76. 三木先生との十四年間
   
本木下 道子
 
 まさかと言うお別れになった。八月八日に大学に電話をかけると、本来は出勤予定でない先生の声がすぐに聞こえた。私事であるが、休暇中だが十五日(土)はカウンセリングの予約のため出勤するという事を看護婦へ伝えるための電話であっのだが。先生は「無理しないでいいですよ、私が出て来ますから……」と受けて下さった。その十五日が先生を黄泉の國へお送りする日になってしまったとは。
 先生との十四年間とは、東京芸術大学に赴任きれてから亡くなられるまでということである。先生は東京医科歯科大に居られる頃から芸大の非常勤講師として生物学を講じておられたこともあってか、芸大に赴任された時は既に芸大を愛し、芸大生を愛し、芸術を愛する気持を強く持っておられた。そして芸大に骨を埋める、心の底から芸大の中に入り込むという心意気でおられる話をよくなさっておられた。今にして思うと、本当にそこまでの気持で毎日を過ごされた先生はお幸せであったのだと思う。
 しかし講義はとにかくとして、保健管理センターの現実的仕事面ではそれだけでは済まないことが多く出て来てしまい御苦労も多かったと思われる。その一つ一つの解決にかなり真剣なつきつめた話し合いをして来た。私にとって今でも忘れられない鮮明な事柄がいくつもある。
 芸大に赴任されるにあたり、先生は精神科医としての仕事をなさるつもりもあったやにうかがっている。したがって、カウンセラーの私の仕事との関係では種々の問題があった。先生は医科歯科大の解剖の講義でもゲーテから始められたと耳にしているが、芸大でもゲーテの十年周期の躁うつ論を語り、クラーゲスの性格論が持論であった。また日本の精神医学者の中では千谷先生を尊敬されていたが、そこから先生独自のうつ病論を持たれ、冬眠療法と称する治療を指示されることが多かった。ドイツ精神医学の流れを汲む(東大の)精神医学には痛烈な批判を心の底に持ち続けておられた。精神医療について、いわゆる西洋医学より漢方をすすめられることが多かった。そんな関係もあってこの分野について先生と本当の意味の共同関係は持てなかったと思う。
 ある夕刻事務官から出先へ電話がかかってきた。三木先生と学生が一室に閉じ籠もって話しこんでいる。これから夕食をするから注文してほしいと先生が言われるが、このままではどうしようもないので来てくれないかということであった。急いで大学に向かい、事務官から状況を聞き、家族への連絡と病院へ依頼した後、部屋から出てもらい、車で病院へ向かった。この時先生は私のお願いするままに、学生の隣に乗車して下さった。またある時は、五時頃帰宅しょうと思っているところへ、先生の部屋に朝から来ていた学生が居なくなってしまったと看護婦からの情報を受けた。職員に手伝ってもらい探し出すと同時に家族にも来てもらい、下宿へ帰せる状態でなかったので病院へ依頼し本人と家人と共に病院へ向かった。この時も先生は私のお願いするままに動いて下さった。先生としては、御自分のお考え、方針があった違いないのだが、緊急を要すると思われるとき、私がかなり強く方針を出してしまう場面では、その通りにして下さっていた。今から思うと人生の先輩である先生に失礼を重ね続けてしまったようである。
 この他に思い出の数を知らない。悲喜、好悪種々である。
 先生はきっと、「本木下さん、本木下さんはそれでいいのですよ……。それがあなたの持ち味なのだから……。」と何事もなかったように言って下さるような気がする(一寸虫が良すぎるでしょうか)。
 十四年間は長かったのか短かったのか、内容はいっぱい詰まっている。内容の濃い人間関係だったように思える。単なる上司という淡々としたものでなく。私としては先生が六七歳の定年になられるまで御一緒に仕事ができるものとばかり思っていた。先生には長命の相があるように思い込んでいた。先生は枯れるように逝かれるものと思っていた。それなのに思いもよらない脳出血に倒れられるとは…。先生の御健康状態について耳にすることははとんどなかった、血圧がどの位なのかも知らなかった。ただ自然食の信奉者でいらっしゃること、漢方薬(?)を毎日飲んでおられるようであったのを知っていたに過ぎない。そばで生活していて、先生の食生活について疑問を持ちながら何も申し上げなかったのが悔やまれる。
 先生は、私の人生で出会った方々の中で、かなりウェイトの重い位置にあり続けることであろう。
 最後に御奥様、御子様の御健康と御活躍を願って筆を置きます。
 
(精神衛生学、カウンセリング 東京芸術大学)