6. 三木成夫さんの思い出
 
石井 敏弘
 
 三木さんとの初対面がいつだったかは、よく思い出せない。しかし、彼の存在を初めて意識した時は、はっきり覚えている。それは札幌で解剖学会総会が行われた、昭和三十三年七月のことである。
 青函連絡船を下り、函館駅のホームで入構する札幌行の急行列車を待つ間、はしゃいでいるという方がよい程楽しげな一団があった。学会に出席するどこかの大学らしいことは分かったが、まだ誰とも面識はなかった。
 列車は長万部で相当長く停車した。乗客のかなりが、学会参加者のように見受けられたが、その多くが、名物のゆでガニを求めてホームに下り立った。僕はその時、結婚して二年目の妻を同伴していたが、二人でホームに下りてカニを買った。例の一団は、ここでも相変わらず陽気に振舞っていたが、その中心は細身で中背のひょうきんそうな男性であった。この他、駅の周囲が開けていたこと、長万部発車後、列車のドアの取っ手がカニの脂でベタベタになったことなどが記憶に残っている。
 挙動が目立っていたので、見覚えがあり、やがて三木さんと知り合った時、「こっちはあの時から知っている」という気持ちだった。
 その一、二年後、三木さんは奥さんと一緒に南三陸を探勝し、帰途、仙台の解剖学教室に立ち寄られた。独立の建物だった二階建木造モルタルの当時の教室は跡形もなくなり、今はその場所は星陸会館という厚生施設となっている。
 僕の居室だった、第三講座助教授室のすぐ脇の、教室の通用口で、三木さん夫妻を出迎えた時の光景は、不思議なくらいはっきり思い出すことができる。
 三木さんが仙台に立ち寄られたのは、浦 良治先生と会われるのが目的だったはずだし、席を設けて歓談した記憶もないので、立ち話だったのだろうが、その時初めて三木さんと、話らしい話をした。
 三木さんは三陸に大層惚れ込み、是非もう一度来たいと言い、他人にも推奨してやまなかった。それから少しして、誰からだったか、三木さんの夢が、停年退職後、粋な小料理屋を開くことだというのを聞き、この人の内奥のひだの深さを垣間見る思いがした。
 その翌年の夏休みではなかったかと思うが、三木さんは浦先生の血管注入標本を使って、脾臓と胃の血管の発生学的関係を調べ、脾臓の発生の場を、胃の血管が規定していることに気付いた。この研究こそは、恐らく三木さんをして、形態形成の殿堂の入り口の扉を押し開けさせる、彼にとって文字通り画期的な契機であったに違いない。
 文章といい、附図といい、丹精を極めたその論文は、間もなく解剖学雑誌(第三十八巻、第二号、一四〇−一五五頁、昭和三十八年)に発表された。欧文の記述としては、日本語の本文に独文抄録と、同じく独文の附図説明が添えられているに過ぎないが、この仕事は、ティッシェンドルフ(Tischendorf)によってメェレンドルフ・バルクマン(Möllendorff-Bargmann)の人体顕微解剖学叢書(Handbuch der mikroskopischen Anatomie des Menschen)第六巻、第六分冊、一九六九年に大々的に取り上げられた。優れた論文は、抄録だけが欧文でも、その内容は国際的に十分評価されるという、典型例の一つである。もっともその抄録の独文たるや、尋常一様のものではなかった。三木さんから聞いたところによると、それは、夭折された東大病理学の異才・鈴木 遂教授の高弟の一人、東京女子医大病理学の松本武四郎教授が、三木さんの意気に感じて、渾身の力で添削されたものである。
 このあと三木さんは、脾の発生の場の必然性を、もう一つの“欠けた環(missing Link)”であるニワトリで、今度は彼自身が行った注入標本を用いて確証するのだが、この前後三年間は、僕自身が日本にいなかったこともあり、前の時ほど詳しくは話を聞かせてもらえなかった。
 昭和四十二年に掲載された、萬年 甫教授との共著“脊髄血管の解剖―その史的展望―”や日本消化器外科学会総会での特別講演“胃の血管系の Genese について”の抄録には、教材としても大いに恩恵に与った。しかし直接言葉を交わす機会がなくなったあと、しばらく間を置いて、今度は季刊綜合看護の寄稿掲載号が次つぎと送られてくるに及んで、三木さんが解剖学者として磨きがかかる一方で、気宇壮大な自然哲学者に大成していくのを、まざまざと思い知らされた。
 こうなると、その都度手短な感想を礼状に書き添えはしたものの、三木さんの深遠な思索に太刀打ちできるような応酬は到底できなくなり、その折の文通以外で最近二十年間に言葉を交わしたのは、お互い思い出したように交換しあう気まぐれな年賀状(それにしても葉書や便箋にしたためられた彼の水茎の跡は、用箋ともども何とも優雅なものであった)と前後三回ほどの長距離電話だけということになってしまった。
 そして最後の通信は、彼が脳出血で意識不明になる(これは平光試iさんが知らせて下さった)十日程前、こちらから彼に送った故西 成甫先生の追悼文の別刷進呈を兼ねたものであったが、これに対して彼は、遂に返事をくれないまま、冥土の旅に立ってしまった。
 こんな訳で三木さんとの交遊は、実質的には、昭和三十年代の後半から四十年代初めにかけての短期間に過ぎず、正味の時間も決して長くはないのだが、その印象は容易に脳裡から消えるものではない。
 思い出の中で、何といっても強烈なのは、彼のデリケートな感受性と洞察の深さである。前述のことを含めてそれは枚挙にいとまないが、最近の斎藤達朗教授がご紹介下さった、三木さんの遺稿“植物神経の Phylogenie ―いわゆる副交感神経と交感神経の起源―”で、改めてその感を深くした。それにしても、生体の科学の同じ号に、斎藤助教授の注入術式と(血管発生に関するものでないとはいえ)三木さんの遺稿が同時に掲載されるとは、何という奇しき因縁であろう。
 人間的な側面についてもう少し書き加えると、浦先生に対する三木さんの傾倒ぶりは並大抵なものではなかった。僕がドイツ留学中、昭和四十年から四十一年にかけて半年ほど一時帰国した時、浅見一羊兄と三人で一夕を共にしたことがあるが、話の途中で浅見兄が三木さんに、誰から最も強く影響を受けたかと訊ねると、三木さんは即座に、「浦先生」と答えた。数年前、当時現職であられた東北大・法医学の赤石 英名誉教授が、腰椎穿刺の医療事故に関連して、脊髄の動脈のことで三木さんに面会を希望され、取り次いだことがあるが、「浦先生に何か」とせき込んで訊き返し、用件が分かると、電話機の向こうで安堵のため息をついた。
 初めて見掛けた時が、ひょうきんに振舞っているところだったので、その第一印象が初めのうつはなかなか頭から抜けからなかったが、一対一で接する三木さんには通俗さはみじんもなく、あるのはただ無類の純粋さだった。
 今でもそれは手元にあるが、東京医歯大で骨学を担当している時、自分はこういうもので試験をやっていると言って、輪郭線のほかは、ごく限られた線や塗りつぶしだけで陰影を付け、それに引き出し線と矢印で学名を記入させる、自作の試験問題をくれたことがある。
 記憶に間違いがなければ、三木さんは法政大学でも非常勤講師をやっていたはずだが、「僕の講義は学生が面白がって、大勢熱心に聴いてくれる」と大変得意そうだった。
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 三木さんは今頃、三途の川を渡り終え、川原で身支度を整え直し、「さあ、これからが本番!」と、はるかな須彌山を仰ぎ見ながら、果てしない生生流転の旅路を辿り始めたところだろう。一方、現世の僕は、停年のおかげで憂き身を解放され、これからなお時どきは、その後の蘊蓄を、三木さん自身から聴かせてもらえたかもしれないというのに、幽明境を異にしてしまい、今はただ書き残されたものからしか、それが叶えてもらえないのを、詮なくかこつばかりである。
 
(東北大学名誉教授 解剖学)