であろう。
三木さんが身を以て示されたたゆまぬ学びこそ、今後の私自身の課題と受け止め、精進する覚悟である。
合掌

(画家)