60. 三木ヶ島に漂着した一匹の魚
 
武田 滋
 
 この時代の特異なところの一つに何事も分析せずにはおかないと云うことがあげられます。それは技術の先端にかぎらず、あらゆる分野に浸潤しているように思われます。そしてその危険をようやく気付きはじめたのも、われわれの時代でもあるのです。そんな時代にも生産と遠く離れたところで自然との交感作用を試み続けコツコツと地下水脈を掘り続けている人達がいるものです。甚だ独りよがりの選択ですが、シュタイナー。ダーシー・トンプソン。ライアルワトソン。テオドール・シユペンク。カプラ……三木成夫、その人もその中に連ねられる一人だと思うのです。そして我々は実際にその作業(オプス)の片鱗に接することが出来たことは大変幸運なことだと云わねばなりません。恐らく三木先生に会った人はとりもなおさず青年、いや、何万年もの知己に会ったとしか思えない体験をしたに違いないと思っています。恐らくそれは先生の中に古代人がもっていたアニミズムを濃厚に持っておられたからではないでしょうか。抽象的な思考にも動物的な事象にしろ生き生きと表現されるとき、それはエロチックでさえありました。そう云う私も魅了されたものの一人であります。私の場合、五十年の歳月をかけてたどり着いた一匹の魚に例えてみたいのです。と云いますのも私は少年の頃から魚に特別の感情を持っていました。又少年の頃に魚との出会いがなかったら、三木先生との出会いもなかったと思っています。近くの小川のせせらぎに入っては魚の泳いでいる姿を見ていると時のたつのも忘れてしまっていることが多かったものです。家には池がなかったものですから、身の丈もある漬物樽を買って来て、その中に川魚達を入れて飼っていました。夜、ローソクの光で深い水底を照らすと黒々とした鮒や鮠たちが悠々と身を沈めているのをみると心は至福にみたされてしまうのです。今にしてみれば魚との同一化はこのようにして始まっていたようです。夢にも頻繁に現れるようになり、体の調子が快ければ、小魚が清水に群をなし、暴食などで内臓がくたびれてくると下水の水の中に傷を負った鯉となってあらわれて来ました。それが絵画表現に関わって来たのは三十代の初めになってからでした。表現してもどこか不如意なところのあった私のキャンバスに或る日突然管状の形態がでてきて、それが言葉でいい表わせないのですが粗型的で、少年時代から続いている魚の象徴ともどこかで通底していると云うこともすぐわかりました。それが私には何か太古の形象と関係があるように思えました。画面の中でチューブの形を発展させることで古生物学の世界にイメージとしてたどれないものかと思い付き、やがてチューブ状の形態は腔腸動物となり軟体動物にも変貌してゆくのですが、いよいよ脊椎動物の魚の到来となりますと、日本画家が掛軸にかくような魚はどうしても描けない、何か太古の原魚のようなものを描きたいと思いつつ坤吟していた頃、友人が参考にとゲーテ全集Uの形態論をもって来てくれたのです。内容もさることながら、その巻の月報を見て少なからぬ衝撃を受けました。三木先生の口腔から肛門への内臓感覚がまことに簡潔にそれも見事にかかれているのです。「地上とは思い出ならずや」と云った足穂がAO感覚をメタフィヂックに展り広げた円筒の発想よりもっと触覚的で力強い想像力があるのです。足穂の円筒の中が「無」であるのに対し、先生のそれは宇宙塵がゴウゴウと吹きまくっているように思えたのです。短い期間でしたが直接先生の講義が聞けるようになって、行き詰まっていた世界に少しつつ光がさして来たように思えました。何十億年の形態の流れを実証と直観力で一瞬のうちに次々とピンで止めてゆかれるような作業の軌跡は破綻などものともしないダイナミズムがあります。そして今まで下ばかりみつめて這って来た重くて時い世界に流動的な光の軽やかさを気付かせて下さったように思えるのです。座標軸で云えば地軸と光軸がかくゆるやかな抛物線上の物象が少しつつみえて来たのです。そして魚はもちろんのこと森羅万象が悠久の水の流れのように可塑性に富んで動そのものであること、したがって世界を捉えるには、ホワイトヘッドが世界は縫い目のない織物と云ったように物の輪郭を一度洗い落すと云うプロセスを踏まなければならないと云う課題が浮上して来ました。今これを三木先生に報告することが出来ないのは残念ですが、ガウデイのサクラダファミリアが今も後続の人達によって作り続けられているように、この貴重な遺産をそれぞれの個体を通して展開してゆくこと、それが人々のもつことのできる文化と云うものではないでしょうか。最后に三木先生のご冥福をお祈り申しあげます。
 
(東京芸術大学彫刻科出身)