59. 三木先生の想い出
 
竹内 俊雄
 
 三木先生の人となりやエピソード等については、浦和の富永先生の御話しを拝聴に集まる人達から折に触れ、お聞きしていた。初めてお会いしたのは富永先生の告別式の際であった。火葬場で富永先生の透き通るような小さな骨を思わず手のひらにのせ、その死を惜しみ、いたわるようにして最後に壷にそっと入れられたのが三木先生その人であった。
 そして、二度目にお会いしたのは富永先生の一周忌で慶安寺においてであった。帰りしな、門の所で、二、三歩近づかれ、「遊びにいらっしゃい。」と言われたのを今でもはっきり憶えている。
 その後、間もなく私は医科歯科大学に先生を尋ねた。厖大な研究資料や器具、山と積まれた標本などが所狭しと置かれており、文字通り足の踏み場もない状態であった。
 先生と一緒に研究室を出て、お茶の水駅に向かう橋の上あたりで、浦和での三木先生の手紙が話題になった。
 私は「先生が富永先生から脳出血のお話しを伺った後、古生代カンブリア紀から五億年、一気に駆け抜け、心臓がハァハァ言って落ち着かなかった。と言われたそうですが、シャカの場合は永遠を駆け抜けて従容としている。と言うことですね。」と言うと「う−ん」と言われ、十数歩あるかれて、やおら「あなたのおっしゃる通りですね」と言われたのには私も逆に驚きを感じたのであった。
 爾来、先生から二十数年の長きに亘り、計りしれない薫陶を受けることになったのである。
 先生からいただいた多くの著書の中でも、「解剖生理」は看護学生の為に書かれたもので、著者名も価格もない、デューラーのアダムとイブの扉絵に初まり、ゲーテ最晩年の顔写真を載せた、およそ医学書らしからぬいかにも三木先生らしい冊子であった。看建学生には好評であったが再版のできない、いわくつきの出版となったとのことである。最もあの「胎児の世界」は西欧で、仮に出版すれば、鳥コゲかも知れないと、先生御自身が天理やまと文化会議の井上氏との対談の中で言われているように、当世の「悪魔の詩」どころではなく、いままでの常識の枠をはるかに越えた驚くべき、まさに一大事の出版であろうと思われる。
 その他「理想」、「内臓のはたらきと子どものこころ」、「モルフォロギーに関する小冊子」など再三に亘って送って下さったのである。
 先生は一九七三年、第三十七回日本循環器学会総会で解剖学的、生物学的見地から、「究極の生き物である人類にとって、今後の進歩は期待できない。大急ぎで人間本来の婆に戻らなければならない。」と結論すると、当時、錚々たる脳の権威者が皆、つまらなそうな顔で聞いておられるのも気にせず、喋り切って壇上を降りられたという。実際、この時を以って先生は医学界と決別されたのであった。
 それから程なくして、先生は医科歯科大学から芸大に移られた。それは、姿、形の世界、モルフォロギーの研究(会員は自分一人)の絶好の場として上野の森を選ばれたということである。そしてスライドを駆使した先生の名物講義が始まるのである。
 それは、美術、音楽の学生はもとより、他大学生、フリーの聴溝生と大変な人気であった。確か、初講義の帰り、先生は上野公園を歩きながら、「これから浦和のことを上野の森でやりますよ。」と自信と矜持に満ちたお顔で言われたのを、つい昨日のように思われる。事実、そこでの講義は先生が亡くなられる直前まで続いたのであった。講義後の二次会の保健センターには必ずといっていいほど常連が集まった。先生は正に、水を得た魚の如くお話しは延々と尽きず、時には三次会(ハゲ天)まで盛り上がったこともあった。
 ここでの貴重な資料や標本にはいつも瞠目したのである。圧巻は何といってもあの胎児の標本であった。先生をして「医科歯科大学二十年の最大の成果は、この標本が手に入ったことだ。」と言われたほどである。それはきれいなシャーレに収められていた。やがてその胎児の昔を切り落とされ、その顔に宗族発生のおもかげを発見された驚き、先生自らそれをドット描法でスケッチされたことなど人類史上、初の快挙と思われる出来事にもかかわらず、淡々と語っておられた。「胎児の世界」はこの時期に先生が著されたものである。
 また、先生には高崎に四度、講演のためにおいで戴いた。初めて、高崎に来られて、一泊された時、拙宅で、私がヒマラヤで描いた絵を見ていただいた。先生は「う−ん、雲が動いているね」と言われ、その後も「あの絵は今どこにあるか」と再三聞かれたことを想い出す。
 高崎での最後の講演は昭和六十二年三月二十八甘で、演題は「こころ・あたま・からだ」であった。講演後の質問で内臓に触れる具体例として、芸大の野口体操の例のレポート(ウンコをつかむ方法)のくだりで会場は笑いの渦になり、実はモーツァルトも盛んにそれをやっていたようだと話され、講演は最高潮に達したものである。先生はこの講演の何日か前に、かの生物学の碩学、ジョセフ・エーダムに会うことの出来た喜び、見送りに行かれて、その大きな手に最後の握手を交わしながら内心、自分は「勝った。」と実感されたことなど二次会で話された。
 この一ケ月半後、東大五月祭での講演が事実上、公での先生の最後の講演となった。その折「最近、医学部で静かな三木ブームが興っているんだよ。」と。それは「歴代、医学部の目玉展示物、例の“一ッ目小僧”と“人魚”の標本を、解剖学的、生物学的立場から初めて説いたことによるんだ。」と話しておられた。
 先生は「螺旋とDNA」「双極性」「リズムとタクト」「サケの回帰性」「メビュスの∞と相撲の弓取式」「食・性・眼」「永遠周行」のことはよく折にふれて言われ、自家薬籠申のものとされていた。また「蟷螂の尋常に死ぬ枯野かな」(其角)「この一句で、生物界の本質がすべて言い尽くされている。」と絶賛されていた。
 昭和六十年朝日カルチャーで「からだの階層構造」と題された講演後、「単細胞から人類に至るまで、気が遠くなるようなと言っても言いきれないほどの壮大なドラマがある。しかし、これを表現するのには相当な力量の持主でないとなあ−」と言われた事が今でも妙に私の心から離れない。「ジャマイカ海岸で録音した波のリズムが十六秒で、正に延髄のそれとぴったり一致することが分ってから、もう何もすることがないのですね」と話されたのが保健センター最後の夜であった。
 五蘊(感・覚・知)の五感(眼・耳・鼻・舌・身)における成り立ちと仕組、その反応作をモルフォロギーの立場から解剖学的、生物学的に洞察、実証し尽くされた。いわゆる異端を攻め極め、味到されつつ人の道を鋭かれた。先生ほどの天分に恵まれた方は恐らく人類史上、空前にして絶後ではあるまいか。それに、その人と同時代に生まれ合わせた感動とその余韻は、私の中で消えることなく、今もつづいている。と同時にかけがえのない貴重な教えを受けた自分は、無上の幸せ者であると先生に感謝せずには居られない。
 先生が茶毘に付されて戻った自室の本棚に、さやかちゃんと成能ちゃんの乳歯がかわいいスクリュー管に納めてあるのを発見して、先生の心深い、優しさと暖かみを今更ながら垣間みると共に、晴天の霹靂とも言うべき、突然の別れが夢であって欲しいと願わずには居られなかった。
 「シルル紀の杳き地層のその上を
   海の蠍の吾も住みけむ」 成夫
 年賀状もこれが先生からの最後のものとなってしまった。ただ先生の心安らかな旅路を祈るばかりである。