71. 三木先生との出会い
 
間壁 治子
                                   
 昭和四十八年四月、私は芸大の美術解剖学数室の研究生として、週一回中尾先生のもとへ通うようになった。まだ、現在の中央棟が完成せず鴬谷に近い上野図書館の先のグラウンドにあった古い木造建築が美術解剖の研究室であり、同敷地内には保存科学のプレハブの研究室があった。
 三木先生もこの年に芸大に移られ、保健室(保健センターもまだ完成していなかった)においでになり、学部の生物と保健、大学院の授業を担当されていた。
 三木先生に初めてお目にかかったのはこの仮校舎である。修士課程の今井君、田辺君の指導にお見えになったとき、両君に紹介された。
 三木先生の第一印象はとにかく痩せているということであった。仮校舎は昼間でもなんとなく薄暗く、室の奥に陣取った先生は眼ばかり目立つ感じであった。
 先生「専門は何ですか?」 私「被服です」。先生は「又か」という表情でじっと私を観察されていた。その日は「ズボンを穿いて胡座をかくと引きつれてかなわない。これはなんとかならないものですか」などとたわいのない話をしてお別れした。
 後で解ったことであるが、前年まで名古屋女子短期大学の栃原きみえ先生が研究生として中尾先生の許に来校しており、三木先生は『頚部の形態的特徴』を栃原先生に指導なさっていた。「又、被服関係の人間が入室したな」というのが偽らぎる感想であったと思う。
 しばらくして御子息が誕生され、お赤飯のお弁当を持参され、中尾先生と嬉しそうにお話されていたのが思い出される。
 私がようやく芸大のシステムに慣れだした六月頃であったと思う。たまたま三木先生と一緒に上野駅まで帰ることがあった。
 先生「被服を教えていて人体計測とかやりますか?」 私「はい」 先生「ヒトの体型と姿勢・からだつき等には何か一連の関連がありますか?」 私「被服の適合を増加させるため、試着・補正ということを行いますが、個体差と補正因子の間には一連の関係があり、体型特徴と補正とはみごとに重なります。現在、大きさの因子(サイズファクター)のみの計測でなく、写真計測を併用して、視覚的にとらえられる形態的特徴をいかに集約し被服のための体型分類が可能か検討しています。」 先生「ほら、例えば肩下がりと姿勢との関係はあるの?」 私「ええ、撫肩の人は背が丸く腹部が胸より前突し殿部が下る。姿勢はゆるいS字状のカーブを描く。怒肩の人は平背、胸が張り出尻で姿勢が良い。等の視覚的判定は可能です。」……
 三木先生は眼を大きく見開き、頬をうっすらと紅潮させて大きくうなづいていた。是非、代表的な体型特徴をもつ被験者の写真を見せて欲しいと言われ、その日は駅で別れた。
 次の週、資料を持って伺った。
「あの時、体型と姿勢・からだつきとの間には一連の関係があるといともあっさりと答えが返ってきたので、聞いたとたんに心臓がドキドキする位驚いた。東洋医学では『虚』と『実』の二体型分類があり、貴女の答えはそれを裏付けるものであった。」とおっしゃり、百済観音の姿勢の話をなされた。持参した資料はスライドにし、芸大の授業で活用された。
 私にとって大きな位置づけを与えられたこの研究テーマは、以後、定性的検討から、永村寧一先生(現・製品科学研究所・基礎人間工学部部長)の御指導により、多変量解析を用いての定量的解析へと移行し現在も続けている。三木先生は、定量化に関しては自分には必要のない次元のこととして興味を示されなかった。
 ゲーテの形態学に傾倒され、自然哲学的生物学の『かたち』の世界を基盤とされた先生としては当然のことと思う。
 中尾先生の海外研修の間は美術解剖学の骨学と筋学の代講を務められ、その期間は授業の準備のお手伝いもあったので毎週三木先生独自の形態学の世界を満喫させて頂いた。
 時々、御子様達の写真をお見せになり、子供の心身の発達段階を眼を細めて語っていた。その姿は高名な解剖学者のものではなく、父親としての喜びに溢れていた。
 三木先生には修士論文の副査もお願いしたし、折々に大変お世話になった。共に、ヒトを対象とするという共通点はあったが、出身も専門分野も異なる私は時として先生の考えとは異なる方向へ進まざるをえない面もあった。
 お亡くなりになる前、数年間は私事にかまけてお目にかかるのも年一回位であった。落着いたら、また、じっくりとお話を伺い御教示頂きたいと思っていた矢先の訃報であった。
 
(被服人間工学・共立女子大学)