74. あたまとこころ
 
宮永 美知代
 
 ライオンのたてがみのようにふさふさとした白髪を、長く真っ直な細い指で、無造作に後ろに掻き上げられる先生の婆が、今も深く印象に焼き付いている。
 先生に初めてお会いしたのは、私が東京芸大の大学院で美術解剖学を専攻するようになってからであつた。痩せた肩にライオンのたてがみ、最初は少し近付き難くも感じた。
 生物学の講義で、先生が語られたへッケルのRecapitulationは、当時の私にはその言葉の深意を掴めるだけの土壌がなく、『コタイハッセイハケイトウハッセイヲクリカエス』というまるで謎めいたカタカナの呪文に等しかった。先生の講義の回数が重なるにつれ、また先生の胎児の世界を徐々に紐解かれ、多くの例を揚げられる中で、検証不可能な、けれども先生が身をもって語られたわずかの期間に森羅万象を凝縮し、体験してくるこの命の大きなうねりが、徐々に肌から染み入るように自分の身になってゆくのがわかった。
 本当にそれが必要な人でないとこれを話してやる意味がない。というようなことを先生は時々おっしゃった。おそらく私に対しても。先生はそのような配慮をして下さっていたように思う。
 先生の講義の中で最も印象に残っているのは、美術解剖学の大学院のために開講された講義で、L・クラーゲスの『表現学の基礎理論』を一緒に読むというものであつた。当時、院生は私を含めて四人おり、読み進めながら先生が解説してゆこうとおっしゃった。時間外には保健センターの先生のソファーに腰掛けて、時には酒を飲みながらの講義の続きもあつた。ただ目次を読みこなすだけの数日があり、第四章『原始知覚は性情知覚である』に入った。先生はクラーゲスの言葉を借りて、人間のあたまnous/Geist・こころpsyche/Seele・からだsoma/Körperの関係を、Geistが項点に、Körperが底辺にくるピラミッドに描いて、その支配、服従関係を示された。あたまによって支配される肉体と身体。あたまとは精神・意志であり我執である。この両者に挟まれ、こころがある。これは「性情知覚」と訳されておられるところの直観である。自然の振幅と共振して感じる気持ちである。残念ながら我々は子供の頃、豊かなこころを持ちあわせながら、六才の六月六日、智恵の木の実を食べて以来、この感覚を日常の中で失いつつあると言う。
 次に先生は、あたま・こころ・からだの3つの極が三角形のそれぞれの項点に位置する図を描いて、これら3つの極のバランスがとれている状態が人間として望ましいので、決してあたまが勝って、こころを殺してはならない、直感を上まわる理性を持つことは苦しみである、と言われた。中で先生は私を、こころ、すなわち心情極の豊かなものとして認めてくださっていたようである。この、あたま・こころ・からだの3つの極性についての講義は、最も私の胸に深く刺さった。私に、常にまとわりついていた、自分が一体何物であるのか知りたい、という意識的欲求に対するまごうことなき解答を得た思いであった。
 
 主著『胎児の世界』をつくられる時、私は先生に近いところにいた。時々センターに伺うと先生は御本の進行状況を話して下さった。終葦までの全ての章があらかた書き終えられた時、「今度、伊良湖岬へ行って来ようと思う。」とおっしゃった。伊良湖岬は藤村の『椰子の実』の歌のできた場所で、椰子の実とともに漂著したであろう日本人にとってはへソのような場所である。その思いを確かめに、三木先生は子宮回帰の思い深く、この場所へ旅立たれた。
 そんなある時、先生に「君に焼いて貰いたい写真がある」と言われた。
先生の持ってこられたネガは、「プロトプテルス」、「受胎三十四日のヒトの胎児」、「ミツユビナマケモノの赤ちやん」、「恐竜の糞化石」、「伊良湖岬」、「伊勢神宮の外宮」という『胎児の世界』の写真図版の多くであった。
 当時、私はまだ芸大の大学院生で、写真も一通り技術をマスターしたところであつたが、先生は「プロに焼いてもらったらいいようなものじゃが、印刷室で見ず知らずの人に焼いてもらいとうはない。たかが写真ではのうて、この世界がわかる者に焼いてもらいたい。写真にはこころが出るんじゃよ。」とおっしゃった。特に伊良湖岬と伊勢の外宮は、先の旅行の先生手ずからの撮影によるものであった。思い深く、逆光を厭わず撮影されたと見え、波の色が跳んでいた。先生は印画紙を選びながら、「伊良湖岬は神島、答志島が消えずに見えるように焼いてほしいんじゃ。」とおっしゃった。私は日を選び、黙々と何枚も失敗を重ねた末、これらを焼いた。
 助手になって、研究や教室の運営の手伝いが仕事となり、物理的に三木先生のところに伺うことが出来にくくなり、少し先生と距離ができた。それでも中尾先生との共著『美術解剖学アトラス』をつくっている中間報告をすると、右脳と左脳の極性から解説され、「図は本の頁の見開きの左側にくる。これは鉄則じゃ。」とか、「図の引き出し文字の大きさの選択は、頁全体を引き締める効果があるので重要である。」などの実際的な助言をいただいた。本が出来上がった時も「そうか、できたか。できたか。」と喜ばれ、品格があると誉めて下さった。「気にいらない図もあろうが、改訂の度に徐々に換えていったらええ。本というのは、最初は全体の三分の一の図に満足がいく程度であれば上出来と思たらええ。」と激励して下さった。
 
 三木先生が亡くなる直前、私は先生に研究上の相談を持ってセンターに伺った。それは顔の発生についてのごく初歩的な興味からきた疑問であった。私は説明し図を示しながらも、胎児を客観的に突き放した対象とみていたことは事実であったと思う。方法を八分まで話しをしかけた時、三木先生は怒り出された。「この胎児のふっくらとした口もとを君のレンズはとらえていない。君は何故このようなことをする。男は、子宮を持たぬものが、こんなつまらぬ研究をするのだ。が、君は自分でそれを身をもって体験する立場にあるのではないか。」
 先生の両手の握りこぶしはぶるぶると震えていた。先生の怒りは私には唐突であった。しばらくの間、先生も私もものを言うことができなかった。
 しかし、私はなお重ねて、自分の目的を主張した。すると。先生は「もうこれ以上、君とこの問題で議論したくはない。」と言われた。先生も重ねて私に何か言いたいのだが、言葉にしようがなかったのであろう。
 私は目の前が暗くなった。それから間もなく先生は亡くなった。
 きっとまた先生にこの問題を話せばわかっていただける、そう思っていた矢先に先生を失った。こんなに怒った先生を見たのも、こんなに強く叱られたのも初めてであった。私は生涯消えない悲しみを負った。
 二年経った今、私の先生から受けた重圧は少しも軽くなってはいない。逆に重く、事あるごとに思い出され、私のこころの有り様を厳しく見とがめる指標になっている。私はこころを失っていた。
 先生が亡くなる間際に、私は考えねばならない 人としての尊厳に関わる啓示を受けた。これは先生が私に残して下さった、宿題であると考えている。今回、ここで、全てを告白することはた易い。しかし、充分熟しきらぬうちに書いてしきっことは、逆に自分を見失うことのように思う。今後、自分でこれを確かめながら歩いてゆくことであると思っている。
 いつか、私はこころでこう思うようになった、と今は亡き三木先生に報告したい。
 
(東京芸術大学美術解剖学教室助手)