70. 三木先生の思い出の千分の一
 
堀越 千秋
 
 私が芸大油画科に入学した年(昭和四十四年)の秋頃だったか、美術解剖学に医科歯科大から新しい先生が来た。やせて思索的な風貌のその人は、始めての授業でこう言った。
 「この世に絶対はありません。一切は、相対的なんです。」
 この人が三木先生で、思えば、これこそ“リズム”への入り口の一言なのだが、当時の私の「哲学」にこれは反するように思われたので、授業が終わると早速質問に出かけた。何をどう質問したのだったか、もう覚えていないが、同じく質問をしに出て私の隣でものもいわずにじろじろ先生を眺めまわしたのは小林英樹という長身の男で、これには先生も驚かれたようで、のちに『胎児の世界』にお書きになっている。教室から出ると小林は、
 「あの先生、何だか面白そうだね」
と言い、その後われわれは、何かと上福岡のお宅へも押しかけるようになった。
 ある真の終わり、小林の発案でお月見をした。ライトバンにゴザと酒をつんで、先生と奥様と、生まれたばかりのさやかちゃんを乗せて、新河岸川の雑草生い茂る暗い河原へ下りて、月見をした。先生は、「ウーム、こんなことは医科歯科の学生にゃ思いもよらんことじゃが」と言って喜ばれた。
 私は、何か面白いことや注目すべきことがあると、先生に御注進に及ぶのだったが、すると先生はお得意の「ホーッ」を発せられるのだった。(後年、私はスペインに住むようになって、帰国の折々先生の研究室を訪ねると、やはり若い学生達がさまざまな“面白いこと”を御注進に押しかけていたのである。)
 学生の頃、芸大の大浦食堂でだったか、「先生はこれを読まれましたか?」と、稲垣足穂の『少年愛の美学』をお貸しした。後日、又大捕で、先生は興奮して言われた。「いや、あれは凄い。私の言わんとするのはまさにあの世界ですよ。口と肛門、これですよ。……」
 足穂の幼な友達で、しばしばその作中にも登場する、“ひなたの猫みたいな目をしたN”とは、「人体美学」の故西田正秋先生のことで、三木先生は西田先生を尊敬しておられた。足穂を先生にお知らせした縁もあって、ある冬の日、先生のお供をして西田先生のお宅を訪ねた三木先生は、あらかじめ私に言われた。
 「君、西田先生の前では笑ってはいけませんよ。いや、笑ってもよいがバカ笑いをしちゃいけません。おこられます。」
 こういうところが三木先生のたくまざるユーモアであった。私はこの時すでに笑ってしまい、西田先生のお宅でもまた、コタツを囲んで西田先生の話に笑いころげてしまったのだが、西田先生は怒らず、上機嫌で、足穂の作中にもあるとおり、鉄棒から幼足穂が墜落する様を指で演じて下さった……同じコタツの反対側で、三木先生はあくまでも緊張したままで笑っておられたのがおかしかった。この時私は生意気にも、西田先生に向かって、「先生の文章は何か生き生きとしていますね」などと言った。すると西田先生は笑って、「いや、他の奴らの文章が死に死にしているだけだよ。」と言われた。(天を突く総立ちの白髪の西田先生は、この後スペインで見た初夢の中、富士山の形態についてのお話以来お会いしないまま旅立ってしまわれた。)
 この日、三木先生は全く緊張したままであった。いつもゆったりとリラックスされて、笑っては、興にのるとお顔をつるつると撫でられるあの三木先生ではなかったが故に、たのしく思い出される。……
 何年かぶりでスペインから帰ってお会いした三木先生の頭髪は、西田先生のようにまっ白になっていた。……
 やがてまたスペインヘ戻る私を見送って、先生は芸大の研究室から校門の外まで来て下さった。その時、長い白髪をかきあげた様子がはっきり目の裏にある。それでは、と礼をして歩き出し、ふり返ってもう一度そのうしろ姿を目にとどめた。その三年前の御姿以来、今日に至っている。
 先生はよく、「私の言っているようなことは、あなたがた芸術家はもうとっくに解っているんですよ。」と言われた。しかし、先生の言われることは、私にとって新鮮であり、大変に興味深かった。それをひとつずつ思い出すのはむずかしい。私は、先生の言われるまま、初めから解っていたような気になって、先生の学問の断片だけを“楽しんで”いたのであろう。だが、そんな私でも、先生が何か大きな環のようなものを描きつつあったのはわかる。その環は時間軸の方向にずれつつ、閉じることなく連なっているはずだ。――らせん。
 先生は今、もっと身軽になってその環を巡っておられるはずである。
 ただ、お会い出来ないのが悲しい。
 
(画家。在スペイン)