69. 三木成夫先生の描いた解剖図
 
布施 英利
 
 三木先生は、芸大の生物の講義でご自身が描かれた解剖図のコピーを学生に配布したりまた先生はご自身の著書にも自作の解剖図を載せられている。
 ところで三木先生はご自分の解剖図に相当の「自信」を抱いていた、と僕は「読んで」いる。事実、先生の口から「胎児の絵の個展をひらきたい」という話を問いたこともある。先生がそのような思いを抱いたのは、「胎児の絵」が主題として珍しいから、といった理由だけではないと思う。もちろん自身のデッサン力の腕前を他人に見せつけよう、といった自負心からでもない。それは先生が「図像」というものの本質をはっきりと理解していたからである。そして、それを自身の解剖図の中で実践しているところから発する自信が「個展をひらきたい」といった思いに至らしめたのではないか。
 では三木先生がつかんだ「図像の本質」とは何か?
 それは先生が描いた解剖図自身が語っていることである。たとえば『胎児の世界』の中の図を見て戴きたい。そこには載っている図は二つのタイプに分類できる。内腰の構造を単純化して描いた模式図に代表されるグループと、胎児の顔を描いたものである。そしてその「描き方」はまったく異なっている。模式図は、直線と曲線の組みあわせだけで描かれている。その線は形態の「輪郭」をなぞったものである。一方の胎児の顔は、点の集合だけで描かれている。そしてこちらには「輪郭線」が全くない! これは凄いことである。ここには「内容と形式」の完全な一致がみられる。
 しかしこれだけ書いただけでは説明不足であろう。以下でその説明を少ししたい。
 私事で恐縮だが、養老孟司先生と共著で『解剖の時間』という本をだした。それは過去の解剖図を集め、そこから「解剖図とは何か」という問題を抽出することを試みた研究であった。そこで採った僕たちの立場は「解剖図とは脳内過程の報告書」ということだった。その原稿ができた頃、それを三木先生に読んでいただいた。先生は、
 「じつは、わしも、そういうことを考えておったんじゃ。」
と、おっしゃった。先生が考えていた「そういうこと」というのは、要約すると次のような結論のことである。『ビドロー解剖図』には形態を描くのに輪郭線が使われていない。しかしそれを模写した『解体新書』の方は、「ないはずの輪郭線」で描写している。ここに「ヒトのものの見方」の二つの極性があらわれている。前者は「目」の機能を純化したもので、後者は「目プラス脳」の働きのあらわれである。
 ところが三木先生はすでに、自身の解剖図でその極性をきちんと使いわけていたのだ。
 『解剖の時間』の感想を「こりゃ面白い」と褒めてくださりながら、三木先生は自身の「胎児の絵」の本質を説明した。その一部を簡単に記そう。先生ははっきり「脳」という言葉を使って、その機能との関係で上記のような図を描いた、と話された。例えば、胎児は顕微鏡ごしに見るので「触覚的」な存在感がない。しかも現段階では胎児の「原形」というものをつかめていない。自分にとって胎児は、まだ「いま・ここ」の存在だ。だから輪郭線で描けない。しかしいつか「胎児の顔の原形」を輪郭線で描きたい。といった話だ。
 先生が亡くなった夏の始め、那須の研修施設で三日間、先生たちと過ごした。東京に帰って数日後、芸大の保健センターに伺った時には、ソファーに横になって雑誌を読んでおられた。僕が部屋に入ると「おおっ」といつもの調子で迎えてくれた。雑誌は半年ほど前の『へるめす』だった。その古い雑誌には中村雄二郎氏が書かれた三木先生の研究に対する評価が論じられている。三木先生はそれを嬉しそうに、(半年たっても)くりかえし読んでいた。その数日後、芸大では話せないこともあるからと、東京駅の精養軒に僕を呼びだし、突然いろいろの「裏の話」を語られた。そんなことはもちろん初めてのことだ。そしてそれは「最後」のことでもあった。そこで別れたのが先生との「本当の別れ」となった。先生が倒れた、と開かされたのはその四日後のことだ。
 それから二年たった。僕は論文を書き、新しい本もだした。それなりに自分の研究をまとめてきた、と思う。しかし三木先生が生きていて、僕の原稿を読んだら、また、
 「じつは、わしも、それを考えておったんじゃ。」
と、言われそうな気がしてならない。僕が考えるくらいのことは、みんな三木先生は知っているんじゃないかという気がしてならない。けっきょく僕は三木先生の掌(のごく一部)の上をうろうろしているだけなのかなあ。先生がいなくなった今、もう新しい言葉を聞くことは出来ない。
 「じつは、わしも、それを考えておったんじゃ。」
この呪文のような言葉は、一生、僕についてまわることになるのかもしれない。
                                    (美術解剖学専攻)