65. 形態学者と一洋服職人の出会い、
デルマトームへの道
 
中澤 愈
 
 きょうは西田先生からかねがね聞かされていた三木先生の洋服を作る日だ。三方向から写真撮りして、その上に最もバランスのとれた服を書き込んでみよう。そんな計画を立てながら、私は当時在籍していた芸大西田研究室を後にして、東京医科歯科大三木助教授室に向った。昭和三十九年春のことである。
 採寸になって、私は三木先生の肩に軽く手を宛てがってみた。
“着心地の良い服を作るには、肩の形が土台になるものですから……”
“わたしの肩はどうですかァ”物静かな独特のイントネーションである。
“ええ、前肩と言って、上腕骨頭部が前に突き出している難しいタイプです。胸郭と肩関節の位置関係でこうなると思いますが、内部の構造が良く解かりません”夢中で、芸大の美術解剖学で習い覚えた用語を、やたらと並べ立てていた。
“ハアーそういうことを知りたいですか”
“ええ今一番勉強したいことです”
 この初対面の一連のやりとりを、先生はどのように感じとられたのであろうか。草木染めの心情に訴えるような柔らかい色のホームスパンなどを見つけると、フトコロ具合も忘れて、まるでいとおしむように買い求めてしまう先生である。もし先生に、衣服に対するそういう興味、デリカシイが無ければ、私のこの最初の出合いは多分それまでのことであったろう。
 その年の秋、解剖学教室への出入りが許可された。一年がかりのビルベルゾイレのスケッチが始まったのである。“あなたの解剖学は、毛穴から自然にしみ込むようにじっくりとやればいい、急ぐ必要はない”先生のこの一言が、私を解剖学に長居させる動機となった。もちろん正規の学生には有り得ない言葉であろう。この言葉の眞意は後で理解された。ヒトという形態に至る迄のドラマティックなメタモルフォーゼを、ムーブマンという悠久のリズムを、恰かも仏像の光背のように背負った三木先生の、形態学者としての一つの姿であったろうか……。
 三木先生の私への指導は、医学解剖を貫きながらも、暗に衣服から離れずに要点を突いていた。そして厳しくも丁寧であった。私は尊敬すべき二人の師に恵まれたが、両先生に共通していたことは、世俗に冷淡ではあるが、こと学問上になると、それに対する異常なまでの執着と教える時の慈悲にも似た親切さである。そこにいささかの打算もない高潔感があった。第一級の学者とはそうしたものであろう。このような師に再び出会えることはあるまい。思えば、私は過分な学恩を受けた果報者であった。私は洋服職人の分際で、何時しか解剖学にのめり込み、皮神経の剖出に熱中していた。
 とある日、やや昂奮気味の三木先生から、衣服構造線はデルマトームに似ているのではないか、との示唆である。ヂルマトームと衣服、言わば人体を被うゆとりゼロの衣服に例えられる一続きの皮フに、縫い目接ぎ目に相当するものがあるのだという。人体を基礎とする衣服構造にとって、これは大変なことである。自然の造化の妙に、人為的造形が結局のところ似通って行く。あり得ることだ。その日、夜中になっても昂奮が静まらなかった。
 肉眼解剖による皮神経末梢分布の精査には、自ずと限界がある。皮節構造が一筋縄では行かないこともわかる。しかしそれは問題ではない。学問の深さ偉大さを、解剖形態学の神髄ともいえるデルマトームで教えられたことが、私にとって何物にも代え難い宝物なのである。三木先生のこの教えが、私の人体衣服理論のバックボーンであることは言うまでもない。私は信条として、究極これに勝る衣服用人体は無いだろうと思っている。
 しかしデルマトームの道は果てしない。果たせなかった三木先生とのシルクロードへの旅が、何故か重なってくる。
 三木先生を思うとき、西田先生と切り離すことができない。孤高の弟子に引かれるように、西田先生もまたその後を逝った。私の小さな身体に大きな穴が二つあいた。淋しい限りである。
 
(東京医科歯科大学解剖学専攻生・実渡女子大学被服学教授)