53. 三木成夫先生を偲びつつ
 
工藤 不二男
 
 昭和四十四年度後期に、三木先生が芸大で担当された「骨学」の授業を受けて以来、およそ二十年近くの間、先生には公私に亙って御指導頂いたことになる。その間、私を惹きつけてやまなかった三木先生の学を、もし一言で言い表そうとすれば、それはPhylogenieの究明とでも言うべきであろうか。そしてそのPhylogenieの世界を、シェーマによって表現するべく、三木先生は作図に大変打ち込んでおられた。たとえば、講義に使われるさまざまなシェーマのプリントにしても、傍から見れば十分完成していると思われるのに、何年かすると決まって描き改められていた。このことはそれを知る人達に深い印象を残したに違いあるまい。あるとき、三木先生は、
「シーラカンスがシェーマとして、やっとおさまったよ」
 と、最新のプリントを手渡してくださった。それまで私にとってシーラカンスは、たとえばポリプテルスやオーストラリア肺魚などの場合と較べて、自分のなかでの位置づけが、もうひとつ明確になりきれずにいたのだった。しかし三木先生のシェーマを見た途端、シーラカンスがいったいどういう生き物であるのかということが、一瞬にして解った気がした。
「あれは魚の先祖とよく言われるがなあ、あの一種独特の孤独な感じは、どうも他の魚とは異質なんだよ。あれは、一度上陸しかけたものが、また海に還ったかたちなんだなあ。シーラカンスの鱗の動きには、君、爬虫類の手足のにおいが感じられはしないかね。」
 そのとき私はシーラカンスの写真や映像に触れたときよりもはるかに、シーラカンスの特異な位置、その存在の凄さを悟らされたのである。
「この世界は、百万遍ことばを弄するより、やっぱり図がすべてだなあ。」
 今になれば、ふと洩らされた先生のそんなことばにもなおさら頷かされるし、また一方で、先生は骨身を削るような細かな作図によって寿命を縮められたのではないかと口惜しく思われもする。
 三木先生がそのように、納得のゆくまで図版に手を入れられたのとは全く対象的に、昨年亡くなられた「人体美学」の西田正秋先生は、出版したものについて、一切の手直しをなされない主義だったようである。西田先生の著作が現在手に入りにくいうえに、紙質も印刷も良いとはいえないものだったので、新版の御意向をお尋ねしてみたところ、西田先生は「続編なら出す」とだけしか言われなかった。そこで西田先生の真意について、三木先生のお考えを伺ったことがある。
「西田先生は、一旦世に出したものには金輪際、決して手を入れないという潔癖な信念を持っておられるのだ。そりゃ、もう、ヤクザ顔負けの義理固さだよ。」
 それが三木先生のお答えであった。妥協を許さず、何度でも修正に修正を重ね、最上のシェーマを追究し続けた三木先生と、一度自分の手を離れたものにあくまで殉じる西田先生と、その対処の仕方は両極であったが、いずれにせよその徹底振りは余人には到底真似のできないものであろう。
 ところで亡くなられる半年程前のこと、三木先生はJ・ニーダムとお会いになった。『胎児の世界』で述べられているように、Recapitulation―― 個体発生は系統発生の短い反復 ―― を化学的に証明したJ・ニーダムを知って以来、しかもその彼が近来、老荘思想と神道を考察しているとあって、三木先生は大変に、ニーダムを意識しておられた。『胎児の世界』で伊勢神宮の式年遷宮に触れたのは、それが「いのちの披」のひとつの典型として捉え得ることを、何をおいてもユーダムに掘示したかったからだと言われる程であった。ところがそのニーダムとの会見の後、三木先生からは、
「結局、彼は道教(タオ)なんじゃ。」
 という失望のことばしか伺うことができなかった。道教や神道への傾倒と彼の発生学との関連を三木先生に問われた際、ユーダムはそれを否定している。つまりニーダムが、道教あるいは神道へと目を向けたのは、単に、非西欧的なもの、オリエンタリズムに対する興味に他ならなかったということになろうか。したがって、「いのちの披」について深い共感を覚えるはずの人物と期待し、生涯のライヴァルと目していたニーダムに、三木先生が感じられた失望は計り知れないものであったのだろう。日頃、「何事であろうと、最後は人品勝負」といわれ、また、力量の優れたものについては心からの敬意を表されていた三木先生から、ついにニーダムの人品人柄に対するそのような賞讃のことばを聞くことはできなかったのである。
 『胎児の世界』の再版にあたって、三木先生はシェーマの一部に更に手を加えられた。
「工藤君、図がすべてなんだよ。世界中どこでも、わかる人間が見れば、それだけでわかる。」
 三木先生が常々ロにしておられたそのことばを思い出すたびに、それはまた、絵画や形態学に携わる者にとって、大変厳しい叱咤のことばのようにも聞こえてくるのである。
 
(日本画家・美術解剖学)