7. 墓碑銘
 
石間 祥生
 
三木成夫(大正 十四年 十二月 二四日生  昭和 六二年 八月 一三日没)
 八月の或る暑い月曜日の朝、常の眠りより醒めぬ 主人の大鼾に驚いてから、凡ゆる手当の甲斐も無く 一三日(木)遂にその眠りより醒めること無く 息を引き取った。 同月一六日(日)本郷の喜福寺で 法要が営まれ、有縁の住職に導かれて 成佛した。 厚仁成道信士と戒名す。 葬儀に駆けつけた 多士済済な人々が 奇しくも 門前に群立した。 その因と縁との不思議は 如何ともまことに 看破し難いものがあった。
 三木さんは、讃岐 丸亀の医家の四男に生まれ、天分に惠まれて 芸を好み、泳法に凝り、書画を能くし、楽に誘かれ、造形を志した。 岡山の 第六高等学校から 九州帝国大学に 航空工学を学び、大東亜の聖戦 一敗地に塗れて 学科の取り潰しに遭い 廃学した。 その後 上京して、焼け野ヶ原の帝都に立って 何を思ったのであろうか、やがて 提琴を奏でることを覚え、東大の医学部に籍を置いて 遊学の口実とした。 そして、弦楽四重奏団を編成し 疾風怒濤の日々を夢中に過ごした。(後に、一人は共産党の細胞とて レッドパージの際に 地下に潜行し、一人は 結核に斃れて 遂に霧散す。)
 いつしか 己に沈溺し、解剖の浅見氏の勧めで 東京女子医大に 千谷七郎教授を訪ねて 方途を見出す。
 斯くて 冨永半次郎先生の門に入り、散文的な徒輩を尻目に ヴァヤダンマサンカーラー の 実修に明け暮れることとなった。
 三木さんとの出会いは、東京医科歯科大学の助教授として赴任されて間もないその様な時であった。昭和三十二年(医学部一年)の春の頃である。 解剖学の講義は異色であった。 関東軍の第三軍に属し、延吉で ソ連軍と戦い、戦後の2年間を 満州の俘虜収容所で過ごして来た者にとっては、戦後の日本人は いかにも腑抜けていた。 死地から這い出してきた者のみが知る、腐敗堕落した同族民に対する苦々しい思いが、己を何物かに駆り立てていた時であったから、互いに相い通じるところがあったのかも知れない。
 諏訪紀夫さんの病理学総論に借りての「病気」の概念、ゲーテ が ボアスレーに宛てた書簡にみられる「自利利人の法による破綻」、脳の「個体発生と系統発生」の話題等々は、テレオロギッシュ(目的論的)な学説のみが猖獗を極める医学部にあっては一陣の涼風であり、興味深いものがあった。それから お付き合いが始まり、屡々、招かれる儘に、お宅に幾度も、お邪魔したりもした。
 卒業後は 何時の間にか 足が遠退いてしまったが、その後も 法華の佛神力に 釈尊五蘊のたよりを求め、ゲーテの苦悩を苦悩とし、その一向きな 先生への信仰の姿は、幾多の心ある人々を 魅了し続けたに違いない。 その後も、モルフォロギーんお研究に打込まれ「形態の謎」に挑まれ、飃々としてとらわれのない三木さんの生き様は、臈長けて 益々、寒山拾得の風貌を 彷彿とさせるものが有った。
 芸大に移られ 益々円熟されつつある時に、皮肉にも その「不自然な形態の脳血管」の故に他界されて仕舞われたことは 惜しても余り有る事であった。 
 美しく若い惑いの日々の思い出の一時に、百千万劫遭遇うこと難い出会を不思議の夢と思い起こす次第である。
 
     むかえひの夢か名残の十三夜
 
(茨城県立中央病院 神経精神科)