57. 三木先生のこと
 
白石 晃子
 
 三木先生と初めてお目にかかったのは昭和五十二年の4月、でした。
 私は東京芸術大学の美術学部美術解剖学専攻の大学院生になったばかりで、どうやったら手早く三木先生の生物の講義の出席を採り、プリントを配り(その前に印刷もしなければなりませんでした)、スライドを映写機にセット出来るか、頭を悩ませていました。もちろん私一人でこの準備をした訳ではありませんが、これは毎年主に1年生の仕事というのが慣習で、不幸にもと言うか幸いにもと言うべきか1年生というのは私一人、院生全部でたった二人。芸大の休み時間は5分、でも先生は講義の前に必ずコーヒーを一杯飲んでいらっしやる…そのコーヒーがなるべく熱い事を願いつつ、奉仕者の特権として一番最初に好きな席を自分のために確保してから、バタバタと走り回っていました。でもかなり一所懸命に努めたにもかかわらず、どうしても先生のお気に召すように黒板を拭いて置くことができません。黒板を縦に拭き横に拭き、もう一度縦に拭いておくのにだめなのです。毎週先生は丁寧にやり直されました。思うにあれは一種の儀式だったのでしょうか。
 講義のノートを採りながらやがて気が付いたのは、三木先生の講義を聴いている学生の中にだいたい決まった席について何年も聴いている常連達がいることです。そういう人達とは、保健センターの三木先生のお部屋を訪ねると時たま相客になりました。先生の部屋には色々な人が出入りし、色々な人の持って来る色々な物もあって、椅子に座って先生の手の空くのを待っている間、随分楽しませて頂きました。私にとって先生のお部屋は時には駆け込み寺であったり、時にはマジメに学問の場であったりしましたが、私の質問に先生は本棚から一冊本を取り出し「私は本ちゅうモンは読まないんだ。読まないけれどこうやって手に取ってだな、パッと開くとそこが必要なところなんだ。まさにピシャっとくるんだよ。」と本を開くとそう仰有って「ウン、そうこれはだね……。」説明を始められるとあとは先生の方が興が乗り、最後は両膝を揺すって呵呵大笑。二時間ぐらい経っている。私は途中で解らなくなり、未消化の荷物を抱いて保健センターの扉を出ることになります。今考えると、(何と勿体無いことを   もっとちゃんと伺っておけば良かった)と思いますが、あの時は何がどう解らないのか判らなかったのだから仕方ありません。
 未だに判っている訳ではないのです。私も一八才のときから十数年美大に片足を突っ込んで過ごして来ましたが、だいたい美大生という輩、(そんなに阿呆ではないけれど)人の話を聞くとか他人の思想を理解するという点では無能なんじゃないかと思うのです。
 結局私は三木先生の生物学のレポートが書けず、まだ書けていませんが、決して忘れた訳ではありません。最近雑誌を読んでいて思いがけず三木先生のお名前に出会いました。そこでは芸大の三木先生とは違った、学者三木成夫先生の顔をしていらっしゃいました。また講義中に先生の声で伺っていたことを改めて読んでみると、すこし判ったような気になれました。今先生に色々お尋ねできないのはとても残念です。
 先生の講義の中に出てくる面影のように形にならないものの形や、食と性の位相交替の性の相のその後について出来れば、うかがってみたいと思っています。以前水族館や温室で形の向こうに意味を探すと自在に見られた夢がこの頃見られなくなりました。意味は形の背後にあるのではなくイコールだと考えると、形と意味とを二つに分ける必要もないということでしょうか。こんを事を質問すると、また講義室の後方付けをしていたときに時々声をかけて下さったときのように
 「どうだ、わかったか? 判らないだろう。あなたの顔を見ながら、わたしはワザと神経を逆撫でしてみとるんだよ」と言われそうですが。
 そして時々、講義室の常連の誰彼と一緒に、飲みに連れて行って下さいました。私、極く真面目な学生だったのですが、そのときのお酒や肴の味のほうはともかく、貴重だったに違いない話の内容の方の記憶がどうも今一つ定かでないのはどういう訳でしょうか。
 本ばかりでなく、三木先生のお蔭で人と知り合うことも作品と出会うこともあります。ただしそういう友人達との間では、決して生物の原形や形象や分節や螺旋の話にはならないですけれど。こういう人間達のこと、どんな芽が出るか判ったものではありませんが、先生は私達にたくさんの種を蒔いて下さいました。
 三回忌を前に三木先生に心から感謝を込めて御礼いたします。
 
(東京芸術大学 美術解剖学科修了)
(東京造形大学講師 他)