55. 三木先生
 
小町谷 朝生
 
 三木先生に最後にお会いしたのは、先生がなくなられた年の七月の末に近い日だった。格別の用件といったものもなかったように記憶する。軽い食事を摂りながら、小一時間ほど研究の話にも触れながら今後のことを語りあった。その折りの話の内容は記憶に薄いが、先生の熱意に満ちた顔や態度は鮮明に思い出される。だから、二週間ほどの後に田舎にいて急逝の報せを受けたときの衝撃は、何とも信じ難いという只それだけだった。その想いは今も変りない。今だって、亡くなられたというそのことすら、自分としてはまだ信じ切れてはいないのである。
 もしもう数年、先生がご存命だったら、もしかして肝胆相照らすというお付き合いが可能だったかもしれなかった。先生の着眼と私の考えがある点で一致していたし、また先生も私の研究分野で一緒にやりましょうと言って下さっていたからである。
 三木先生は数年前から急に酒が弱くなられた。亡くなられる年に入ってからは殆ど飲まれなくなった。それと同時に思考が断片的で気ぜわしくなられた。それらはお体の変調があることに当然気付くべき徴候だったのだ。だが、先生は医学の専門家だという前提が私の盲点となった。或る件に関して先生が心身を消耗し切るほどに苦悩されていたので、きっとその影響だろうとばかり考えてしまっていたのだった。
 明るい先生だった。それは先生ご自身についてだけでなく、周囲を照らす光りという意味でもそうだった。体ごとでしゃべる熱弁が沢山の学生を惹き付けたのは当然だった。エゴセントリックな芸大の学生にとって真の教師といえる方だった。一周忌の席で伺ったヴァイオリンを抱え絵筆をふるわれた先生の側面をもっと早くから知っていたらまた別のお付き合いをしていただけたことだったろう。今も時々三木先生だったらこの問題にどう切り込むだろうかと考えることがある。私の胸の中の先生が、そうすると答えを手助けしてくださるのだ。私の心のなかには、わずか七、八年のお付き合いとは思えぬ探さで、まだまだ三木先生は生きておられるようだ。
 
(色彩学、東京芸術大学)