66. 三木先生の想い出
 
永山 聡子
 
 扉を開けると白い光の中に男の人が立っていました。
 周囲のぎわめく人々と違い、そこだけ空間が静かにとまって見えました。
 私は、その人が三木先生だと気づくのに、しばらく時間がかかったように思います。なぜなら先生は講義をしている時と全く違う表情をしていたからです。眼だけをギョロギョロと動かし舐めまわすように何かを見続けていました。私は先生のいる空間に吸い寄せられるように歩いていったのを覚えています。
 そこは、私の絵(自画像)の前だったのです。
 先生は私の婆を見て驚かれたようでした。そしてふたたび絵をご覧になって
 「今日、なぜかここに引き寄せられるようにして来てみたら、この絵に会えたんだよ、これは子宮の叫び声がするね。」
初めて先生が私におっしゃった言葉でした。先生の口から『内臓感覚』の話が次々とでてきました。私は今までに触れたことのない世界にどんどん引き込まれていきました。私が二十歳、東京芸大の芸術祭の時のことでした。
  はらわたで感じたものでなければ
  はらわたで感じない。
それから私は一切のカッコを捨て、自分の体で実感したことのみを画面にぶつけようと努力しました。それが見る人の内臓に響けばそれでいい。人の目より自分の目を大事にしだすと気づかなかった多くのことが見えてくるようになりました。
 先生が研究されていた胎児の世界は私の人生にとってとても大きな出来事でした。それは同時に自分が女性として生まれてきたことに対して大きな誇りと感謝の気持ちをいだかせてくれました。それから六年後、私はどうしても胎児の姿をスケッチしたいとお願いしたことがありました。六年間胎児の姿を『まだ出見る時時期ではない。まだ見てはいけない』と思い続けてきました。なぜなら、それは決していい加減な気持ちで接してはならぬ世界だったからです。自分の中の実感として感じられる時がくるのを私は待ちつづけていたのです。
 先生は私のために一室を用意して下きいました。私はまるで厳かな儀式を受けているようでした。先生から胎児を手渡された時、私は全身がボウッと熟くなっていくのを感じました。白い光につつまれながら私は真剣に胎児との対話を試みたのです。かなりの時間が過ぎたと思います。疲れ果て部屋を出た私を先生は穏やかな笑顔でむかえて下きいました。本当に貴重で有り難い体験をさせていただいたと感謝しております。
 先生から多くのことを学びました。しかし、学び足りませんでした。また先生を通して多くの人々と出会うことができました。それらすべてが私の財産となっています。あとはそれを生かし、私自身がどう成長していくかが大切なことだと考えています。
 今でも扉を開けると先生が立っておられるような気がします。
 先生が興奮して髪をくしゃくしゃにしながら『どでかいやつを描きおったな。』と笑い出すような絵を描きたいといつも念じています。
                                    (画家)